先ほどのバノッサのそれとは違う、ゆっくりとした、重みを感じさせる歩調。
「……それぐらいにしておけ。バノッサ。こやつは、一筋縄で制御できるモノではないわ」
「オルドレイク……」
出たよ黒幕。
つぶやいたを、オルドレイクの双眸がとらえる。
負の感情に淀んでいるとはいえ、まだハッキリしているバノッサのそれと違って、彼の眼は本当に奥が見えない。
「思い出したか? 貴様のしたことを」
……まだ云ってるんかい、この人は。
「だから、あたしは何もしてませんってば」
「ふん、白を切るのも今のうちだ……」
この中から、貴様が選ばれるのならそれもよし。
よしんば選ばれずとも、顕現した魔王に恐怖して正気を失うもまたよし。
「……どちらに転ぼうと、我が復讐はここで果たされる」
「あのですね。“いいがかり”って単語は、あなたの辞書に載ってますか?」
「てか……オレらまで名簿入りかよ」
そこで初めて、バルレルが口を開いた。
ククッ、と、気味の悪い笑い声をこぼすのは、勿論オルドレイクだ。
「当然だ。ここまで質の良い器がそろうとは、正直思わなかったぞ……」
純正の悪魔。
我が仇敵。
凝りし強大な澱み。
ケッ、と、バノッサが唾棄する。
「ざけんな。選ばれるのはオレ様だ!」
こんなヤツらなんかに、絶対の力を渡してたまるかよ!
「絶対にオレ様が、魔王になってやるッ!!」
最後に、もう一度檻に拳を叩きつけて。バノッサは身を翻す。
荒々しい足音がだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなったころ、バルレルが、オルドレイクに向き直った。
バノッサに対しては沈黙を保った彼も、オルドレイクには何も遠慮する気はないようだ。さっき遠慮してたのかどうかも判らない気がするが。
「で。テメエは何しにきやがった?」
哀れな生贄に、要りもしねェ慰めでもかけにきたか。
「ふむ、それも一興か」
「ケッ。なんもないなら帰れ。悪魔でさえ吐き出しそうな、激烈不味い感情のヤツなんかに用はねぇんだよ」
……不味いのか、オルドレイクの感情。
てっきり負のそれならこだわらないのかと思っていたら、不味いにも不味いでジャンルがあるらしい。
たしかに、おんなじ泥水でも水溜りの水と川に流れてる水は味が違ったから、そういうのと似たようなものなのかもしれない。
遠い昔の辛かった行軍を思い出し、、一瞬懐古モード。
そこに再び、オルドレイクの笑い声。
「なに……生贄が元気すぎるようなのでな」
少しばかり大人しくしていてもらおうと、わざわざ出向いたまでよ――
声と同時。
懐に押し当てたオルドレイクの手から、紫の光が零れ出す。
「ゲッ……」
「こんなところで召喚術しますか!?」
ちなみに、この牢は、囚人専用の塔の一室である。
税金未納で強制労働のためにつかまった人たちは、また別の場所。比較的労働場に近い場所に、すし詰め状態だそうだ。
で、こちらはどういった用途かというと。
重罪人用、だったりする。
だので塔まるまる一つがそのために用いられているし、本来は見張りも厳重なはずだ。
その分牢ひとつあたりの面積も割合広いが、――限度ってモノがあるだろが、オッサン。
だが、オルドレイクはそんなの気にしてないらしい。
中級程度の召喚術でさえ、一歩間違えば天井崩壊壁破壊、さえしかねないというのにだ。
「この、――――!!」
どちらかの。
或いは両方の。
放送禁止用語が高らかに響き渡るのと同時、爆音が塔を揺るがした。
だが。
世の中そう、一方の思い通りにばかり動くかというと、そんなわけもないのである。
「……なんだと……!?」
彼が予想していたよりも、発動した召喚術の効果は小さかったのだろう。オルドレイクが驚愕の混じった声をあげる。
いや、驚くのも無理はないか。
召喚師たちの間では高等術と分類されるそれは、だが、今夜に限っては初級程度の効果さえ発揮することが出来なかったのだ。
「アブねェ……塔が崩壊したらどーすんだ、このオヤジ」
「自分だけは助かるつもりなんだよ、たぶん」
力任せにオルドレイクの召喚術を抑え込んだバルレルのぼやきに、かばわれる形になったは身をかがめたまま答える。
それからよいしょと背を伸ばし、オルドレイクを睨みつけた。
「いい加減にしてくださいよ。元気結構じゃないですか、活きがいいってことで」
うるさいってんなら大人しくしてますから、いちいちちょっかい出しにこないでください。
「てゆーか、今騒いでたのは主にバノッサさんでしょーが」
「…………くっ」
「ムダだぜ? たいていのサプレス系はオレの敵じゃねぇ」
つーか、わざわざコッチが静かにしてやってんだから、つつきにくんなよ。
第二弾をかますつもりか、再び懐に伸びようとしたオルドレイクの手が、そこで止まる。
いったいこの人、いくつ召喚石持ち歩いてるんだろう。
の素朴な疑問はとりあえず、今回は保留になるのだが。
バルレルのことばに、オルドレイクは瞠目した。
憎々しげに顔を上げ、彼曰くの魔王候補を睨めつける。
「……当然だ。でなくば、この城にとらえられた人間どもの命はないと思え」
貴様らには関係のない存在だろうが、貴様らが身を置いている者たちにとっては、どうかな?
オルドレイクのそのことばに、とバルレルは顔を見合わせた。
召喚術で強制的に抑えつけられないと知って持ち出された材料が、あんまりといえばあんまりで。
たしかに、城に――なんとか領主を逃がしたあと、取り残された人たちは、ひとまとめに牢に放り込まれているらしい。
顔も知らない人たちのことは、正直、ふたりとも思考にのぼらせたこともなかった。
だけど。
いくら顔も見たことないからって、彼らの命は大事。よく知らないんでハイサヨウナラ、なんてのは後味悪い。少なくともは。
目線の会話に、数秒。
軽く頷いたバルレルは、の意志を優先してくれるらしい。
それを確認して、はオルドレイクに視線を戻す。
最初から大人しく捕まってやっただろう、とかいうツッコミは、心の中に留めておいた。いらん薮蛇になりそうだったから。
「――じゃ、交渉成立ってことでよろしいですか?」
一応今は虜囚の身ってことでわきまえてますから、下手にちょっかい出さないでください。
「うむ……バノッサにもよく云い聞かせておこう」
「そうそう。そもそもアイツが来たから、こんな騒ぎになったんだろがよ」
勝ち誇りてぇのは判るが、ガキすぎるだろ。
そもそもやろうとしていたことを中断されたバルレルのことばは、本来の意図以上の重みがある。
あからさまに挑発の混じったことばに、オルドレイクはけれど、喉を鳴らして笑う。
「クク……そう云ってやるな。かわいらしいものだろう?」
矮小たる存在が、強大な力を得るのだ。
その美味に酔いしれるのは、当然のことではないか。
「……そうでしょうか?」
それで気は済んだのか――まあ、本当にただ、虜囚にちょっかい出しに来たバノッサを留めに来ただけなのかもしれない――身を翻したオルドレイクは、のつぶやきには気づかなかったようだ。
一度も振り返ることなく、闇からにじみ出た男は再び闇のなかへと姿を消していく。
気配が完全に消えたのをたしかめて、ようやく、は再び寝台に倒れこんだ。
……城にいた人たちを殺さずにいたというのが、少し意外。
生きているというはっきりした確証はないが、もっとも、彼らにとっては“矮小な存在”の一人や二人、生かそうが殺そうがどうでもいいものなのかもしれない。
「よし。じゃ、しばらく話しかけんなよ」
そう断って、バルレルが目を閉じるのを横目に、軽く手を持ち上げた。
月の明りに縁どられるそれは、まぎれもない自分の手。――の手。
とくんとくんと、脈打つ鼓動。流れる血潮。
微妙にずれたリズムで同じように身体をめぐるのは、――力。
――下手に閉ざすよりは、何も考えずに通したままでいるほうがいいだろ。それが君の自然だものな。でも、必要なときはちゃんと開閉考えるんだぞ。
そうアドバイスしてくれた、黒髪の青年を思い出す。
あの空間で聞いた、いくつもの彼のことばも。
「……ちから」
大か小と問われれば、今の手にあるそれも、強大な力と云えるのだろう。
だけど、果たして自分はそれを手にして何かが変わっただろうか?
たしかに最近図太くなったと思うけど、それは、むしろ立てつづけに起こる騒動とか事件とかのせいだと思う。
むしろそれらのおかげで、この力を今、冷静に受け止めるだけの度胸がついたともいえる。
「――ちから……か……」
自ら欲して得たものではないせい、だろうか。
オルドレイクのさっきのことばが、どうにも違和感。
まるで飲み込み損ねた小骨のように、それは、の胸に引っかかっていた。
…………強大な力。それを得ることは、本当に喜ばしいことなんだろうか?