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彼らのいる世界

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 イィリスは困っていた。
 成り行きのようについてきてしまったパースたちを前にして、人通りのない薄暗い路地の片隅で。目覚めてこのかた初めて――といってもたかだか数時間なのだが、とにかくこのうえないくらいに困っていた。
 困っている理由は何かと云うと、
「――最弱。これでどだ? ちょっとむずがゆいだけだぞ?」
「…………っ」
 目の前にある、灼印の道具に対して、大きな恐怖を抱く故だったりする。
 さっさとしまってほしいのだけど、パースのことばによればそうはいかないらしい。所有者登録されてない人形は、そのへんにうろついてる首輪のない犬なんかと同じ――誰に持ち去られても、何されても、文句は云えないらしい。いや、犬猫ならまだ、飼い主が首輪や何かの証拠を持って出てくれば話は早いのだが、人形は所有印を上書きされてしまえばそれまでだというのだ。
 その所有印が、今、パースの手にある灼印。複体であれ、――極僅かだが原体であれ、人形の所有者は必ずひとつ、それを持っている。当然紋様はひとつひとつ違うので、これが、唯一の識別となるわけだ。
 碌に法の整備されてない原体だが、複体の流通において使われてきた灼印の所有権だけは、唯一確りとした“決まりごと”なのである。



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「本当に、最弱は全然刺激ないぞ。もともと短期賃借用の出力だからすぐ消えるし」
 ちょっとずつ慣らしていけば、大丈夫だと思うんだが。
 傍の壁によりかかったアルがそう云ってくれるが、それでも、起きしなに穿ちこまれた熱と痛みのショックはそうあっさり消えるものではない。
 いや、パースの所有印を灼くというのが嫌なわけではないのだ。むしろそれで自分の身が安全になるのも理解しているし、彼やアルに対して抱く感情は、目覚めてすぐ見たあの集団に覚えたそれとは180度。
 ――――だがそれでも、怖いものは怖い。
 首をひねって最弱より弱く出来ないかと目盛りをいじってるパースの姿も、本当しか云ってないアルの証言も、この場合まったく恐怖を減じる役には立たない。
 イィリスが最初に灼きつけられようとしたのは、制御が壊れて暴走した人形を初期化するための強力なものだという。熱と痛みに塗りつぶされかけたあの恐怖は、おそらく自分が稼動している限り消去されることはないだろう。
「……ま、怖いのは判る」
 知らないうちに項垂れていたイィリスの肩を軽く叩いて、アルが慰めるように云ってくれる。金色の双眸が、いたましげにイィリスの右腕を見つめていた。
「初期化用なんて、本来、問題を起こしてもない奴に灼くもんじゃない。――おまえがやったことは、れっきとした正当防衛だよ」
「…………」
 どす黒く汚れていた手足や髪は、森を出る前に見つけた泉でパースが洗ってくれた。それが何を示していたのか、イィリスが何をしてああ汚れたのか、ふたりは知っている。
 アルの手が、またイィリスに触れる。今度は頭のうえ。髪の流れに沿って数度動かして、撫でてくれた。
「でも、本当は罰されることだぞ。人は脆いんだから、ちゃんと気をつけないといけない」
 それが私たちを加害するとしても、私たちまで同じようにやりかえしたら、そいつらと変わりなくなっちゃうからな。
 そう云って、アルは、「な?」と手を止めてイィリスを覗き込む。
「……はい」
「まあ今回は、起き抜けで判断効かないうちに灼印した奴らに全面的比があるよ。あれじゃあ殺されるって思ってもしょうがない――っていうかそういうものだしな、アレ」
「そうそう」
 それでも俯いたままのイィリスの耳に、目盛りをいじるのをやめたパースの声が届いた。
「あれは痛かった――危うく逝くとこだったし」
 うんうん、と頷くパースを、これ以上ないってほど瞠目して振り返るイィリス。それを見て、アルが肩をすくめた。
「好奇心は猫を殺す」
「うむ、至言」
 呆れと後悔の強くまじった声に、パースが大真面目に頷いた。
 ――つまり、それは、
「一応な、俺たち、灼印がどういうのか、ひととおり灼いて試してみようと思ってな」
 ひとつ前までならわりと楽だったんだが、初期化用のはダメだな、痛い。ありゃめったなことで使っていいもんじゃねえや。
 そうごちて笑うパースの背を、アルが平手でどつく。
 そんなふたりのやりとりはイィリスの目には映っていたものの、意識まで映像として届かなかった。予想どおりの彼のことばに、まさかという驚愕がそのとき全感覚を支配していたのである。
 だが、それはすぐに過ぎた。
 そうして驚愕の次にわきおこったのは、じん、と胸が熱くなるような痺れ。
 熱いけど痛くない。痺れだけど辛くない。
 ――まだイィリスは、感動という気持ちの名前を知らない。
 だけど、感じているものは決して不快ではなかった。それどころか、じんじんと強くなるにつれて、目の前でどつかれているパースにすがりつきたくなる衝動さえ起こる。

 …………知ってるんだ。
 あの痛みを。
 …………感じたことがあるんだ。
 あの熱を。

 ――ああ、それなら。アルは。――パースは。
「だいじょうぶ」
 ……、きっと。

 ん? と同時に振り返るふたりに、イィリスは腕を差し出した。熱の残滓も痺れも消えた二の腕の黒く染まった部分、その少し下を指し示す。
「……いいのか?」
「はい。それと、普通のでもいいです」
 だいじょうぶだ。このひとたちは、だいじょうぶ。
 自分のよりずっと大きな手のひらが、慎重に腕をとるのを、イィリスはじっと見守った。
 目の前に差し出される灼印。促されて確認した目盛りは、ちゃんと真ん中の位置。痛かったら云えよ、とのことばに、大きくうなずいた。
「それじゃ、行きますよー」
 小さな子供に云い聞かせるようなことばといっしょに、腕に押しつけられる灼印。――少し身体が震えたけど、それだけ。チッ、と、皮膚の上で何かが跳ねるような感覚のあと、灼印は腕から離れていった。
「はい、おしまい」
 預けていた腕に力を入れて、跳ねた感覚のあった場所をたしかめる。そこにあるのは、うっすらと灼かれたパースの灼印。
 ……うん、ちっとも痛くなかった。
「具合は?」
「はい、へいきです」
「よしよし、よく我慢したな」
 アルの問いに、森で覚えたばかりの笑顔で答える。わしゃわしゃと頭をなでるパースの手に、それはくすぐったいというものだったなと情報を読み出した。
 ひとしきりイィリスに構うパースの前に、そうして、アルが腕を差し出す。
「それじゃ、ついでにわたしも。――ここんとこさぼってたから、かなり薄くなってるんだぞ」
 見れば、それはイィリスのものと同じ灼印。ただし、それよりもかなり淡い色。
「うわ、悪い悪い。うーん、なんか忘れちまうんだよなあ」
「それはお互いだけどね――まあ、後々の面倒を避けるためにはしょうがない」
 実際、わたしもさっきのひとに指摘されるまで、すっかり忘れてたし。
「ああ、さっきのお姉さんか。美人だったよな、何話してたんだ? 逆ナン?」
「グーとパーとチョキとどれがいい?」
「チョキは嫌。目潰しだろそれ」
「いや、こう揃えて喉を突く」
「よけいタチ悪いわ。どうせ突くならツボを突け。健康のツボ」
「そんなこと云いだすのは年寄りの証拠」
「おまえほどじゃねえやい」
「ふふっ」
 ころころと脱線していく話や、真顔でそのやりとりをしているふたりを見て、イィリスはつい笑い出す。それを聞いた彼らがこちらを振り返るのが同時だったから、笑いの発作はまた強くなった。
 それから、ふとアルに問いを投げかける。自発的なそれは、イィリスにとって初めてのことだ。

「私も気になります。さきほどの方と、どんなお話をされていたんですか?」

 だが、

「人形の原体がほしい、ということではありませんでしたかな」

 それに答えたのはアルではなかった。パースの声でもなかった。
 ぢり、と。おさまったはずの、すでに元の色に戻ったはずの左の二の腕が、疼いた。
「誰だ、あんた」
 イィリスを、いや、イィリスの背後を見据え、アルが云った。
 パースの手が、腕を掴んで自分のほうに引っ張る。抵抗なくその腕のなかに飛び込んで、イィリスは、さっきまで自分のいた方向を振り返った。
「……あ……!?」
 そうして零れる驚愕。
 赤い血の海に浸してきたはずの黒ずくめではなく、にやにやとした目でイィリスやアルを眺め回す中肉中背の男ではなく、――ぐったりと。黒ずくめの肩に担がれた、意識のない女性の姿に、イィリスの目は縫いつけられる。
「……噂をすればなんとやら? 諺の実践てか?」
 肩をすくめるパースの動きが、手のひらからかすかに伝わる。それに励まされたような気がして、イィリスは、目の前の集団を睨みつけた。
「おお、怖い。何も襲いかかろうというのではないのだ、もう少し友好的に接されませんか」
「いやあ、どう見てもあんた――」
「嘘だ!」
 にやにやとした男のことばの語尾に被せて何かを指摘しようとしたパースを遮って、イィリスは叫ぶ。
「嘘つき――だって、私を害した!」
「……奴らか」
 金色の眼差しに敵意を乗せて、アルもまた、一行を睨みつけていた。
 覚えている。憶えている。
 どこかの部屋で開いた目に初めて映った、真っ黒い衣服の集団。彼らはイィリスを見てイィリスは彼らを見たのに、そのなかの誰とも合わなかった視線。いくつかのことば。判別は出来なかった、まだ聴覚がうまく機能していなかったから。そして、中のひとりが腕を持ち上げた。今なら判る、あれは彼らの灼印。パースの灼いてくれた優しいものではなく、赤く爛れたそれに警戒や恐怖を覚える間もなく押しつけられてそこを起点として全身に広がった熱と痛みは思考を灼いてイィリスを消そうとして――――
「はい、ストップ」
「――、あ」
 飛びかかるべく地を蹴ろうとしたイィリスの身体を、パースが抱え込んだ。
「なんでですか! あれは敵です……っ!」
 そう、あれは敵。
 あれは害する。イィリスを害した。消そうとした。
 だから、あれらは敵。
 あれらを、イィリスは排除せねばならないのだ――
「好戦的だな、君」
「アル! だってあれは私たちを消します!」
「だろうなあ。どうもあの服見覚えあるし」
「ほう、こやつらをご存知ですか?」
 イィリスに応じるアルのことばに、男の声が重なる。
「知らん。ただ、残骸を見ただけだ」
 散歩中に何か落ちてました――そんなふうにさらりと告げられたことばに、黒ずくめの身体が一瞬強張った。イィリスたちに向けられる視線に、紛れなき殺意が混ざる。
 だが、その前に立つ男が、腕だけでそれを制した。
「ならばお判りになりませんかな。戦闘種の原体は、その特性と自我を消してしまわねば、危険すぎて使えんのですよ」
「戦闘種……? 通算二体目が出たときの話か? ――街ひとつ壊滅したっていう」
 パースのつぶやきに、男は鷹揚にうなずいて、
「発掘された原体のなか、戦闘種はそれを入れてわずか二体。ですが、その危険性は甘く見れるものではありません。むしろ私の方が害されておりますよ、大事な部下を、そこの人形めに殆ど殺されてしまったのですから」
 ああ、だから血の量があんなに夥しかったのか。そうアルがごちる横で、パースが男に告げた。
「あんた人形屋か。人雇って遺跡を漁るくらいなら、結構儲かってるんだな。……それで、いままで何体見つけたんだ?」
「……はは、それがなかなか当たりませんでな。恥ずかしながら、そこのそれで初めてなのです」
 そこで、男は笑みを消す。イィリスを見る目に黒ずくめのような敵意はないが、見られていること自体が不快に思えるまなざしだった。
「人形に人間の法は適用されません。が、仲間を殺された彼の無念はご理解いただけるかと」
「ふん。嬲り殺しにするのか? 貴重な原体を?」
「そんなことはしませんよ。――まあちょっとした仕置きは必要でしょうが、次はきちんと初期化して、仕えるべきご主人へ引き渡すつもりです」
「……ご主人ねえ」
 は、とアルが盛大に肩を揺らした。大きすぎるため息は、はっきりとした厭味。
 そうして、アルは腕を持ち上げる。その指が示したのは、黒ずくめの肩に担がれている、さきほどの女性。
「まさか、そのご主人て彼女? だったらおまえの客だよな? おまえの店じゃ、客を気絶させて担ぐのが礼儀?」
「はは、まさか。この方の願いをかなえるために仕方なく――必要な措置です」
 闊達な笑い声に反して、女性を見やる男の目は、イィリスやアルを見るのとさして変わらない。
「まあ、お目覚めの前に少々強めの灼印を当てますがね。人間に使えば前後の記憶障害が起こることが証明されていますから、それで問題はなくなってしまいますよ」
 さて、それではそろそろ本題に入りましょう。
 告げる男の口が吊り上がる。自らの優位を確信しているのだと、イィリスにも見てとれた。
「そこの人形めを渡していただきたい。すでにあなたは原体をお持ちのようですし。原体はひとりに一体で充分でしょう。独占は、いささかずるいと思われませんか?」
「うーん」
 イィリスを抱いたままのパースが、首をひねる声。動作。
 男たちはそのパースの返事を待っているのか何も云わない。アルは黙って双方を見ている。
 そうして、イィリスは、ことばを見つけきれずに口を閉ざしたまま。

 否。云いたいことはある。

 本当は、嫌だって云いたい。
 本当は、ちゃんとパースの人形だよって云ってほしい。
 本当は、アルじゃなくてイィリスが、優しいパースの――――


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