創作

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夏の困惑者・後編


  神殿の中に入るとすぐに、大きな空間が広がっていた。礼拝堂というものなのだと、最初にきた日にヒューが説明してくれた。たくさんの椅子と机が並んでいて、こどもたちはそこに座るように神官から指示されている。めいめい、兄弟同士や仲のいい者同士で固まって座っていた。
 金銀黒も、それに倣って、適当な空いた席に腰を下ろす。
「ほら、あれが賢者の像だ」
 少しでもシェイドの気分を盛り上げようというのか、声のトーンをあげてヒューが正面を指差した。
 鮮やかなステンドグラスの光を受けて、淡く輝く像がある。 
「…………………?」
 視線を移して、フィリオンは首をかしげた。ヒューも同じく、指さした手を止めて像を見ている。シェイドだけは素直に感嘆していたようだったが、金銀の様子に気がついて、どうしたのかと云ってきた。
「……あのひとに似てる?」
 遠目に見える、賢者の像は、少女の姿。
 長い髪をたらして、神官の服にいろいろ飾りを付け足したような服を着て、片方の腕をまっすぐに前に伸ばしている。
 フィリオンは、自慢じゃないが視力はいいほうだ。施設の広間の、端から端までくらいの距離をおいて、絵本の文字が読めるほどはある。さすがにそれ以上に距離はあるし、神殿の中は少し薄暗いこともあってよく見えないが、それでも見間違いようのない――その像の顔。
 服を旅装束に替えて、髪は後ろで束ねて。そしてあの瞳に意志が宿れば――
「アルさん……?」
 ぽつりとつぶやいた自分の声は、意外にはっきりと、フィリオンの耳に届いた。
「そうだ……あのひとだ」
 銀の相棒ほど目がよくないヒューも、一生懸命目を細めて像を確認していた。
 何度見直しても、何度記憶のなかのあの人の顔と照らし合わせても――間違いようのない。
 不意に脳裏に浮かぶ。アルカイヤの花。
 不毛な争いから世界を救った賢者の足元に咲いていたという――賢者を象徴する花。鮮やかな、緑と黄色。
「シェイド、あのひとが……」  「魔族だ!!」
 フィリオンのことばをさえぎって、甲高いこどもの叫び声が礼拝堂に響いた。

 空間に静寂が落ちた。
 だがそれは一瞬。
 その場にいるほぼ全員の視線が、まず、叫んだ少年を見、つづいて、その少年の指さす先を見た。
 指の先にいるのは、アースフィルドからやってきたこどもたち。

 フィリオン、ヒュー、

 ――シェイド。

「なんで魔族がこんなとこにいるんだよっ!!」
 最初に叫んだこどもが近づいてきて、止める間もなくシェイドの胸倉をつかんだ。
「おまえたちが魔物を操ったりなんかしたから!! 俺の父さんは襲われて大怪我したんだ!!!」
「ちが……」
 息が苦しいのか、それでも、詰まりながら反論しようとしたシェイドの声を、別の少女がさえぎる。
「あたしのお姉ちゃんも……っ」
「お父さんが……」
「なんであんなことするんだ!?」
「やめさせろよ、すぐに!」
「おまえ、仲間なんだろ!? できるんだろ!!?」
「やめてよっ!!」
 シェイドをつかみあげている少年の手を必死にふりほどいて、フィリオンはこどもたちとの間に割って入った。
「……何すんだよ」
「シェイドは何もしてないっ!」
 背中から、シェイドが咳き込んでいるのが聞こえる。だいじょうぶか、とヒューの心配そうな声も。
「魔物を操れるなんて魔族以外にはいないんだ! 父さんちゃんと云ってたんだからな!」
 そうだそうだ、と周りのこどもたちがはやしたてる。
 その中に、いつか行った教会で、シェイドと仲良く話していたこどもが数人いるのをフィリオンは見てとった。
 あのとき、あんなに楽しそうだったのに。
 シェイドがお気に入りの帽子をかぶったままだったから、耳が見えなくて魔族だと判らなかったから、だから、あの子たちは受け入れていたのだろうか、と。思うと、目が熱くなった。もしシェイドが帽子をとっていたら、あのときに、こんな光景が展開されてしまったのだろうか。
 ――――いいや、と思う。
 過去を思ってもしょうがない。
 いつからか胸に抱いていたその信念をこのときも思い起こし、フィリオンは、目の前のこどもたちに意識を戻した。
「シェイドはやってない」
 今の自分にはこれしか云えない。
 他に何をすれば、いいのか、判らなかった。
 向ける先のなかった怒りの矛先が――本来なら、魔物を操っているという、とうの魔族に向けられてしかるはずの――、自分たちに向かってくるのを感じて、フィリオンは目の前が暗くなるのを感じた。


  普段、自分の着ている服とはまったく正反対の。
  ずるずるぞろぞろして、さんざ飾られた(これでも必死に抵抗して減らしたのだが)服を着て。
  やっぱり彼女は不機嫌に、一室で、連れといっしょに待機していた。
 「……?」
  自分とは違い、特殊な感覚を有する赤と紫のふたりが、不意に首をかしげた。
 「どうかしたか?」
  まとわりついてくる袖を払い、立ち上がって彼女はふたりに問いかける。
  普段はにこにこ笑い、楽しい道連れを担ってくれている彼らの、その表情の変化。
  それはほぼ間違いなしに、『何か』が起こったということを、数百年の付き合いで彼女は熟知していた。
 「……騒がしい……」
  紫色の少年がつぶやく。リィン、と、彼の錫丈の先についている、金具がかすかな音を立て、揺れる。
  そんな小さな音が聞こえるくらいには、この部屋の周辺は静かなものだった。
  だが。
 「…………礼拝堂……」
  めずらしく(というと暴言だが)真面目な顔をして、赤い瞳の少年がつぶやく。
 「いつかの気配ですね」
 「紫紺、逢ってたっけ?」
 「あんな面白そうな気配、見に行かないわけがないでしょう? 落し物を見つけたついでにちょっとね」
 「……紫紺ってば。こっそりどこかに行ってたと思ったら……」
 「焔朱もひとのことは云えないでしょう?」
  にやり、と紫紺が笑った。
 「この間どこへ行っていたんです? 散歩にしてはえらくまぁ、時間がかかりましたねぇ」
 「……いや、あはははは」
  たまには善行しないとね、と、にこやかに焔朱が答えて。
  ふと。彼女は思い出す。
  面白い――気配。そのことば。
  数ヶ月前、王都を訪れる前立ち寄った、小さな村の傍での出来事を思い出す。
 「騒がしいって……暴走?」
 「いえ、まだです」
  まだ――そのことばには当座の安堵とともに、先への不安を覚えさせるものがある。
 「……どうします、アル?」
  紫紺の問いに、アルは、少しだけ目を伏せた。
  だがそれも一瞬。
  ずりずりの服の裾を軽くつまみ、焔朱と紫紺に向かって云い放つ。
 「これで礼拝堂まで歩くのは面倒だ。着替えるのもついでに面倒だ。
  ――とばせ」
 「また有名になりますね、アル」
 「知らん」
  半ば自棄になって、紫紺に返事を返す。
  焔主が、赤い瞳に楽しそうな光を宿してアルを見る。
 「やっぱりアル、優しいね」
 「……関わったもんはほっとけないだろ」
  たとえ、すれ違っただけだとしても。
  笑み交わした相手を放っておけない、この少女の心を、焔主も紫紺も知っている。
  仏頂面の彼女に、そっと手を差し出して。
  ふたりは、いたずらをやる直前のこどものような表情をつくり、同時に云った。
 「じゃあ行きましょうか、賢者様」

    ――そうして。



 ――どうすればいいのか、わからなかった。
 こどもたちは、この騒ぎに駆けつけてきた神官たちの制止をくぐりぬけ、フィリオンに――いや、シェイドに恐ろしいほどの敵意を向けてくる。それは感情だけにとどまらず、
「っ!」
 投げつけられた椅子を、フィリオンはすんでのところで避けた。金銀黒をかばうように、神官が前に立ちふさがった。
「やめなさい! この子が魔物を操ったわけではないのだ!!」
「でも魔族だッ!!」
「操った奴の仲間だ!!」
「こんな奴、神殿になんか入れてたまるか!」
 シェイドが魔族だということ。
 それは否定しない。
 シェイドが、魔物を操ったものの仲間だということ。
 それを認めることはできない。
 わぁわぁと、こどもたちと神官たちの声が入り乱れて。
「出て行けよ!!」
 叫んだこどもに、フィリオンは見覚えがあった。
 先日――王都にきたばかりのとき、訪れた教会でともだちになった少年だった。愛嬌のある、そばかすと元気がいっぱいの少年で。一見無愛想に見えるシェイドにもちゃんと話しかけてくれて。カードやすごろくで遊んだりした、あの子だった。
 どうしてだろう。
 シェイドが、お気に入りの帽子をかぶったままだったから。あの長いとがった耳が、隠れてしまって魔族だとは気づかなかったから。あの子は、シェイドに優しくしてくれたんだろうか。
 目じりが熱くなるのを、銀の少女は感じた。
 あれが嘘なのか。
 それとも。
 怒りに目がくらんだこの姿は真実なのか。

「フィン!!」

 意識が内に向いた一瞬。シェイドとヒューが同時に彼女の名を呼んだ。
 え?
そう、思う間すら、果たしてあっただろうか。
がすっ、と。嫌な音がした。
 フィリオンのこめかみに、鈍く、それでいて突き刺すような激痛が走る。たらりと流れてきた、不快な感触のものをぬぐうと、手のひらが真っ赤に染まっていた。

 しん……と
 銀の少女の頭を染める赤いものに、礼拝堂中が静まり返る。
 さっきまで騒いでいたこどもたちも。止めようとしていた神官たちも。
 ただ、少女を見ている。
「あ……」
 ひとりのこどもが震えている。あの子が椅子を投げたのだろうか?
 足元の床に転がる、木の丸椅子が、なんだかひどく遠く見えた。

 ぱしん

 生木が割れるような音がした。

 ――既視感

 思い出すのは春先のできごと。
 襲いかかる、あの黒い大きな獣を何処へともなくはじきとばした、静かな雷。

 ぱしん

「……おまえら……」

 首筋がちりちりする。振り返るのが怖かった。
 それでも。
 振り返ったフィリオンの目の前にあったのは、いつか見た、雷をまとう黒き少年。
 ――あのときも。
 フィリオンとヒューの命が危なかったから、シェイドは無意識に、使ったこともない力を使った。
「シェイド!」
 だめだよ、と。
 それではあの子達と同じになってしまう、と。
 云いたくて、云いかけて。気がつく。
 黒い瞳は何を見てもいなかった。目の前のフィリオンも、こどもたちも。

 雷が力を増していく。

「シェイド!! やめろ!」
 飛びかかったヒューも、シェイドが無言ではらって手にまつわりついた、黒い雷にはじかれる。
 こどもたちも神官たちも、何かに魅入られたようにただ、黒い雷が膨らんでいくのを見守っている。

 どうすればいい?
 頼るものはない。

 フィリオンがこのとき思い出したのは。
いつか。3人で眺めたアルカイヤの花咲く野原。

 雷が肥大する。
 ――臨界点

「だめッ!!」

 叫んだのは誰だったのか。
 自分だったのか。
 フィリオンは、両手を広げて、シェイドとこどもたちの間に立ちふさがっていた。
 そのフィリオンをかばうように、また、ヒューが飛び出していた。
「……」
 静寂。
 先ほどにも増して、重いそれがのしかかる。
 漆黒の瞳が、フィリオンを、ヒューを――今度は――映していた。
「……だめ」
 その目に映る自分を見ながら、フィリオンは、ただひとこと、つぶやいた。
 それでは同じになってしまう。
 シェイドを加害者だと決めつけて、向かってきたあの子たちと。同じになってしまう。
 それでは何も変わらない。
 いっときは力で抑えつけても、変わらない。何も。
 ――だから。
「シェイド……」
 フィリオンとシェイドの間に立ち、ヒューがそっと、黒髪の相棒の肩に手を置いた。さきほど彼をはじきとばした雷光はすでになく、シェイド自身も、金の相棒の手をはらおうとはしなかった。
 ――ぐらり
「シェイドっ!?」
 倒れかけた相棒の重みを支えきれず、金銀ふたりはそのまま床に座り込んだ。
 だが、シェイドはこの間のように意識を失ったりはしなかった。力ない声だったが。金銀にだけは聞こえるようなつぶやきだったが、
「――ごめん」
 小さなその声は、ふたりの耳に届くか届かないかで宙に溶け、消える。
 フィリオンは、ぶんぶんと首を左右に振ると、そのままシェイドをかき抱いた。
 こんなに優しいのに。
 こんなに傷ついているのに。
 どうして、みんなは――
 今は雷の驚きに支配されていても、それはすぐに解ける。再び始まるだろう暴動に、フィリオンが覚悟を決めかけたときだった。


「はい、そこまで……と」


 へたりこんだ自分たちの傍に、誰かが立っていることに、フィリオンは気がついた。
「……だいじょうぶ?」
 優しい声。
 もう頭を持ち上げるだけの気力も残っていない自分の頬を、すっ、と、そのひとは撫でてくれた。
「よく頑張ったね」
 いつかどこかで聞いた声。
 ふゎり、一瞬暖かい光が満ちて、急に身体が軽くなった。
 慌てて顔をあげる――やっぱり。
「……アルさん……」
「あ、覚えててくれたのか」
 にっこりと。朱金の瞳を優しく細めて、その人は微笑った。

 ついさっきまで、何かにとりつかれたように、彼らに向かってきていたこどもたちは全員、床に伏していた。それを止めようと砕身していた神官たちも。
 気絶させているだけだから、と、アルの連れらしい以前逢った焔朱と、今日初めて逢った紫紺に説明されて、フィリオンはほっと息をついた。
「だいじょうぶ? 少しじっとしてね」
 焔朱と云った、あのとき逢った少年が、フィリオンの前に膝をついて手をかざす。
 紅い――暖かな光。
 鈍く強く響いていた、こめかみの痛みが消えていく。頬を伝っていた不快な感触も、同時に消えた。
「ヒューと……シェイドは?」
 フィリオンの問いに応えて、焔朱は彼女の後ろを指差した。少女の振り返った先には、座り込んだ金髪の相棒と、どうやら気を失ってしまったらしい黒髪の相棒。
「金色君はともかく、黒君は暴走しかけていましたからね。眠ってもらいました」
 彼らのそばに立つ、紫色の人がこともなげに教えてくれる。
そのあまりの不思議なわざに、フィリオンは、(やっぱりこの人たちは神様なんだろうか)と思ったほどだ。
 だって、神官様だってこんなことはできない。きっと。
 神の教えを説いてくれるけど、神様の使うような力は使えない。
 少女のまなざしから何を読み取ったのか、アルは、苦笑して目線を銀の少女に合わせてきた。
「わたしは神じゃないよ」
「――……」
 判ってはいたけれど。ちょっとだけ、空想を壊されてしまった気がして、フィリオンは頬を膨らませる。
「わたしは、アルだ」
 朱金の瞳が優しく微笑んで、銀の少女を映していた。

 思い出す。
 春の日に眺めた、アルカイヤの花畑。

「あなたは、賢者か?」
 フィリオンにつづいて、焔朱に傷を癒してもらったヒューが云った。
 それに応えたのは、緑の髪の少女ではなく、
「そう、云われることもありますね」
 シェイドの額に手を当てながら、紫紺がにこりと笑う。とたん、アルが不機嫌そうな顔になった。
 自分から名乗ってるわけじゃない、とかなんとかぶつぶつ云いながら、あまり似合っていない豪奢な衣装をうざったげにさばく。
 あぁ、そうだなとフィリオンは思った。
 このひとは――飾り立てられておとなしく座っているようなひとじゃない。
 青空の下を。
 大地の上を。
 風のさなかを。
 歩くのが似合う人だ。
 どこまでも、世界とともに歩いていくのが似合うひとだ――
「少し寝てていいよ」
 焔朱が頭をなでてくれた。
「でも……」
 この神殿の騒ぎはおさまったとしても、魔物はまだ残っている。王都への脅威は消えていない。
 それに、シェイドの誤解も解けていない。
「だいじょうぶ」
 アルがもう一度、微笑んだ。


  世界の名前はアルストリア。
  賢者の名前を、アル・アストルという。

   世界在りつづける限り、悠久に在りつづけるひと――
   それを、賢者という。


『賢者ってほんとうにいるの?』
 いつか、そう訪ねたフィリオンに、フレア先生は笑って答えてくれた。
『在る、と。識る人の心の中に。
 賢者は在るわ』
 ――あのときは、そのことばの意味がよく判らなかったけれど――


 荘厳な曲が、礼拝堂を満たしていた。
 めちゃくちゃに放り投げられた椅子も、きっちり並べなおされて、こどもたちはそこに静かに座っていた。
 一段高い祭壇に立つ神官長が、こどもたちの名前をひとりずつ読み上げていく。呼ばれたこどもは祭壇に向かい、賢者の像へアストリーア王国国民としての誓いを行う。例年はそれが慣例だが、今年は賢者本人が訪れていた。像へと誓うはずのそのことばを、こどもたちは直に賢者の御前で告げることになる。
 どの顔も緊張していた。
 右手と右足がいっしょに出ている子もいるし、さっき祭壇から下りるときにつまづきかけた子もいた。
 だけど、どの子も。
 賢者に逢えたその事実に、緊張さえ超えた歓喜を覚えているらしかった。
「フィリオン・ファルス」
「――はいっ」
 フィリオンも例にもれず緊張していたが、椅子から立ち、祭壇へ近づくにつれて、それは徐々に輪郭をぼやけさせる。
 朱金の瞳に緑の髪。
 優しく微笑む、その人。
 両脇をかためるように、赤と紫のふたり。
「おめでとう」
「――ありがとうございます」
 11歳になったお祝い。
 シェイドの暴走を止めてくれたこと。
 王都を襲っていた魔物を、魔族を、収めてくれたこと。
 みんなの、シェイドへの誤解を解いてくれたこと。

 あの日。
 彼らが初めて王都へやってきたあの日、焔朱を見かけたのは、フィリオンの幻ではなくて。
 ――魔族。
 魔物の群れにアストリーア王都を襲わせていた魔族と、話してきた帰りだったのだと、彼らは教えてくれた。
 ずぅっと前の、争いの結果に、納得がいかなくて。人間が大嫌いで。だから、大陸でいちばん大きなこの王国をめちゃめちゃにしてやろうとしていたのだと、聞いた。
 焔朱とその魔族が、どんな話をしたのかは知らない。
 だけど。
 もう、あの子が人を襲うことはないよ、と。
 礼拝堂のみんなを起こして、そして。
 アルは笑って云ってくれたから――

 すべての、気持ちをこめて。
 『ありがとう』をただひとこと。

 それは伝わったのだろう。
 アルは、にっこり微笑んで、フィリオンを抱いてくれた。
 自分とそんなに変わらないその腕の中に、大きな安堵を覚える。
 もう顔も覚えていない、母の記憶に似ている。

 ――どうして、この人が賢者だということを、疑わずに受け入れたのか、なんとなく判った。


「えーーーっっ!!?」
「シンさんとリク先生、アルさんと知り合いだったの!!?」
 町外れの小さな家に、少女の声が響き渡った。
 小さな家の、さらに小さな台所に、今、卓を囲んで6人の人間が座っていた。
家の持ち主のシン、リク先生、金銀黒の3人組、それから――アル。
 焔朱と紫紺は、どこやら散歩に行っているらしい。祝祭も無事に終わり、魔物の脅威も去ったということで、ここのところこの上なく賑わいまくっている王都の見物にでも行ったのだろう。あいつらは賑やかなのが好きだから、というのが賢者の云い分だった。
「なんだ、おまえ、云ってなかったの?」
 シンさんお手製の健康茶をすすりながら、緑の髪の少女は、黒髪の青年を軽く睨んでいる。
「……って、あんたらだって、王都にきとること連絡すらせんかったやん?」
 こどもたち用にココアなぞ用意してくれながら、シンさんは苦笑して云い返した。
「その前に、王都に住んでるなんて、お前連絡すらしてないだろうが」
「どこに連絡しろっつーねんな、おい。風来坊のくせに」
「あれ? 北西の辺境の、分神殿で隠居暮らししてたんだけど?」
「ほぉ……んなこたぁ、ぜんぜん、まったく、聞いとらんのやけどな?」
 これではお互い、痛くなるばかりである。まぁまぁ、とリク先生が笑いながら仲裁に入った。
「こっちだってびっくりだ。王都についてから、神殿のつてで捜索かけてもらおうと思っていたのに、よりによってしっかりちゃっかり、祝祭に出てるんだからな」
「出たくて出たわけじゃないぞ」
 ……なんとも、はや。
 伝説だの物語だの空想上だの、さんざなんやかや云われている、伝説の賢者様は。
 意外にも意外にも、このうえなく身近なところにつながりがあったわけで。
 リク先生とシンさんは、時は違えどアルさんと赤と紫二人組といっしょに、それぞれ旅をしたことがあったそうだ。その後、偶然顔見知りになり、友人になって、酒の肴に出た話に――どちらが先に話し出したのかは判らないが――相当、驚きあったらしい。
 十分大変なことなのだが、それは、賢者とその友だちの問題なのであって、こどもたちの関与するところではない。

 金銀黒にはもっと、差し迫った問題があったのだ。

「シェイド、本当に行っちゃうの?」
 やっぱりいつものとおり、3人で並んでココアを口に運びながらも、金銀の表情は冴えなかった。
「うん」
 と、シェイドがうなずいて、フィリオンの問いに答える。
「ほんとなら親なり仲間なりに教わって、早く自由に使えるようにならないといけなかったんだ」
 魔族としての、力を。
 制御できない大きな力は、いつなんどき、何を引き起こすか判ったものではない。これまでは、幸いにもシェイドの体力がもたずに途中で立ち消えていたが、このまま、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えたままではいられない。
 早急に、君は、力の扱い方を覚えるべきだよ。
 そう、賢者は云った。なんだったら、自分たちが特訓してあげても良いけど、と、赤と紫の二人組も名乗り出てくれた。どうやらよほど暇を持て余しているらしい。さすがに数百年、もしかしたら数千年も生きているといろいろと退屈なのだろう。
 人間より多少長い程度の寿命である魔族とは違って、焔朱と紫紺は『鬼』という種族なのだそうだ。
 はるか昔。賢者の伝説が生まれるよりもはるか、時のかなたに存在したといわれる幻の一族。滅びたとも、別の世界に移住したのだとも云われるその鬼たちが、今の魔族の先祖であるとか。シェイドにとっては、自分のルーツに対面したようなものである。
 一も二もなく彼らの提案にうなずいたシェイドの気持ちは、フィリオンにも判った。
 判ったが、じゃああっさり賛成できるかというとそれは別の問題である。
「せめて、一度村に帰ってから、みんなにお別れ云わない?」
 何日か前から繰り返される問答を、フィリオンはもう一度切り出した。答えは判っていたけれど。
 ヒューが何か云いたそうに銀と黒を見て、結局黙り込む。
 そしてシェイドは、銀の少女のそのことばに、ゆっくりと微笑んでみせたのだった。


 がらがら、音を立てて、数週間前に通った道を、リク先生の馬車が再び走っていた。馬も馬車も、シンさんとリク先生が――ときどきこどもたちも――きちんとお世話していたから、また、あの日のように軽やかに足音を響かせて、快調な旅を提供してくれた。
 御者も、行きと同じくリク先生。シンさんが、なんでも西のほうへ用事があるとかで、街道の途中の分岐点まで御者役を買って出てくれていたが、その分かれ道もとっくに通り過ぎ、今馬車に乗っているのは行きと同じく、アースフィルド村の施設の人間だけだった。
 ……いや。
 行きは3人のこどもが揺られていた荷台だったが、いまは、ふたつの影しか見えない。
 数日前のことを、フィリオンは思い出した。
 黒髪の相棒は、南の、妖精たちの集落を訪ねるという賢者たち一行についていくことになり、金銀より一日早く王都を出て行ったのだった。
「ねぇ、ヒュー」
 昨日すれちがった旅人のおじいさんからもらったお菓子をふたりぶんに分けながら、相棒に話しかける。
「ん?」
 寝転んで、なにやら本を読んでいた――よくこんな、揺れる馬車の上で本が読めるものだ――ヒューの赤い目が、フィリオンを捕らえた。
 ……前はそうだった。施設の一室でヒューが本を読んでいて、自分は隣でいろいろと問わず語りに話し込んで。そのうち根負けするか本に飽きるかしたヒューが、こちらの話にのってきてくれて。それがあたりまえの風景だったのに。
 もうひとつのそれが、あたりまえになったのは、もうずいぶんと昔のような気がする。
 あるはずのない、なじんだ気配を無意識に探す自分に、フィリオンはちょっとだけ苦笑した。
 振り切るように、ヒューに笑ってみせる。
「帰ってくるよね」
 誰が、とは云わない。
 どこに、とも云わない。
「あぁ」
 なんとなく、あの、赤い鬼の少年を思い出させる色彩の瞳を細めて、ヒューも笑った。
「約束、したろ?」
 荷台に投げ出された、彼のお気に入りのナイフがぶらさがっていたベルトを指してみせる。誕生日にもらって以来、常に身に付けていたナイフはそこにはなかった。つられるようにそちらに視線を動かして、そしてうなずいた銀の相棒の胸元を飾っていた首飾りもその姿を消している。
 本を放り出して、ヒューは寝返りを打つと、仰向けになって空を見上げた。
 アースフィルドではほとんど見ることのない、どこまでも続く紺碧の空。
 彼の隣に、倣うようにフィリオンも寝転んだ。
 どこかであいつも、空を見てるのかな、と、なんとはなしにそう思う。
 フィリオンもそう思ったのだろうか。
 示し合わせたわけでなく、不意に顔を見合わせて、金銀は無言で笑いあった。

「……おやおや」
 黙りこんで空を見上げていると思ったら、金銀はいつの間にか眠ってしまったらしい。リクは馬車を止めて苦笑した。それから手綱を繰って、ゆっくりと、ちょうどいい木陰に移動する。御者台から降りて、そのまま木の根元に座り込んだ。
 木漏れ日に目を細め、ふと、微笑む。
 彼が賢者を捜そうとしていたのは他でもなく、あの魔族の少年について相談するためだった。結果としては、捜す前に賢者は見つかるわ、いつの間にか金銀黒と顔見知りになっているわ、あげくに自分たちからシェイドの今後について持ち出してくれるわと、目算はいい意味で粉々になっていたのだが。
 何ヶ月前になるだろう。
 吹雪の日に街道で雪に埋もれていた。
 差し伸べた手は、簡単にはじき返された。
 それでも無理矢理くるみこみ、施設に持って帰る間――このへん完璧に物扱いしていたような気がしないでもないが、まぁすんだことだと軽く流していたりする――力が発動しなかったのは、本気で体力がなくなっていたのだろう。
 実は施設に持って帰ろうと決めたものの、彼はしばらく迷ったのだ。
 何せ相手はまったくの異種族である。こどもというのが時に、大人以上に残酷な行動をとってしまうことを、リクもよく承知していたから。今度の祝祭でのできごと――あとでヒューから聞いたのだが――だって、いい例だ。
 それでも。
 施設のこどもたちと同じ位の年齢ということもあって、やっぱり放っておけなくて。
 力については心配していたけど、人間の自分が関与できる領分ではなかったから、こうして夏まで待って――賢者が向こうからやってきてくれたときには、出来すぎじゃないかと笑ったものだった。

 つれづれに、思い返しているうちに、リクのほうにもこどもたちの睡魔が移ってきたらしい。
 小麦色の髪が上下に舟をこぐようになるまでに、そう、時間もかからなかった。


 賢者、というものが、父と母の話では、まるで神様のように扱われていたのに対して、実際の彼女は、それはもう、限りなく普通の少女と云っても過言ではなかった。
 ちっとも超然も毅然も悠然もしてない。よく笑うしよく怒る。焔朱と紫紺の悪ふざけにものの見事にひっかかったりもしている。
 彼らの旅は、馬車を使わない。
 自分の足で歩くほうが好きなのだと、朱金の瞳は優しく笑う。
「お、うまいうまい」
 ふわふわと、宙に浮きながら、焔主がシェイドを見て云った。
 まだ焔朱のように宙に浮くことはできないものの、旅の合間に教えられているうちに、彼も軽いものなら浮かせられるようになってきた。主に先生役は焔朱。どうやら根っからの教えたがりらしい。賢者に云わせれば、ただの暇人だそうだ。まだまだですね、と云いながら、紫紺も時折制御のこつを教えてくれる。最後には自分でつかむしかないのだろうが。
「あと三日くらいで目的地。そしたらばしばし特訓するからね」
「はい」
 妖精の集落は、この世界にあるものの、結界で覆われていて普通なら入ることはできない、ある意味別世界のようなところらしい。そこに更に結界を張って、隔離された空間で特訓をするそうだ。そこならいくら暴走してもだいじょうぶ、と、紫紺が少々恐ろしい保証を――それはつまり、何度となく暴走するくらいの特訓が待っているということだ――してくれたことだし。
 リィン……
 歩くたび、涼やかな音を立てて、腰のナイフにくくりつけた銀細工が揺れる。
「いい音だね」
 隣を歩いていた賢者が、目を細めて笑う。
「はい」
 材質がいいのもあるのだろう。だけど、こんなにいい音がするのはそのせいだけじゃない、と、思う。
 ――約束だからね
 ――約束だからな
 そう云ってくれた金銀は、今ごろ村に帰っただろうか?



  何が出来るだろう。 いつかまた、相棒と逢うときのために。

   強くなろう、と銀は思う。
   相棒たちがどうなろうと、どんな道を歩こうと、信じてあげれるそのくらいには。

   強くなろう、と金は思う。
   どうにも傷つきやすい相棒たちを、せめてできるかぎり、自分が守ってやれる程度には。

   強くなろう、と黒は思う。
   自分の中の未だ判らないこの力、いつか絶対制御して、彼らを傷つけずにすむほどには。


  そして、短い夏が終わるころ。
   アースフィルドの小さな施設に、戸棚にしまわれる食器の数が一組増えたことが金銀の口から告げられた。

  もっとも、それはいっときのことだから、とちゃんと注釈がついていたけれど。


     アースフィルドの季節はめぐる。
    秋と長い冬を越し、
    春にふたたび生命の息吹を聞いて、
    夏には王都へ向かうこどもたちを送り出し。

        ――季節はめぐる。




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