創作

■目次■

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夏の困惑者・前編


 夏がやってきた。
 人々が待ち望んでいた季節。
 太陽の光が、一年でいちばん強くなるこの時期。
 ここぞとばかりに農作物の手入れに精を出す人、冬にそなえて今から食料を備蓄しておこうとする人。動物たちが、こどもたちが、元気に畑や牧場を駆け回る姿が見られる。
 夏。
 ファルス地方にとって、いちばん活気のある季節。

 今年の夏は、フィリオンとヒューにとって去年からずっと心待ちにしていたものだった。
 いや、冬に新たに加わったシェイドにとっても。


 アストリーア王都には、王様の住んでいる大きな大きなお城があるという。それは、この施設よりも大きくて、村の広場よりももっと広くて、もしかしたらアースフィルドの村がすべて入ってもまだだいじょうぶなんじゃないかというくらい大きい。というのが、常からのリク先生の話だった。
 リク先生は冬に一度帰ってきてから、ずっと施設に滞在していた。例年なら、ちょっと羽を休めた後、またどこともしれず出稼ぎに行ってしまうのだが――それでもきちんと手紙は届くから、心配だけはしないですんだけど――、今年は、シェイドを連れ帰ったあの日からずっと、夏になってもアースフィルドにとどまっていた。施設の生活費にも余裕がないわけではないし、それに。
 今年の夏は、特別な夏なのだ。


 うきうき、と顔いっぱいに書いて、フィリオンは服を袋に詰めていた。隣ではヒューが、これまた喜色満面で同じような袋を用意している。
 そして、戸惑いがちに、それでもふたりを見習って、旅支度をしているシェイド。
「食べ物とかはどうするんだっけ?」
 フィリオンが顔をあげて、シェイドに訊いた。
「リクさんが、みんな準備するみたいだけど」
「でも……、携帯食少しくらい入れておいたほうがよくないか?」
 ほら、と。いつの間に持ってきていたのか、数包みの携帯食をヒューがふたりに投げてよこした。さすが、『転ばぬ先の杖』を実践しているだけのことはある。そんなきょうだいを年寄りくさいと思ってしまうのは、フィリオンだけではないはずだ。
 受け取った食料は、できるだけつぶさないように上のほうへ詰め込むことにして、フィリオンはもう一度袋の中身をたしかめた。
 着替え少々に、使い慣れたカップ。それから、タオル。簡単な食器。
 リク先生に云われたものは、ほとんど準備した。ベッドのわきには、明日着るための服も用意してある。歩きやすさを考えてつくられた、まだ新しい編みこみの靴もある。靴の箱は、ほんとうなら旅の当日になるまで開けないつもりだったのだけど、リク先生が云うには足になじませておいたほうがいいということなので。一週間くらい前から施設のなかにいるときだけ履いているようにした。それも昨日で終わり、今はちょこんと床に鎮座して、出番を待っている。
 それが、金銀黒、それぞれのベッドのわきにきちんと置いてあるのを見て、フィリオンはまた、にっこりと表情をゆるませる。
「楽しみだね」
 少女の弾んだ声に、金と黒が顔を見合わせて笑う。
「そうだな、この地方から出るのははじめてだもんな」
 ヒューがうなずき、
「神殿に行くんだよな。
……賢者の像、見れるかな……」
 シェイドはすでに観光先(?)を決めてしまっているらしい。
「賢者の像?」
「うん。王都の神殿にただひとつだけ、保管されてるんだ。
 それだけが、賢者の姿を見る唯一の記録だと云われてる」
「シェイドは賢者を見たいのか?」
「あぁ」
 にっこり笑って、黒髪の少年は首を縦に振る。
「実はリクさんに拾われたときも、王都に向かってる途中だったんだ……体力切れて行き倒れたけどな」
「このへんを、冬に通り抜けるのは無理よ」
 旅慣れしている大人やリク先生ならいざ知らず、親をなくしたばかりの、しかもまだ幼い少年一人でファルスを横断するというのはまさしく、自殺行為以外の何ものでもない。
 一冬をここで越したシェイドも、それは身にしみて判っているようだった。
「でも、どうして王都へ行こうと思ったんだ?」
「さぁ……親が死んで、途方にくれて……他にあてもなかったし。しょうがないからいちばん大きな町に行けば何かあるかもって思ったんだ」
「そうだね。魔族もときどき見かけるからね」
「リク先生!!」
 いつの間にやってきたのか、入口にかるく背を預けて立っているのは、とうのリク先生だった。村の人たちとともに畑作業をしてきたらしく、服や顔のあちこちに泥がついている。小麦色のその髪も、よくよく見れば乾いた土が名残のようにこびりついていた。漂ってくるのは、土と緑の匂い。
 この短い季節の間しか感じられない、馴染みうすく、けれど大好きな緑の香り。
「王都に魔族がいるの?」
 フィリオンの問いに、リク先生はにっこりと笑うことで答えに変えた。
「魔族だけじゃあない。妖精が飛んでいることもあるし、きれいな精霊のお姉さんが占い師をしていたりするよ。
 王都にはなんでもあるからね」
 こどもたちの、アストリーア王都への期待をますますふくらませるようなことだけ云って、リク先生は「じゃ、私は用事があるから」と行ってしまった。残されたこどもたちは必然的に、目を輝かせて顔をつきあわせることになる。
 そんな様子を、こちらは扉の陰から見ていたフレアは、歩いていく同僚に追いつくと話しかけた。
「……他の子達が、寂しがるわね」
「こればっかりはしょうがないだろう?」
「そうねぇ……」
 考え事をするときに、あごに指を当てるのがフレアの癖だった。その指をゆっくり動かして、紅茶色の髪の女性は、小麦色の髪の男性を見上げた。
「どうするのかしら?」
「どうするのだろうねぇ?」
 まるで謎かけのようなことばを交わして、ふたりは穏やかに、共謀者の笑みを浮かべた。


 明日は、待ちに待った出発の日だ。
 11歳になったお祝いに、王都アストリーアへ向けて出発する日。

 王国歴ティールの月、夏の真っ盛りに。
 11歳となった国中の子どもたちを集めて、王都の本神殿で催し物が行われる。
 国の決まりにより、11歳となったこどもは正式に、国民として記録されるためだ。それまでは、親の名前の下に連名として記されているだけなのだが、11歳となると完全に独立した形で台帳に記録しなおされるのだ。
 そうなれば、もう立派な一個人として扱われることになる。家業や畑仕事の手伝いなどではなく、正式に賃金をもらって働くことも出来る。もちろん何か事を起こしたときには親でなく、本人が裁かれる。
 そして、こどもでいられる最後の日に、と、国が催すのが『聖賢人祭』。
 かつて世界を平和に導いた賢者のようにつよきかしこき人になれ、という願いを込めて開かれる、三日三晩、王都中を染め上げる祭りだ。


 今年、アースフィルド村から王都へ向かう11歳のこどもは3人だけ。
 金銀黒の3人組。フィリオン、ヒュー、シェイドだった。


 出発の朝。
「いってらっしゃい、お姉ちゃん」
 セリエが、フィリオンの手をにぎって微笑んだ。
「うん、行ってくるね」
「お土産もって、ちゃんと帰ってきてね?」
 リーシアのことばに、ヒューが苦笑している。
 ボウが、
「兄ちゃん、魔族に逢ったら絶対に友だちになってこいよ!」
 などと勢いよく云っていて、シェイドは逆に戸惑いながらうなずいている。
 フレア先生に抱っこされている、幼いカイの手をそっと握り、「いってきます」とささやいて、フィリオンは、少し先で馬車を用意して待っているリク先生のところまで歩いていった。
 振り返れば、施設がある。入口で見送ってくれている、先生やこどもたちがいる。
 自分が11年暮らしてきたそれを、こんな気持ちで見上げるのはフィリオンにとって初めてのことだった。
 王都まで、片道約一週間ほどもかかる。それから祝祭に参加して、しばらく王都に滞在する予定だ。帰ってくるころにはたぶん、もう夏は終わっているのだろう。去年王都へ出かけた、向かいの小麦屋の、双子の女の子たちもたしか、今の自分たちと同じ頃に出かけていって、帰ってきたのはすでに秋に入りかけた時期だったから。たくさんのお土産を持って帰ってきた彼女たちが、うらやましくて。早く来年になればいいな、とあのとき思ったのに。
 いざ、こうして出発を目前にしてみると、なんとも不思議な気分になる。こんなに長く村を離れることがまずなかったので、これからしばらくの間この風景を見ることもないのだ、と思うと奇妙な感じもした。
 感慨があるのはヒューも同じらしい。フィリオンにつづいて、シェイドとともにリク先生の方へ走ってきた彼だったが、ふと、振り返ったその動作に、なんとなく自分と同じものを感じ、銀の少女はかすかに息をつく。
「さ、行こうか?」
 こどもたちに手を振りながら、リク先生が、金銀黒に声をかけた。
「うん」
 視線を移し、フィリオンはうなずく。金と黒の相棒が、彼女に一瞬遅れてうなずいた。
 きびすを返した3人組は、一度だけ振り返り、施設の皆に手を振って馬車に乗り込んだ。

  目指すは王都アストリーア。


 大陸北部に位置するファルス地方から王都へ向かうには、街道を南下することになる。リク先生ひとりでなら4日もあれば王都までたどり着くそうなのだが、こどもたちの足では、馬車があるとはいってもさすがに無理だった。とはいえ、祝祭に遅れては話にならない。余裕を持って行きたいこともあり、早めに村を出発したのだが、それでも自然と急ぎの旅になる。
 だが、金銀黒にとってはそれさえも、苦痛にはならなかった。
 こどもならではの好奇心で、あちらこちらから次々と新しい発見。通りすがりの旅人さんから美味しいお菓子を分けてもらったし、野宿の夜の虫の鳴き声に合わせて4人で歌ってみたりもした。河で魚を捕るために、餌となる虫を探して石をひっくり返し、びしゃびしゃになったりもした。
 見るもの聞くものすべてが、アースフィルドから出たことのない彼らにとっては新鮮だった。
 シェイドだけは外から村にきたはずだが――彼だって、両親とともに暮らしていた場所から、天涯孤独になったあの日まで動いたことはなかったというから――、やっぱり今のはしゃぎようを見ている限り、金銀と同じようなものである。
 それに、今は夏。
 雪に見舞われる心配がない旅はいいねぇ、と、しみじみ、リク先生がつぶやいた。
 天候に恵まれたせいもあるが、フィリオンは生まれて初めての「日焼け」というものをしてしまった。しかもリク先生みたいに肌が茶色になるのではなく、赤くてひりひりして痛いほう。軟膏を塗られても、まだ痛かった。
 さすがにこれを見かねたのだろう。
 旅の途中に寄った宿場町で、リク先生はこどもたちに帽子を買ってくれた。
 もちろん3人はおおよろこび。フィリオンも日焼けのことなど忘れてはしゃぎまわったくらいだ。

 ――そして。


 だんだんと。
 荒野が少なくなり、緑の平原が増えてくる。
 道を往く旅人とすれ違うことも多くなった。
 日差しも、心なしか出発した日より強くなった気がする。その証拠に、こどもたちは村ではめったに袖を通すことの無い、半袖の服をまとっていた。
「――――うわぁ!」
 あれが王都だよ、と。
 小高い丘の上から先生が指さして見せてくれた先を見て、こどもたちは歓声をあげた。
 はるか、遠い緑の向こうに、どこまでもつづく長い壁がある。そのなかに、まるでおもちゃのような小ささの家がたくさん。アースフィルドの村の何倍だろう……あのひとつひとつに人が住んでいるのだ。
 そして、ひときわ目立つ大きな建物――あれがお城だろうか。
 自分たちの住むファルス地方をまとめる領主さまの仕えている、国王さまの住むおうちだろうか。
 それはとても大きくて、きれいだった。白いきれいな石で作られた壁が、陽光を反射して穏やかに輝いている。窓のガラスも、たぶん特別につくったものに違いない。虹色の輝きが、城のあちこちから彼らの目に届く。
 こどもたちは、声すらなくし、その光景に見入っていた。
「ほらほら、見とれてないで行こうか?」
 先生が苦笑して声をかけるまで、けっこう時間が経っていたように思える。フィリオンは、視線を無理矢理お城のほうからひっぺがし、リク先生の方を見た。
「すごいねっ……」
 ことばにしようと思っても、結局そんな簡単なことばで終わってしまうのが、ほんの少し悔しい。もっと大人だったら、あのお城の美しさを上手に表現できたかもしれないけれど。
 それでも、百のことばで飾り立てるよりも。素朴でもいい、つたなくてもいい。たったひとつのことばでも、気持ちがこもっているなら、それはじゅうぶん聞き手に伝わる。
 リク先生が、にこりと微笑んだ。
「そうだね。私も何度か見ているが、今日はまた、絶景だねぇ」
「先生、早く行こう!」
 今の今まで半ば放心していたヒューが、いつになく強引に、リク先生を引っ張った。
「おやおやヒュー、どうしたんだい?」
 いやに張り切ってるね。
「めずらしいな」
 シェイドだけは、いつもどおり落ち着いているように見えた。金銀が城に感動している間、ひとりで着々と昼食の準備を進めていたらしい。馬車の傍の大きな岩陰に、4人分の昼食がきっちり用意されていた。
 それを見て、今にも王都へ走り出そうとしていたヒューが、がっくりと肩を落とす。
 実はこちらもリク先生を急かそうと、彼の腕に手を伸ばしかけていたフィリオンだったが、それを見て手をひっこめた。
 ヒューもまだまだこどもよね。
 自分のことは棚に上げて、くすくす笑うと、それが聞こえてしまったらしく、ヒューはぷいっとそっぽを向いた。
「ははは、ヒュー、あせらなくても城は逃げやしないよ。のんびり行こうじゃないか。
 フィリオンもね」
「はぁい」
 やっぱり、先生にはばれていたらしい。小さく舌を出して、フィリオンは笑った。


 やっとたどり着いた王都は、こどもたちが想像していたよりもすごいところだった。
 まず、人が多い。祝祭が近づいているせいもあろうが、視界に入る群衆だけで、アースフィルドの住民と同じくらいの数がいるかもしれないと思えた。それから道。剥き出しの土ではなく、きっちりと石畳で整備されていた。その石畳も、規則的な模様を描いて配置されている。建物も、村では一般的な木作りの家は少なくて、白いきれいな石で――リク先生は、あれは漆喰と云うんだよ、と云っていたが、こどもたちにはよく判らなかった――つくられていて。壁にも、絵の具でだろうか、きれいな紋様が一面に描かれた家も少なくない。ちなみにその紋様は、宗教的に意味があるのだとこれまたリク先生が教えてくれたものの、やっぱり金銀黒が理解していたとは思えなかった。
 初めて見る王都の光景に、初めこそ息を呑んでいたこどもたちだったが、なにせもともと、神経が細いとはけっして云えない3人組だ。リク先生の知り合いの家にたどりつき、馬車などを預けて街へ見物に繰り出す頃には、持ち前の好奇心を発揮しだしていた。
「せんせ、せんせっ、あれ何っ?」
「あれは教会だよ。ほら、屋根のてっぺんに十字架みたいなのが立ってるだろう?」
「教会と神殿は違うの?」
「うん、そうだね。教会は神殿の子分みたいなものさ、この国ではね」
「行ってみたい!」
 とフィリオンが云えば、
「何云ってんだよ、さっき出る前にみんなのお土産買いに行くって云ったじゃないか」
 施設のこどもたちから預かってきたメモを片手に、ヒューが当面の目的を果たそうとする。
 かと思えば、
「……賢者の像、今は見れないか?」
「無理だよ、シェイド。神殿はいつでも入れるけれど、像が公開されるのは、祝典の間だけだって決まってるからね」
「……忍び込めないかな……」
「こら、むちゃくちゃ云わない……」
「…………」
 いつもはおとなしいシェイドが、意外な粘りを発揮してリク先生を困らせたりもしている。
 結局、施設のこどもたちや村の人たちへのお土産をまず買うことにして、彼らは店の集まっている一角へ向けて歩いていた。
 もっともその間も、
「あれなんだろ? うまそうだなー」
「あのガラス細工、きれい……」
「先生、今の人のフード、何か意味があるの?」
 こどもたちの高揚ぶりはとどまることなくつづいていたりして。
 先に音をあげたのは、先生のほうだった。すなわち、街のほぼ中央に位置する巨大な噴水を目印として金銀黒に教え、
「先生はここで待ってるから、買い物が済んだら戻ってきなさい」
 というわけだ。
 そしてそうなると。これまでは、保護者同伴という甘えもあって好き勝手云っていた3人組だったが、さすがに引率者もなしにこの街で、好き勝手ばらばらに行動するのは問題だという意識のもと、がっちり団結したりするからおもしろい。
「まずお土産だな」
「そうそう」
「買ったら、リク先生に預けにいったん戻ろう」
「で、今度は先生のともだちの家までの道を教えてもらって、夕方まで見物しようね。
 待ってる間に地図書いておいてもらおうか?」
「先生のともだち、なんて名前だ?」
「シンさん、じゃなかったっけ?」
「じゃ、決定」
 なんだかんだでいつも銀と黒に先んじて行動する性のあるヒューが、噴水に腰かけた先生のところまで走っていった。身振り手振り交えて交渉している相棒の後ろ姿をぼぅっと眺めていたフィリオンだったが、
「――――!?」
 がばり、と。
 いきなり振り返った銀の少女に、シェイドがびっくりして後ずさる。
「どうした……?」
 自分の後ろを見ている少女の視線を追うように、彼もそちらに目を向けてみた。だが、ただ人の山がつづくのみで、行き止まりには家の壁。これといって何かがあるようには思えなかった。
 だが、フィリオンは、何かにとりつかれたようにその蒼い瞳で一点を凝視していた。
 声をかけがたいものを感じて、シェイドはただ、立ち尽くす。
 そこへ、
「すまん待たせたっ」
 両手を合わせてわびながら、ヒューが走ってきた。
 ふ、と、それまでの硬質な空気がやわいだことにシェイドは気がついた。フィリオンは視線を戻して、やってくる相棒を笑って迎えている。
「何見てたんだ?」
 問うてもいいかどうかよく判らなかったが、シェイドもフィリオンと同じく、気になったことは解決しないと気のすまない性質だ。どちらかというとヒューのほうが、『知らないもんは知らなくていい』という姿勢を貫いている。
 シェイドの問いに、フィリオンが振り返る。どきっとしたが、いつもの彼女の笑顔だったことにシェイドは少し安心した。
「神様がいたと思ったの」
「かみさまぁ?」
 いぶかしげに反応したのは、ヒューだった。眉根をよせて、
「そんなもん、こんなとこにいるわけないだろーが」
「ちがうよ、ヒュー。ほら……あのときの」

 春先に、熊に襲われたときに、出逢ったひと。

 緑色の髪に朱金の瞳の、アルカイヤの花を思い出させる色彩のひと。

 おそらく魔法使いだろうそのひとが、金銀黒を助けてくれたのだということは、シェイドも聞いていた。しかも生半可な助け方ではなく、一瞬にして空間を移動させるという、とんでもない大技でもって。
 そういえばフィリオンは、なくした首飾りが返ってきたのもそのひとのおかげだと思っているようで。
 そのひとのことを『神様』と呼んでいたことも、シェイドは思い出した。
「あー、アルさんだっけか?」
 記憶を掘り起こして、ヒューが訊ねる。
 フィリオンは、相棒の記憶がたしかだったことに満足して大きくうなずいた。
「そう。そのひとといっしょにいた、紅い目のひと……いたような気がしたんだよ」
「そっか……でも、黒い髪なんてそこらにいるだろ?」
「そうだけど……あ、あのひとだ、って思ったんだもん」
「俺は見てないけど……」
「シェイドからは見えなかったよ。シェイドの後ろだった」
 黒髪の少年の疑問に答えて、フィリオンはもう一度、そのひとを見たと思った方向へ目を戻した。
「……王都にいるのかな……」
 そういえば、旅の途中だと云っていた。アースフィルドの村を出て、丘をあの方向に越えていったのなら。そしてまっすぐ進んだのなら、この王都に辿り着いているのではないだろうか。
 また逢えるだろうか?
 逢えたら話したいことがある。シェイドもちゃんと紹介したいし、首飾りを持ってきてくれた(たぶんあのひとだろうとフィリオンは思っていた)お礼も云いたいし。それになにより、ただ、逢いたい。
 あの不思議な色彩のひとを、もう一度見たい。
 ヒューが、ぱたぱた手を振りながら、
「ま、いるにしたってこの人ごみだ。逢えるとしたら奇跡だな」
 せっかくいい気分だったのに、水をさされた形になって、フィリオンは頬を膨らませて金の相棒をにらんだ。


     奇跡は起こる。

  彼女は不機嫌だった。
  そこはかとなくどころでなく、他の人間を容易に近づけさせないほどには不機嫌だった。
 「いいかげん、機嫌直してくれません?」
  豪奢に飾られたベッドに腰かける彼女の正面に立ち、紫色の法衣をまとった少年はため息をついた。
  それに負けず劣らずのため息を吐き出して、彼女はその少年を据わった目で見返した。
 「これが不機嫌にならずにいられるか?」
 「まぁ心中お察ししますが」
  彼女の不機嫌の理由を知っているからこそ、少年も、無理に機嫌を持ち上げようとはしない。
  ただ、精神衛生上問題なような気がするから、ちょっとだけどうにかならないものかと思いはしたが。
  しゃらん、と、少年の持つ杖の先端で、金具が揺れて音をたてる。
 「いいじゃないですか……たまにはご本尊が姿を現してみたって。
  ここのとこ隠居生活でしたから、あなたの存在を疑う人も多くなってるらしいですよ?」
 「別に疑われても問題ないだろうに」
 「あなたを祭り上げている彼らにとっては、不都合でしょう?」
 「……………」
  彼女を包む不機嫌のオーラが、ますます力を強めて少年をびしばし突き刺した。
  それをさらりと無視して、少年は彼女を諌めにかかる。
 「だいたい、先に我侭云って辺境の神殿で楽隠居してたのは貴方でしょうが。
  ここらで恩を売り返しておかないと、このあとどんな無理云われても僕らフォローできませんからね?」
 「……判ってるよ」
  ふぅ、と。最後にするつもりらしい、特大のため息。
 「まったくなぁ……人を勝手に祭り上げて、おまけに銅像まで造って。
  ……あげくに式典だの祝祭だの、人の名前で勝手に行われた日には泣きたくなるよ」
 「だったらほっとけばよかったでしょうに」
  ふと。語調を変えて告げられたひとことに反応して、彼女はいぶかしげな目を向けた。
 「あの争い、どう考えてもあと三年放っておけば自然消滅したでしょうに」
  わざわざ貴方が介入する必要はなかったのでは?
  自分が、それまでに比較してとんでもなく有名になる原因をつくったそれのことを云われて。
  彼女は心底嫌そうに、紫の少年を見上げたものだ。
 「それで? 放っておけばよかったと云いたいのか?
  彼らが互いに消耗するまで?
  すべてが塵芥になるまで?」
 「――いいえ」
  ふゎり、少年が微笑んだ。
  柔らかな物腰で、一見すれば女性と間違えられそうなその風貌だが――
  やはりどこかしらは性を感じさせるものがある。
 「大好きなものが傷つくのを放っておけるひとじゃないのは、知ってますからね」
 「……そりゃどうも」
  勢いをつけて、彼女はベッドから立ち上がった。
 「しょうがないか。これっきりだし、たまには思いっきり目立ってやろう」
 「その意気その意気」
  得たり、と煽る少年をちょっとだけにらんで、彼女は窓の外に目を向けた。
 「そういえば、焔朱はどこ行った?」
  ふと思い出したように発された問いに、少年は苦笑して答える。
 「どうせ暇だから、街を見物してくるって、さっき出て行ったじゃないですか。
  不機嫌になりすぎて、聞いていませんでしたね? アル?」

    奇跡という名の、それは――



 祝祭が始まる前に王都を隅々まで探検しようと息巻いていたこどもたちだったが、王都に詳しいリク先生と、そのともだちのシンさんも加勢してくれたとはいえ、やはりそれは無謀なことだったらしい。すでに祝祭は翌日に迫ったというのに、今、寝室の彼らの、目の前に広がった地図のところどころには、まだ×印がつかずにまっさらな部分がけっこう残っていた。
 日々歩き回って、なんだか最近自分の足が棒になったような気がするフィリオンは、風呂上りのそれを丹念にもみほぐしながら、相棒たちといっしょに地図を覗き込んでいた。
「でも、けっこういっぱい行けたよね」
 最初の日にお土産を全部買ってしまわなかったのは、よかったことだと思う。リク先生が教えてくれた土産物屋より、いい品物を安くそろえたお店が別の場所に新しくできていることを、彼らは帰ってからシンさんに教えてもらったのだ。それに味を占めた3人は、買い物の時にはいくつかの店を見て回ってから決めるということを覚え、それからは誰がいちばんいい店を見つけるかの競争になってしまったのだ。そしてそれを動力に、街じゅう駆け回ったと云っても過言ではない。
 観光もしっかりやった。
 賢者の像はまだ見れないものの、それでもいいとシェイドが云ったので神殿に行って礼拝もしたし、教会に行って、アースフィルドの施設と同じように、集まって勉強会などしているこどもたちと――もっとも、彼らは皆親がいたが――ともだちにもなったし。辻占いというものも初めて見て、面白半分に占ってもらったら、虫の難が出ていると云われたシェイドが、その日の夕方ハサミムシに手をかまれてしまったりもした。そのときあんまり驚いたせいで、買ってもらって以来気に入ったらしくてずっとかぶっていた――家のなかでもかぶっていたくらいだ――帽子を水溜りに落としてしまい、今それは、庭に干してある。もちろん風で飛んだりしないように、ちゃんとシェイドは重石を乗せているし。
 だけど、ちょっと怪我をしている人が多いのが気になった。通りすがる人たちの10人にひとりほどが、身体のどこかに包帯を巻いていたり、ばんそうこうをしていたり。ひどい人になると、松葉杖をついているということさえあったのだ。ただ、それ以外は本当にみんな元気で活気があって楽しいところだと思う。
 とにかく、過ぎてしまえばそれも楽しい前夜祭――のようなもの――だった気がする。
 フィリオンが思い出を振り返っていると、ふと、地図に影がさした。
「この日数にしちゃ、けっこうあちこち見れたほうやないか?」
 寝室にミルクを持ってきてくれたシンさんが、ひょっこりと彼らの頭上から地図を覗き込んでいたのだ。
 シンさんは、リク先生のともだちだ。ここで働いているときに知り合ったのだという。そういえば以前、何度か手紙にその名前が出てきたような気もする。
 黒くてまっすぐな髪を後ろで適当に束ねていて、年はリク先生よりもフレア先生よりも若い。ほんとかどうかは知らないが、22歳だと云っていた。ちょっと目つきがするどくて、左の頬に1本傷跡がある。ぱっと見た目は怖いかもしれないが、人懐っこい表情をする人なので、あまり気にならなかった。なんとも癖のある話し方をするが、これは幼い頃に各地を転々としていたら、その地方その地方の方言がごっちゃに混じってしまった結果だという。初めて聞いたときは、3人とも大笑いしたものだ。
「シンさん、リク先生は?」
「うん? もう寝とるで」
 最後の最後までこどもたちに付き合ってくれた先生だったが、さすがに疲れてしまったらしい。こどもたちを全員風呂に入れた後、ベッドに入るなり爆睡していると、シンさんは教えてくれた。
「おまえら、明日の服はちゃんと準備しとるんやろな?」
「うん」
 云いながら、フィリオンは得意げに部屋の一角を指した。
 木で出来たハンガーにかかった、3人分の子供服。施設から大事に持ってきた、フレア先生がこの日の為につくっておいてくれたもの。
「手作りなんやってなぁ……器用なもんや」
 汚さないように気を遣ってのことだろう、慎重に指先だけで触れながら、シンさんは感心した声をあげた。
「フレア先生は、裁縫上手だからな」
 まるで自分のことをほめられたように嬉しそうに、ヒューがシンさんの傍まで行って注釈を入れる。
「このふわふわスカート、フィンちゃんのやな? 着たらかわいいやろなー」
「明日のお楽しみねっ」
 満面の笑みで、フィリオンは答えた。つくってもらったその服は、普段自分が着ている男の子のような動きやすい服と、ずいぶん違っていて。果たして似合うのかどうか、実は少し不安だっただけに、シンさんのことばはうれしかったのだ。
 早めに寝ろよ、とミルクを置いて、シンさんは部屋を出て行った。
 そのことばのとおりに、彼らはミルクを飲んだあとは早々とベッドにもぐりこんだのだが、やはり、明日のことを考えるとうきうきしてしまってどうしても眠れそうにない。けれど、もしかしたら誰かはもう眠っているかもしれない、だとしたら話しかけて起こしてしまってはいけないな、と、3人が3人とも思っていた。
 窓からは、津々と月の光が降り注ぎ、小さな寝室に静寂の幕がかかる。

 フィリオンは、王都へやってきた最初の日に見かけた、あの赤い瞳のひとのことを思い出していた。
 黒い髪はたしかに大勢いるが、あの、炎のような赤い瞳はたぶん、他に無い。
 見かけたあのとき、耳の形をたしかめておけばよかったな、と、彼女はちょっと後悔していた。
 でも、いいや。
 やっぱりあれは幻なんかじゃなく、ほんとうにあったことなんだ。
 あまりの突拍子の無さに、体験した自分たちでさえ現実のことだったかどうか判らなくなりそうだった。けれど、あのひとがいた。緑の髪の、あの人の連れ。あの魔族みたいで魔族じゃないと云ったひと。

 あのひとがいた。
 あのことはほんとにあったこと。
 そう信じられるのがうれしかった。

 そして、思考の海に意識を静めている間に、いつの間にかフィリオンは眠りに落ちていたのである。



 祝祭当日は、いい天気になった。
 目を覚ましたら雲ひとつ無い天気というのは、普段だってじゅうぶん嬉しいが、こういう特別な催し物の日だと、なんとなく得したような気分になる。
 施設でそうしていたとおり、まずフィリオンが目を覚ました。一階へ下りて顔など洗っている間にヒューが起き出してきて、フィリオンと合流する。ふたりでひととおりの身支度を整え、部屋に戻ってシェイドをたたき起こす。相変わらず朝に弱いシェイドを引っ張るようにつれて下り、最後のひとりも用意が整うと、その足で台所へ向かう。するとちょうど、シンさんが朝ご飯を作り終わったぐらいになるので、食事をつぎ分けたり、飲み物の用意をしているうちにリク先生もやってくる。そして、全員そろって卓を囲む。
 シンさんは、旅暮らしと一人暮らしが長いせいか、食事をつくるのがとても上手だ。こども用の味、大人用の味、と分けてくれるのが嬉しい。こういってはなんだが、旅の途中でリク先生が作るものはどうしてもこどもたちの舌に合わず、初日の晩から、こどもたちは自ら進んで味付係の役についたものだ。
「昨日はちゃんと寝たか?」
「うん」
 真っ先に眠っていたリク先生の問いに、フィリオンは笑顔でうなずいた。
「そりゃそうやろ。ゆうべのミルクにゃ俺の特製睡眠薬がはいっとったからな」
「うそだろ?」
「絶対うそだな」
「あー、金黒そろってつっこまんでもええやん!!」
 どうせ俺の冗談はつまらんしなー、とか云いつついじけたシンさんを見て、彼以外の人間が爆笑する。
 そんなこんなで朝食を終えて後片付けをしたあと、昨日までなら一時間ほど部屋でゆっくりしていた彼らだが、今日はさすがにそういうわけにもいかない。
 急ぎ足で二階の寝室に戻り、こどもたちは祝祭用の服に着替え始めた。


 ところがここで、フィリオンがごねる。
 いつも3人一緒にひとつの部屋で着替えていたのだが、今日に限って、
「別の部屋で着替える」
 と云いだしたのだ。
 金と黒は、銀の、そんないきなりの発言に驚いたものの、シンさんにかけあって隣の部屋をフィリオンの着替え用に開けてもらった。

「フィン遅いな……」

 ヒューとシェイドは早々と着替えて、台所で茶など飲みつつ待機していたが、フィリオンが一向に下りてこない。
「呼びに行くか?」
「やめとけやめとけ」
 腰を浮かしかけたシェイドを、シンさんが頭から押さえ込む。
 むっとして自分をにらんでくる黒い瞳をこともなげに受け流して、こどもたちより何年か分は年の功を発揮できる青年は、にやりと笑ってシェイドに云った。
「フィンちゃんもそろそろお年頃ってもんやろ? ゆっくり気長に待っとけや」
「……お年頃、ねぇ……」
 そのことばが妙に浮いて聞こえたヒューは、シンさんのことばを反芻して、台所から見える、2階につながる階段に目を向けた。
 金色の少年は、フィリオンを特別『女の子』だと意識したことは無い。同じような時期に施設に引き取られて以来、ずっといっしょに暮らしているから、お互いのこともよく知っている。喧嘩もしたし、共同戦線を張って何事か企んではいっしょに怒られる、ということもしょっちゅうで。なんというか、『気の合う仲間』と云った感情のほうが強い。
 どちらかといえば、フィリオンをちゃんと女の子扱いしているのはシェイドのほうだろう。さっき彼女が別の部屋で着替えると云ったとき、ヒューは不思議がったが、シェイドはちゃんと納得した様子で、さっさとシンさんに交渉に行ったものだ。
 別にそれがどうだとか思わない。
 ヒューにはヒューの接し方があるし、シェイドにはシェイドの接し方がある。
 とまぁ、こんなことを何のてらいもなしに考えているあたり、フィリオンから「おじさんくさい」と云われる原因になっていることをヒューは気づいていないのだが。
 とんとんとん、と、軽い足音が階段のほうから聞こえてきた。
 示し合わせていたわけでもないが、台所の人間がいっせいに入り口へと視線を集中させる。
「……どうかな……?」
 初めて着るタイプの服に戸惑いながら、フィリオンが姿を見せた。
「似合うんじゃねーの?」
「うん、似合うよ」
 金と黒に真っ先に同意されて、銀の少女は照れながら台所へ入ってきた。
 白い、薄手の生地で作られたワンピース。大き目のプリーツが入っていて、すそでふわりと広がるようになっている。ゆとりがある袖の口は、桜色の布で軽く絞られていた。上に着ているケープも同様に白で、ふちには袖と同じ色の布が縫い取られていた。ケープを結ぶのに使われている紐も、同じ桜色。
 白と桜色の2色は銀髪によく映えたし、またワンピースも、フィリオンが活動的なことをちゃんと考えてつくってある――というせいもなかろうが、彼女のイメージによく合っていた。
「じゃ、仕上げはこれでっと」
 鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、リク先生がこれまた桜色の紐を取り出した。
 フィリオンのサイドの髪を軽く取ると、後頭部の上のほうで器用にまとめてゴムでくくり、紐できれいな蝶結びに仕上げてくれた。
 そういえば、彼らがまだ幼いとき、髪を切る役目を買って出てくれていたのは、主にリク先生だったことをフィリオンは思い出した。最近では、自分で切れるようになったけれど。

 そして、シンさんに見送られながら、アースフィルドからやってきた4人は家を出て神殿に向かった。



 神殿は人でごったがえしていた。
 国中の、11歳になるこどもとその両親が集まっているのだから無理もないが、その数には驚かされる。
 同い年のこどもが国中にこんなにいたのかと、金銀黒は驚いて、思わず数えかけたものの、すぐに無駄だということに気がついてやめた。
 この間見にきたときは質素な印象だけを感じた入り口は、今は花などが飾られて、なかなかにぎやかな様相を呈している。その両脇に控えた楽団の人たちが終始、穏やかな音楽を演奏していた。そのもう少し奥に、受付らしい台がある。あそこで出身と名前を云って名札をもらい、中に入るのだそうだ。
 この冬に来たばかりのシェイドを、王都のお役所のほうがちゃんとチェックしているとは思えないので、リク先生は領主様から特別に証明をあずかってきていた。シェイドをアースフィルドの施設の養い子として認める証書だ。
 それを預かって、こどもたちは受付へと向かった。ここから先、大人たちは入ることはできない。神殿の中でこどもたちが11歳の祝辞を受け、出てくるのを外で待っていることが大人たちの役目になる。リク先生も例にもれず、外で待っているからと云って、途中で別れた。
 証書を受け取った受付のお姉さんは、隣にいた同じ役目らしい人と二言三言話した後、証書になにやら大きい四角い印鑑をぽんぽんとふたつ押してから、シェイドにもちゃんと名札を作ってくれた。こういうこともないわけではないので、名札は無記入のものをいくつか、毎年必ず用意しておくのだという。
「でも、魔族の子ってめずらしいわねぇ」
 最初に証書を受け取ったお姉さんが、シェイドの胸に名札をつけながらそう云った。
 そういえば、あんなに歩き回ったのに、この王都で魔族を見かけることはなかったな、とフィリオンは思い、
「王都に魔族はいないの?」
 いるって聞いたんだけど。
 そう云うと、お姉さんはちょっと困った顔をした。
「……えぇ、いるはずなんだけどね」
「はず?」
 名札の向きを直しながらシェイドが問う。彼は、フィリオン以上に、魔族が果たして見つからないかと思っていたようなので、あれだけ探検したのに影も形もなかったことに少々不満な様子だったのだ。
「あなたたちは地方からきたのね。じゃあ知らないかしら?」
 そう云って、少しだけ話してくれたことには、
「一月前から、魔物がしょっちゅう王都を攻めてくるようになったのよ。頻繁に。おまけにどうも、統率がとれているみたいなの。警備の交代の時間帯とか、大きな隊商が入国するために長時間門を開け放っているときなんかを狙っているみたい。
 さすがに、ただ凶暴な魔物の群れが近辺に現れただけ、なんて話じゃ収まらなくなったみたいでね……」
 裏で魔族が糸をひいているのではないか、と。誰が云いだしたのかは、判らない。
 だが、噂は広まる時間も場所も選ばない。
 またたくまにそれは国中に広がった。
 もちろん、王都に住まう魔族がそんなことをするはずはない。自分の住む場所を危機にさらすような真似をする者など、いようはずもない。
 だが。
 外の同族がもしかしたら――という、疑いも……生まれる。生まれないはずがない。
 出歩けば、人々の疑惑の視線が痛い。自分たちがやったのではないのだが、それは見も知らぬ同族に向けられる視線だと判ってはいるのだが、それに耐えられるほど、魔族は噂のようには冷酷でも非情でもない。シェイドもそうだが、むしろ穏やかな優しい種族なのだ。
 そうして、王都で魔族はふっつりと姿を見られなくなった。
 おそらくは家にこもっているのだろう、こんな祝祭の日にまでかわいそうに――というのが、受付のお姉さんの話だった。

 話を聞いているうちに、だんだんとシェイドの表情が翳っていくのを見たフィリオンとヒューは、顔を見合わせると、話が終わると同時にお姉さんにお礼を云い、黒髪の少年の手をひっつかんでその場から離れた。
 神殿を支えている、巨大な柱の一本の陰に移動すると、ようやくシェイドは息をつくことができたらしい。彼が固く握り締めていたこぶしを開くと、手のひらに爪のあとがくっきりとついていた。

 金銀は、何も云えなかった。
 ただ黙って、黒髪の相棒の背をなでていた。
「……だいじょうぶ」
 シェイドがようやく口を開いたのは、彼らの後に、両手の指を2〜3回使って数えるほどのこどもたちが受付を済ませたあとだった。
「だいじょうぶ?」
 背中をさする手を止めて、フィリオンはシェイドを覗き込んだ。
 街に、怪我をしてる人が多かったのはきっと魔物が襲ってきたからなんだ、とフィリオンも今では思っていた。けど、それはシェイドがやったことじゃない。この街の魔族がやったことでも、たぶんない。
 それなのに疑ってしまう人たちがいることが、目の前の相棒を傷つけているのを感じて、フィリオンは心のどこかがむかむかするのが判った。
 黒い瞳が、今にも泣き出しそうに見える。
 ヒューが無言で、シェイドの背中を軽くたたいた。
「……行こう」
 もうすぐ式典が始まる。



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