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名もなき話

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 食事に行く際に放り出していた繕いを少年が終えたころには、子供も湯浴みを終わらせた。
「ちゃんと髪拭いとけやー」
 開け放ったままの窓から入る月明かりで、子供の髪についた水滴が、きらきらと輝いている。
 そこに無造作にタオルを投げつけ、少年は、玉結びにした糸を噛み切った。
 窓辺に座っていた少年のほうは、先に湯を終えた関係もあって、ある程度は乾いている。
 それでも、背中の中ほどまで伸ばした髪は、なかなか湿気を手放そうとしてはくれないけれど。
 子供は、頭に被せられたタオルで、ぐしゃぐしゃと髪をかきまわした。
 明日の朝、さぞやもつれまくりそうだ――それも楽しいかと思い、何も云わない少年も、けっこういい性格をしているのだろう。
 水気を吸ったタオルを首にかけ、子供は少年の座る窓辺にやってきた。
「君は、どうして旅をしてるの?」
「オレか?」
 そういえば、子供の事情ばかり聞いていたことを、少年は思い出す。
「――実はオレもな、旅に出たときは何か目的があったわけやない」
「なんだ。わたしと一緒じゃない」
「ま、な。そうかもしれん」
 繕い終えた服をたたんで、荷袋に突っ込む。
 街を出ればまた、しばらくは野宿生活だ。もろもろの道具の下に、ぐいぐいと押し込んだ。そうしながら、「ただ」と言葉を続ける。
「今はな、オレの故郷を見てみたいな」
 って思って、旅してる。
「故郷?」
「おう」
 きょとんと繰り返す子供に、少年はにんまりと笑ってみせた。
「聞いて驚けや。オレはな、たぶん大和の人間らしいんやで」
「――――え」
 ぽかん。
 目をまん丸く見開いて、子供はその場に固まった。
「ちっちゃいころにな、オレ、船で村に流れ着いたって。そのちょい前に、大和が沈んだらしい」
 ほんで、この髪やろ?
 つまんだ指先に感じるのは、かすかな湿り気。
 ほんのりと水気を含んだ髪は、他に類をみない真っ黒い色。濡羽色、とでもいうのか。
「だからな、育ててくれたじいちゃんとばあちゃんが、おまえはたぶん大和の人間やろ、って云うてて」
「……大和の……」
「ま、そういう意味じゃあんたと同郷っつうわけ。たぶんやけど。驚いた?」
 驚いた、と、子供は目を丸くしたまま頷いた。
「大和に連なるひとがまだ、いたなんて。うん――驚いた」
「ふっふっふ。驚かそ思て、タイミングはかっとったんや」
「君、いい性格してるなあ」
 夜中だから、声は抑え目。けれど、強い語調で楽しそうに云って、子供は少年の頭をはたく。
 彼は甘んじてそれを受け、「もっとも」と補足。
「オレのほうは、大和がどうのなんて、ちっとも覚えとらんのやけど」
「あ、そうなんだ」
 表情一転、少し哀しそうに頷いた子供は、次に、表情を慌てたものに変えて云う。
「あ、でも。故郷が大和っていうなら、それは……」
「……せや。海の中まで行くなんてムリ、ぐらい、いくらなんでも判っちゃおるんや」
 ――それでも。
 旅の間に伝え聞いた噂のいくつかが、少年に小さな希望を灯していた。それを子供にも教えることにする。
 だから彼は、子供の頭を軽く叩いて視線を自分へと戻させた。
「まあ、聴きや。――大和があった場所自体は、はっきりしとるんや」
 ほれ、見てみ。
 月明かりと、ちょっと頼りない部屋のランプに照らされて広げた地図は、その本来の色を複雑に変貌させている。

 そうして、地図の中央には、小さな点。
 印刷のミスでもないし、誰かが原稿に落書きしたわけでもない。

 それは、封じられた島だという。
 それは、海に沈んだ島だという。

 大和という大陸国家が、たしかにそこにあったという、ただひとつの証拠だという。

「ほれほれ、ここ、ここ」
 その点をことばもなくそれを見る子供の視線を、少年は少し離れた地点に誘導する。
 指さしたそこは、おそらくもっとも近いと思われる大陸の――たぶん、岬。
 自分たちのいる大陸から、海を渡った先にある、ちょっと小さな大陸図。
「大和に行けんでも、最低、ここからなら何か見えるかなーって思ってん」
「何か、って?」
「なんでもな、そのあたりの海はときどき、光るんやて」
 沈んだ多くの人たちが、無念の嘆きを放つのか。
 浄化されない大陸が、海のなかで哭く声か。
 原因は、まだ解明されてないけれど。
「だからせめて、その光だけでも見てみよ、思ってな」
 とりあえず、今は、この岬に行くんが目先の目標や。
 云って、指をもう一度動かす。岬から離し、大陸の線を越え、海の上を通過し、別の大陸にある一点へ。
「ここが今いる大陸で、街。おまけで、ここがオレの育ったトコな。――つまり、海越えて行かなあかんから、ちょっとばかし大変ってとこや」
 ついでとばかりに別の点も示してから、少年は小さく肩をすくめた。
 ――魔物が跋扈しているこのご時世。悠々と、船を出す港などそうありはしない。
 まず海を渡らなければならないというのに、渡る手段がそもそもからして見つけづらい。
 西の港町で船を出す予定があると聞けば赴いて、陸地沿いの航路と知らされ気が抜けて。
 東の漁村に船がある、そう教えてもらったものの、さすがに大陸間を渡れるような代物でなし。
 北も南もそんな感じ。そんなふうに、ここしばらくが、過ぎていた。
 それでも、まあ。
 動いていれば何かがあるかと、諦めきれない淡い期待、まだまだ心にあるものなので。
「そうなんだ……」
 まだ、大和は――
 ぽつり、子供がつぶやく。
 その様子を見て判ることは、どうやら、子供は大和が完膚なきまでにその存在を世界から抹消されたと思っていたらしい。
 海が光る。
 大和のあった、海域が光る。
 それは結構な噂のはずだが、それさえ届かないほど、子供とラウディの暮らしてた街は辺境だったのか。
 いや。
 おそらくラウディが、それを子供に伝わらないようにしていたのかもしれない。

 旅に出ろ。

 そう告げたのは、自分で何かを見つけろと?
 自分の何かを見つけろと?

 同郷がいる。
 存在さえ違えど、同じ大地に一瞬くらいは立ってたかもしれない相手がいる。
 だから、
「なあ」
 明日、地図と当座の道具を与えたら、さようならするつもりだった。それは、きちんと本心だ。
 だけど、それでも少しだけ、考えていたことがある。子供が、大和の人形だと聞いたときから。
「あんたがもし、興味あるならなんやけど」
 そう前置きして、少年は子供に話しかけた。
 何を思っているのだろう、一心に、地図を見つめる子供のまなざしは、朱色がかったきれいな金。
 ふと見とれていると、子供は途切れた言葉の先を促すように、その双眸を少年に向ける。
 そこに映る自分の姿を、なぜだかやけにくっきり見ながら、彼は子供にこう云った。
「一緒に、そこ、見に行かへん?」

 ――沈んでしまった島の名残を、沈んでしまった故郷の残滓を。

「うん」
 そうして子供は頷いた。迷う間もなく、少年の提案を受け入れた。

「わたしも。そこを、見てみたい」

 金色の双眸細め、強く、大きく、子供は云った。


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