創作 |
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ハリアーという大陸の、北の果て。 小さな小さなその村にも、郵便配達人や行商人、旅の吟遊詩人が訪れることがある。彼らは職務のため、またはひとときの宿を求め、アースフィルドの村人の歓迎を受ける。そうしてその礼と云って、さまざまな各地の売り物を見せてくれたりするし、話を聞かせ、たまには歌を聴かせてくれる。めったに中央との接触の無いこの北の辺境にあって、旅人は歓迎される存在なのだ。 そして、その日も。 すっかり色づいた、施設の木々を見上げてフィリオンはため息をつく。右手にはほうき、左手にはくまでとゴミ袋。 「……はぁ……」 秋になって、赤や黄色やきれいに色づく葉っぱは好きなのだが、それが毎日毎日散り落ちて施設の庭に降り積もり、おまけにそれの掃除当番が最近の自分のしごととあっては……どうにも素直に喜べない。今日の分の掃除は既に済んでいたが、どうせまた、明日になったら赤だの黄色だの茶色だの色とりどりの落ち葉が庭を飾ることになるのだ。 半ばあきらめ気分で、庭の落葉樹たちをにらむフィリオンの銀髪が、夕日の光によって赤く縁取られていた。 背中まで伸びたその髪は、特にたばねたりなんだりしているわけではなかったので。赤い光を宿したまま、さらさら、風に揺れていた。顔の前を横切る自分のそれを、銀の少女はちょっとうざったそうに手でよけた。 ――どうして髪を切らないの? そんなしぐさを見せるたびに、年下のきょうだいから訊かれるたびに、 ――おまじない にっこり笑う自分がいた。 「……もう二年かぁ……」 つぶやく声は、風に流され溶け消える。 「フィンーっ」 酒樽を運んだりする力仕事にかりだされていたはずのヒューが、ばたばたとフィリオンの名を呼びながら走ってきた。全力疾走したのだろうか、彼女の前までやってきて急停止すると、そのまま膝に手をついて、ぜぇはぁ、何度か深呼吸。そのあと、やっぱり息を荒げたまま、金の相棒は背筋を伸ばす。 赤い瞳を見上げて、フィリオンは己のそれをしばたかせた。 「どうしたの?」 海の色した青い瞳に、赤い瞳の少年が映る。 その奥にある感情は―― 「わっ!?」 ぐいっ、と、意外なほどの力強さでフィリオンの腕が引っ張られる。 「何するのっ!」 「いいからこいって!」 ろくに説明もしないまま、金の少年は銀の少女を引き連れて走り出した。 何が起こったのかも判らなかったが――フィリオンはとりあえず、もう用なしになったほうきとくまでを、そこらの地面に放り出した。ヒューが自分をいったいどこへ連れて行くのかは判らなかったが、少なくとも、こんなもの持っていっても何の役にも立たないだろうと瞬間的に考えるくらいには、フィリオンだって冷静さが残っていたのだ。 だがそれはそれとして、説明もしないまま何処へとも知れなく連れて行こうとする相棒の無礼を、放っておくわけにはいかなかった。親しき仲にも礼儀あり、と、昔教えてくれたのはヒュー当人だったのだから。 「賢者だよ!」 果たして何度目かの問いに、ようやく金色の相棒は答え――銀の少女は絶句した。 そのまま足を止めて立ち尽くしてしまったものだから、つないでいた手が離れて、ヒューがたたらを踏んでいたけれど。 「……え?」 自分の耳が信じられなくて、聞こえたヒューのことばが信じられなくて。 蒼い瞳を見開いて、フィリオンはヒューに詰め寄った。 「アルさんがきてるの!? アルさんだけなの? ねぇっ」 ――シェイドはいっしょじゃないの!? 「ち、違う違う」 胸倉をつかんでいるフィリオンの手をそっとはがして――最近自分のほうが力が強くなって、ちょっとしたことで差が出てきているのを感じていたから――、ヒューは相棒と目線を合わせるために少しかがんだ。 「吟遊詩人だよ、きてるのは」 「でも賢者って――」 「だから」 苦笑する。 一見華奢でおとなしそうな少女なのだが、彼女の、いざとなったときの頑固さ粘り強さをヒューはよく知っていた。だが、もとはといえば、全然説明しないでただ連れて行こうとした自分が悪いのだが、この際それは棚の上だ。 「賢者の、うた。歌うんだってさ?」 「……うた?」 明らかに落胆した様子で、フィリオンが肩を落とした。 人が掃除してたのを引っ張り出した結果がこれか、と、うらめしげににらみつける少女の視線を難なくかわし、ヒューは、彼女の目の前に指を立てて見せた。 「賢者の連れ」 「?」 先刻聞き覚えた一唱節を、うろ覚えながら舌に乗せる。 「緑の賢者よ 称えられし 尊き人よ 赤と紫 人でなきもの そして黒 人でなきものよ 時を すべてを 越え どこへいくというのか」 称えられしは ただひとりのひと 世界の始まりより 在る ただひとりのひと すべてを見 すべてを知り すべてを容す ただ ひとりの はじまりのひと かの 緑 まったき 純粋な 緑 守るように 守られるように 付き添うは 赤 紫 賢者と 同じ時を生きる ただふたりのひと そして 黒 戸惑いし その身に背負うは 争いの記憶 我らと 同じ時を生きる 賢者に導かれしひと 緑の賢者よ 称えられし 尊き人よ 赤と紫 人でなきもの そして黒 人でなきものよ 時を すべてを 越え どこへいくというのか 朗々と。それを歌い終えた吟遊詩人に向けて、酒場の客から歓声があがる。なかには小銭を投げる者や、席を立って詩人に握手だのサインだの求めている者もいる。当の詩人は、慣れた調子で盛り上がった村人たちに応対していた。熱気でほつれた、もとはちゃんと整えられていたであろう紺色の髪に同色の瞳。あまり年齢を感じさせない雰囲気だが、あえていうなら20歳前後だろうか。村にやってきたときに身に付けていた小手や剣は、宿に置いてきたのだろう。紺色の、裾の長いローブという軽装になっている。どちらかというと、詩人というよりは傭兵と評したほうがよさそうな出で立ちだったのだが、こうして旅装を解いてみると、身のこなしというか雰囲気というか――それとも、もう何度か見たせいかもしれないが、あまり違和感もなくなっていた。 フィリオンとヒューは、店の入り口脇の壁によりかかったまま、その騒ぎを眺めていた。 第二幕のはじまる直前に駆け込んだので、もう席が空いていなかったのだ。一度目を聴いた客はそのまま居残っていたし、また、ヒューと同じように身内を呼びに行った者もいたので、小さな酒場はすでに人で溢れ返りそうだった。 「……黒……だって」 ぽつりとこぼれた銀の少女の声は、隣に立っていた相棒以外には聞こえなかった。 「うん、黒、だってさ」 そのままふたりとも黙り込む。 この二年間、連絡すらよこさなかった――おそらく連絡できる状態ではなかったのだろうが――、不人情なもうひとりの相棒。 賢者とともにいるという。あの詩人の歌が本当なら。 力の制御ができるようになって、旅をしながら、この村に向かっているのだろうか? それならいい、けれど。 もしかしたらもう、帰る気はないのだろうか―― 「フィンと……ヒュー?」 ふ、と、ふたりの目の前に影がさした。 蒼い瞳と赤い瞳が、同時に、影の主を見極めようと上を向く――ほんとうは予感していたけれど。 「詩人さん」 それをはじめて見たフィリオンが、『まるでしゃもじみたい』と云ってヒューを脱力させた楽器を肩にかついで。いつの間に人ごみを抜けてきたのか、くだんの吟遊詩人がにっこり微笑って、金銀を見下ろしていた。 ルシファ、と、その人は名乗った。 世界中を旅しながら、興味をひかれたこと、面白そうだと思ったことなどを歌にまとめているのだと。各地に伝わる伝承歌なんかも、大量にストックしているそうだ。 「手持ちの歌の中で評判がいいのは、やっぱり賢者関係かなぁ」 かすかに、楽器の弦をつまびきながら、ルシファは金銀に笑ってみせる。 ちょっとこの子たちと話をしてみたいので、という詩人のことばは素直に村人たちに受け入れられ、金銀と紺の3人は夜風に吹かれながら、村の中央の噴水に腰かけていた。 「あ、本人には内緒だからね」 「……賢者に逢ったことあるような、云い方するんだな」 「あぁ」 やっぱり、とでも云いたげに小さなため息をついた金銀の反応は、詩人さんの予想通りだったらしい。 「君たちもだろ?」 にっこり笑って、また、弦をかき鳴らす。 「伝言を頼まれたんだ」 「伝言?」 「誰だと思う?」 「シェイド?」 「はずれ」 笑いながら、詩人さんは、賢者の名を告げた。 もともと、詩人さんと賢者は昔からの知り合いなんだそうだ。リク先生といい、王都で出逢ったシンさんといい、さすが長生きの人は知り合いが多いんだなとフィリオンは思った。 知り合いといっても、ふたりとも旅が生業だから、偶然顔をあわせれば、同じ宿を取って一晩語り明かすくらいがせいぜい。先日逢ったのも、偶然だったのだと詩人さんは云った。 大陸の中央よりやや東にある、アースフィルドと同じ位の小さな村が魔物に襲われたのだという。それを救った人物がまだその村に滞在していると聞き、歌の種を仕入れるために向かった先に賢者がいたのだそうだ。けれど、実際には賢者も同伴者の鬼ふたりも何もしてはいなかった。解決した当人が嫌がったため結局は賢者の奇跡ということで話は広がるだろうがその実、魔物を説得し、争いをやめさせたのは、 「シェイド?」 「うん」 詩人さんが村についたとき、すべては終わっていた。旅立つ寸前の賢者一行をとっつかまえたはいいものの、魔物を鎮めたという少年は、彼がくるより数日早く、賢者たちとは別の行き先に向かうために別れたばかりだというのだ。 「賢者さんたち、今度海越えて、ひとつ隣の大陸を見てまわるんだとさ」 相変わらず悠悠自適な暇人だよ、と、笑う詩人さんの表情には、長年の付き合いからにじみでる信頼というものが感じられて、金銀は微笑むことで同意を示した。 「しかし、そうなると――伝言のほうが早く着いちまったわけか?」 おれより早く出発したんだったら、ちょうどタイミングが合うと思ったんだけどなぁ、と。 苦笑して、三度、ルシファの楽器が音をたてる。 「ま、おれは一直線にこの村をめざしたわけだから……そのシェイド君が寄り道してたら、追い抜いた可能性もなきにしもあらず……と…… まぁいいか、支障があるわけじゃなし」 微笑んで、詩人さんは金銀に向けて賢者の伝言を伝えた。 夜風に乗せて囁かれたそれは、家の影に隠れて三人を覗いていた好奇心旺盛な村人たちの耳に届くことはなく。 フィリオンとヒュー、ただふたりと。 それから―― 村で一晩の宿を拝借した詩人さんは、翌朝、金銀と話した噴水の前に小さな露天を開いていた。 「……なんというか」 商魂たくましいというか……毛皮の敷き物の上、所狭しと並べられた商品を手にとって見ながら、ヒューがつぶやいている。フィリオンも実に同感であり、だから、大きくうなずいた。 でも、それと、並べられている商品を眺めて楽しむのはまた別の話。 海を越えた大陸で仕入れてきたのだという、琥珀という宝石を埋め込んだ指環。 珊瑚の細工物らしい、海の神の神殿を象ったという置物。 遠い昔に滅んだといわれる幻の大陸のみで見られたという、鮮やかな緑柱石には遥かな時を眺めてきた年輪というものも感じられて。 見るものすべてがめずらしく、フィリオンはそのうち、隣の相棒のこともことばを発することも忘れて、それらの商品に見入っていた。 フレア先生に頼まれた朝市での買い物は終ったので、今は自由時間。フィリオンとヒューは昨日詩人さんに誘われたとおり、彼の店にやってきたというわけだ。先生にはちゃんと云ってあるので、少しくらい帰りがずれこんでもだいじょうぶだろう。それに、年下のきょうだいたちも大きくなって、最近では金銀のしごとさえ、ちょっと気を抜いていると彼らに先にとりかかられてしまったりしている、この頃だったりするから……まぁ今日は確信犯ということで彼らにやってもらおう、と、心の片隅で考えてみたりしていると、詩人さんが声をかけてきた。 「フィンちゃんになら安くしとくよ? 何か欲しい? おれ、夕方にはここ出るから、買うなら今のうちがお買い得だからね」 「……」 ヒューが無言の問いで自分を指さしているのだが、それを完全に無視した詩人さんがおかしくて、フィリオンはくすくすと笑う。 「そうねぇ……」 去年から少しずつ、村での簡単なしごとを引き受けているので、お給金――ちょっとしたお小遣いなら持っている。あまり無駄遣いする性分ではないので、正規の値段で買おうと思えば買えるだろう。だけど、ここはありがたく詩人さんの心遣いに甘えさせてもらうことにして、改めてひととおり、視線を商品のうえにすべらせる。 「フィンちゃんなら、どう? この首飾りなんか似合うんじゃないかな?」 ――りぃん…… にこにこと微笑んで、詩人さんが取って見せてくれたそれは――首飾り。銀の。 金銀に、わずかな既視感を与えたそれは、けれど、当然だけどそのものではなくて。詩人さんの手のなかで、澄んだ音を立てながら、優しく風に揺れていた。 「……うぅん」 否定のことばを舌に載せ、そしてフィリオンは微笑んだ。 「首飾りはね、しないことにしてるの」 「どうして?」 「……ひみつ」 だって、おまじないだから―― すぐ隣にいたヒューにさえ届かない、かすかなつぶやきをもらし、フィリオンは、他のものにするから、と、その首飾りをもとあった位置に戻してもらった。それから、こちらを見ているヒューの視線に気がついて、にっこり笑ってみせる。 判るでしょ? 赤い瞳が頷くのを確認して、銀の少女はまた、品物に目を戻す。 「これ……」 手にとったのは、対になっている琥珀の指環。 女性用と男性用と――結婚指環みたい、と、思ったそれを手にして、フィリオンは、ヒューのほうをちらりと伺った。相棒の蒼い瞳に宿る、いたずらっぽい光に、ヒューも彼女の思惑を察したらしい。ふところから皮製の財布――フレア先生の手作りだ――を取り出した。 熱心に首飾りをいじっている詩人さんの邪魔にならないよう音をたてないよう、敷き物の空いたスペースに、ふたりは財布の中身を全部だしてみた。 ひぃ、ふぅ……数えて。 「……何してるの?」 いきなり財布のなかみをぶちまけた金銀を見て、詩人さんが驚いたようすでふたりを見る。 「詩人さん」 「は、はい!?」 ずずぃぃっ、と、フィリオンは詩人さんに詰め寄った。紺色の瞳を困惑に揺らして、詩人さんは詰め寄られた分だけ後ずさる。 固唾をのんで見守るヒューの視線を受けて、フィリオンは云った。 「――あの――半額にまけられない?」 詩人さんがフィリオンに気迫負けしたか、はたまたそんなに値のはるものでもなかったのか――ともあれ、対の琥珀の指環は無事に、金銀の手におさまることになったようである。 ……そして 鮮やかな、青い空の下、彼はゆっくりと歩いていた。 ふと――前方から、自分と同じ、旅人が歩いてくることに気がつく。 すれ違いざま、彼らは軽く目で会釈した。 「……なるほど、ね」 紺色の髪の青年はそうつぶやき――その直後。 ふと、振り返った旅人の双眸に、詩人の姿が映ることはなかったのだった。 少しだけ、傾き始めた太陽の光を背に受けながら、フィリオンとヒューは満足げに施設へ戻ろうとしていた。 村の人々、ほぼ総出で詩人さんを送り出した帰りだ。もう一日くらいどうだろう、と、引き止めた人がいたが、詩人さんは笑って辞退していた。なんでも、ずっと西に行ったところにある森で、待ち合わせをしているんだそうで。 ちなみに、村人ほぼ総出――つまりはフレア先生も見送りのために出てきていたのだが、金銀は、彼女には見つからないようこっそりと、まだ村の入口で歓談していた村人たちともども後に残してきたのである。 だって―― 早く施設に帰って、隠さなければいけないから。 「内緒ね?」 夕日を浴びて輝く琥珀。 金銀、それぞれの手ににぎられた、指環。 「内緒だな」 ふたり、昔いたずらをしかけて楽しんだあのときのような笑みを浮かべて。 ――ふと。 先ほど、詩人さんを見送った、村の西の門が騒がしくなったような――それも、気配と云うのだろうか? 「……」 ――そして振り返る。 何かを理性で把握するより先に、波立つ感情が身体を動かした。 それはたぶん、確信といえるほどたしかなものではなく。 けれどきっと、予感といえるほどにははっきりしたもの。 「シェイド!」 夕日の逆光に、浮かび上がる影。 誰かを確認する前に心が告げる、懐かしい人の帰郷。 ――そう、帰郷。 「うわっ……」 どさり、と。先を争って抱きついた金銀の重みに耐えかねて、黒髪の少年はその場にしりもちをついた。手に持っていた荷物も、音を立てて地面に放り出される。 りぃん、と、銀の首飾り。 からん、と、鞘に収められた小振りのナイフ。 「……やっぱり、フィンとヒューだった」 後ろ姿。 記憶のなかの彼らとずいぶん変わっていた。 隣を歩いていた少女と同じくらいだった少年の身長はずいぶん伸びていたし、肩で切りそろえられていたはずの少女の髪は長く伸び、風に吹かれてゆるやかに波打っていたし―― それでも。 どんなに時を隔てても、変わらないものがあるのだと。 「……どうしてたの?」 「ずっと焔朱さんたちに特訓つけてもらってたよ。外に出たのは半年前くらい」 熱くなった自分の目頭をごまかすように、彼は、目を細めて相棒たちを見た。 蒼い瞳と。紅い瞳と。 それを持つ金銀が、にこりと微笑んだ。 その端に光るものは、見なかったことにして。 シェイドは黙って、フィリオンとヒューを抱きしめる。 どれだけ、再会の感慨にひたっていただろうか――太陽がまた、少し傾きを増したころ、ふと。シェイドの肩に頭を置いたまま、フィリオンが思い出したようにつぶやいた。 「……あのね、シェイド」 伝言を。真っ先に伝えなければと思っていた銀の少女は果たして、その思いどおりに口を開いたのである。 彼女は歩いていた。 どこまでも広がる蒼穹の下、地平線のかすんで見える広大な大地を。 やがて小高い丘にさしかかり、太陽が少し傾きはじめたあたりでようやく足を止める。 「……今日はここらで野宿かな」 少しだけ冷たいものが混じり始めた風に、髪をなぶられながら彼女はつぶやく。 その姿を目にとめる旅の者がもしいたならば、さぞや驚いただろう。それは、二年前に一度、王都に姿を現してのち、すぐに消息を絶ったひとそのものだったから。 けれど幸いというべきか、彼女のいる丘の周辺を通る旅人はおらず、今そこに彼女がいること、それを知ることが出来る者はいなかった。 ――否。 常に彼女とともに在る、ふたつの存在だけは例外であって。 大気の中からにじみでる。彼女の声に応えたかのように――紺色の影であったそれは、一瞬にして赤と紫の鮮やかな気配に変わる。 「俺は別にかまわないけど」 鮮赤の瞳に、赤を極限まで凝らせた髪の少年が云う。その隣に立つ、紫の髪と目の少年が、同意するように首を上下させた。 「そうですね、外に出たのも久しぶりですし」 「……だな」 つい先日まで滞在していた村の居心地も悪いものではなかったし、むしろとても心地好かったのだけれど。それでも、ずっと長い間ひとところに留まっているということは、あんまり彼女の性に合うものではなかったから。 「じゃ、久々にお星様の下に宿を貸してもらうとしますかね」 朱金の瞳、にっこりと細め、彼女は決断を告げた。 「そういえば」 「ん?」 「無事に帰れてたようでなによりですね」 ごく最近に別れた、少年のこと。思いだしたように訊ねられて、彼女は小さく首をかしげる。 「帰れるに決まってるじゃない」 あきれたように片割れに突っ込んだのは彼女ではなく、鮮赤の瞳を身に宿した少年のほう。 「なんのために、2年もあんなスパルタやったと思ってるの」 故郷に帰るくらいのこと、してもらわなくちゃ俺が頑張った意味がないじゃない、とのことば――それに多少ひっかかるものはあったらしいが、紫の少年は、苦笑してうなずくだけにとどめた。 「……一時的な保護者としての責任ですよ。 あぁ、焔朱には縁がないものでしたっけね」 しれっとつぶやく片割れのことばを、聞き逃す縁朱ではない。 「なぁにが保護者だよっ! 毎日嬉々として特訓かけてたの、どこの誰さ」 「云うまでもないですが」 にっこり微笑んで、紫の少年は目の前の片割れを指差した。それがますます癇に障ったのか、鮮赤の瞳が、刹那、鋭い光を宿し―― 「やめろって……」 疲れたように、ふたりの間に割り込んだ少女の声によって、一触即発の事態だけは逃れたようである。 「焔朱、いちいちつっかかるな。 紫紺、おまえも。調子に乗っておちょくりすぎるんじゃない」 「はーい」 「はいはい」 まったく……と、疲れたように彼女は空を仰ぎ見た。 少し傾き始めた太陽の光に、まぶしそうに目を細め、少年の帰っていった方向を見やる。 ふと、風が吹いた。 祈るように、歌うように。 かすかな声で、風に乗せて。 つむぐ。 「――在るがままに」 君たちが君たちで在る限り、世界は世界で在るだろう。 「――どういう、意味?」 不思議そうに訊いてくるシェイドの問いに、フィリオンもヒューも答えるすべを知らなかった。 せめてシェイドが帰ってくるまで詩人さんが滞在していてくれれば、そのことばの真意も聞けたかもしれないけど、もう、あの人は旅立ってしまったから。 そして、その伝言を頼んだ賢者もここにはいない。 「……自分たちで考えろってこと、かな? きっと」 ふと思いついて、フィリオンは云った。 金と黒の相棒の視線が自分に集中するのを感じて、ちょっと照れくさくなったけれど。 云うべきこと――一度口にしかけたことはちゃんと云わなければ、と、教えてくれた先生がいるから。 「アルさんは、今の……ちがうや、たぶん……」 そう、たぶん、賢者たちの知りえないあの瞬間から。金と銀の鮮やかな一対に、新しい色彩がまじったあの日から―― 「今までのわたしたちにそう云ってくれたんだから――」 だから。 そう告げられた、今の、自分たちの姿。気持ち。心。 ことば。 忘れずに。 なくさずに。 賢者の残したことばの意味を考えるとき、はるか、今のこの自分たちに立ち戻るということ、できるように。 忘れずに。 考えつづける限り、心に留めておく限り。 今の自分たちを忘れること、きっと、ないから、と? ――憶測でしかなく。あやふやでしかなく。 けれど、ヒューもシェイドも、フィリオンのことばに微笑んだ。 「なんとなく判るよ」 「たぶん、な」 あやふやに――だけれど。 それでも、かけらだけでも。 今の自分にはそう解することしかできない。 いつか。 ――いつか、あのひとに。 また逢える――そのときまでには。 答えを。 見出していること――できるなら。 ――いつか、あのひとに。 また逢える――そのときがこなくても。 答えを。 見出そうとすること――忘れずにいれるなら。 また、風が吹いた。 誘われるように、金銀黒は揃って蒼穹を見上げる。 同じこの空の下にいる、あのひとまでも届くのだろうかと――思って。 そして、はっと気がついた。 大事なことばをまだ、云っていないこと。 あわてて視線を戻したフィリオンとほとんど同時に、ヒューもシェイドも。 それぞれがそれぞれを視界におさめていた。 ――おかしいね。 不意に、そう思う。 2年という年月、けして短くはなかったはずなのに――こんなにも自然に、また、自分たちはともにいる。 ――視線を交わして、微笑んで。 それだけで、相棒たちが自分と同じこと、考えていると知ることができて。 フィリオンはもう一度、微笑んだ。 「ただいま」 「おかえり」 ――フュールディームハレス。 遥か、遠い、時の彼方のことばで、それは、「いつか帰る場所」なのだという。 それはすでに、正式な意味を時の彼方へ置き忘れてきた、ことば。 知る者は、もう、ひとりしかいない。 ――いつか すべての生きるものたちが、いつか見つけ出す、 いつか、帰る処 世界地図のほぼ中心を占める大陸の名を、ハリアーと云う。 その大陸の北の辺境に、小さな村があった。 ――その名を、アースフィルドという。 ::: おまけ ::: 「やぁ、シン」 「うわぁぁっ!?」 いきなり窓から現れてくれた、突然の来訪者に、彼は驚いて――驚きすぎて、飲んでいた茶を、湯飲みごとそこらにぶちまけてしまった。さして量が残っていなかったのが唯一の救いだったろうか。 「……ご挨拶だな、おい」 不機嫌なオーラをびしばし発しながらも、彼女は窓枠を乗り越えて侵入してくる。 止める気も起きず、シンは、それを横目に見ながら――とりあえず、今しがた起こった惨事の後始末を敢行することにした。 「……で、何の用や?」 「いや? 通りかかったから様子見にきただけ。まだここに住んでるかなと思ってさ」 住んでなかったら、おまえ、家宅侵入で訴えられとるぞ、というシンのことばはきれいさっぱり黙殺される。 そして沈黙。 ちょっと気まずくなった場の雰囲気をどうにかしなければ――考えて、ふと、棚の写真立てに目が行った。つられるように、朱金の瞳がそのあとを追う。 「あら」 丸っこい瞳をさらに丸くして、賢者は、外見年齢相応の驚いた表情をしてみせた。 「ざっと一年半前、くらいかな」 視線は写真に固定したまま、説明してやる。 「いきなり報せがきたもんな、速攻で駆けつける羽目になったわ」 口調は文句だが、その目は優しい。友人とその奥方――になる直前だったのだが――の、照れたような困ったような、そんな顔を思い出す。 それに。 幸せそうなふたりの後ろ、大成功! とでも云いたそうに顔をほころばせていた金銀黒の表情も。 「……そうかぁ……そうなんだ」 「そのうちあんたも祝いに行ったれよ? よろこぶで?」 「…………そのうち、ね」 風の向くまま気の向くままに、世界中を旅する少女は微笑んだまま、うなずいた。 視線の先には、幸せそうな新郎新婦を中心に、にっこり笑っているこどもたちのいる写真。 そして―― よくよく目をこらしてみれば、新郎新婦の左手薬指、誓いの証に嵌められているそれは。 琥珀を加工した、対の指環だった。 |
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