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-落ちてた誰か-




「――う、わああぁぁぁぁああぁぁッ!!」
「――!?」

 あたたかな太陽の光の下、青年の姿が露になったと同時。
 耳をつんざく絶叫が響いて、は反射的に目を閉じ、耳を押さえた。
 それが、隙といえば隙だった。
 たかだか数秒もあるかないかのその間に、気配がひとつ、たちの傍らから離れて走り出す。それに気づいて、ふさいだ目と耳を戻した。
「――ソルさんっ?」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!?」
「チッ!?」
 駆け出したのはソル。
 召喚師は運動不足、そんな公式を覆すかのような――それこそ脱兎の勢いで身を翻していた。
 呼びかけはきれいに黙殺。どんどん姿が小さくなる。
 あともう少しも走れば、枝道がいくつか交差した場所だったはずだ。駆け込まれたら、見失う。
「まーちゃん!」
 応答はない。
 その前に、バルレルはとっくに身を翻していたからだ。
 本気で動けば、彼はなんて比にならない素早さで動ける。
 サプレスの霊気に満ちたこの街ならば、それに溶け込んで空間を移動することも可能かもしれない。
 小さくなるもうひとつの後ろ姿をたしかめて、は、路地から這い出てきた青年の前にしゃがみこんだ。
 ――黒。
 黒い髪、黒い服。
 こちらの気配に気づいて見上げる双眸も、黒。
 のように、紺色や灰色の混ざった夜色などではなく、まったき黒。
 だけどそれは、闇じゃない。
 いつか見たオルドレイクのように、底の見えないものではあるけれど。
 彼のそれは淀みではなく、澄み切った湖を思わせる。
「……そいつよ。エルカが蹴っ飛ばしたの……」
 おずおずと近寄って、エルカが云う。
 彼女の声に、青年は小さく身じろいだ。
「――君が?」
 苦笑交じりのことば。
 それに暖かいものを感じて、は緊張を解いた。
 ソルのことは、バルレルに任せられる。力ずくで引っ張ってくるのは、彼が適任だ。
 荒事に慣れてないとはいっても、男性の体力ってものを甘く見るつもりはないのである。
 なら今、やるべきことは。
 この青年との友好的コンタクト、というわけで。
「ごめんなさい。昨夜蹴っ飛ばされました?」
「……ああ」
「だって、こんな路地に落ちてるんだものっ! エルカじゃなくたって蹴っ飛ばすわよ!」
「……そうだな」
 力ない青年のことば。
 そして気になるのが、腹を押さえている手。
 がそれを問う前に、エルカが「でも」とつづける。
「……ごめんなさい」
「――ああ」
 今朝がたリプレに叱られたのを覚えていたんだろう。
 予想外な素直さで頭を下げたエルカに、青年はやっぱり笑みを見せた。
 安堵の表情を見せるエルカに少し下がってもらって、は青年に手を伸ばす。
「怪我してますか?」
「……」
 言外の意図に応えて、青年はゆっくりと手を退かす。
 どす黒く染まった手のひらを見て、もエルカも目を見開いた。
「――よく生きてますね」
「ちょっと。それってあんまりじゃないの?」
「いや、でも正直な意見なんだけど」
 こびりつき方からして、昨日今日負った怪我ではなさそうだ。
 量を見ても、相当の血液が青年の身体から失われていたろうことが判る。
 しかも、露になった傷口は完全に塞がってなどおらず、――ちょっと突付けば、すぐに血が零れ落ちそうだった。
 一番ひどい腹の部分だけで、その重傷。
 引きずっていた足は変な方向に曲がってるし、擦り傷切り傷レベルになると、もう数えきれないほど。
 が思わずツッコむのも、無理のない状態といえよう。
「……」、
 数度荒い息を繰り返したあと、青年は大きく息を吸った。
 会話のために、そこまで労力が必要なのである。
「――プラーマとエルエル……がんばってくれたんだけど、おれの魔力が切れちまってな。留めておけなかったんだ」
 聖母プラーマ。
 天使エルエル。
 いずれも、中級以上に属する召喚術だ――特にエルエルに至っては、高等とも云っていいレベルである。
 その拍子に、思い出す。
 悪魔と見間違えたエルカの証言。
 サプレスの霊気を濃くまとったニンゲン、と評したバルレルのことば。
 ……だけど、まあ、それをたしかめるのはやることやってからでいい。
 昨夜ソルから預かったままだったサモナイト石を、は懐から取り出した。
 それを見て、青年が目を見張る。
「召喚師――?」
 だけどすぐに、得心のいった表情を見せて。
「……そうか……彼の仲間か? 無色の――」
「・・・・・・へっ?」
 リプシーの詠唱を止めて、は、すんげぇ意外な固有名詞を出してくれた青年を、まじまじと見下ろしたのであった。


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