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名もなき話

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 黒い髪はめずらしがられる。
 濃い色の髪はよく見るが、自分みたいな真っ黒い髪の持ち主に、未だかつて彼はお目にかかったことがない。
 それは故郷でもそうだったし、こうして旅に出てからもそれは変わらなかった。
 ……旅といっても、別に何か目的があるわけじゃない。
 ただ、故郷で自分を育ててくれた人たちが老衰で御亡くなりになってしまったため、そこに居づらくなっただけのこと。
 そこの人々はとても優しかったし、亡くなった人たちの他の家族も、自分を本当の子供みたいに扱ってくれていた。
 でも。
 だから申し訳ないな、なんて、彼は思ってしまったのだ。
 一度思ってしまったそれは、容易に立ち消えることはなかった。
 それどころか、少しずつ少しずつ、胸の底にまるで凝りのように溜まっていって。
 気づいたら、ある日、彼は故郷の人たちに別れを告げて、空の下を歩いていた。

 旅装束も、今ではすっかり肌に馴染んだ。
 腰に佩いた一振りの太刀は、拾われっ子の自分が唯一、持ってたものだったとか。

 あんまり小さいときの話で、彼自身は覚えてなんかないんだけど。
 ――彼の暮らすことになった小さな村の砂浜に、小舟が流れ着いたのは、十年とちょっと前。
 息絶えた数人の人間と、今にも死にそうな夫婦、それにその子供が乗っていたらしい。それが、自分と自分の両親。
 村人に息子の名を告げ、この子を頼むとお約束のようにつぶやいて、両親は他の数人のようにこときれたそうだ。
 育ててくれた人曰く、やはり、真っ黒い髪をしたまだ若い夫婦だったとのこと。
 その夫が持っていたのが、今、自分が持ってるこの太刀。
 長く潮風にさらされてたろうに、錆落としをしたら奇跡のように、太刀は輝きを取り戻した。
 ならば、と。
 それを使えるように、姉に勧められるまま訓練を始めたのは……両親の顔も覚えていない彼の、せめてもの親孝行のつもりかもしれない。
 平和な村のなかでは、剣の腕など磨いても、さして何に役立つとは思えなかったけど。
 今こうして旅を始めて、やっておいてよかった、と思うことは少なくない。

 世界に魔物が現れだしたのは、彼が生まれる前からだという。
 本格的にその姿が認められ出したのは、彼がまだ小さなころ。
 紙に墨が染み込むように、最初は辺境で数体見れば多いほうだった魔物たちは、じわじわとその版図を広げている。――今も。
 幸いなのは、彼らが人間とことを構えるつもりはないらしいこと。
 人の暮らす地域から離れ、まず人の迷いこまなそうな場所に、彼らは自らの領土を定めた。
 世界中に点在するそれらに、人間は近寄らない。近寄れない。
 一度迷い込んだが最後、肉食の獣にも等しい、いや、それ以上かもしれない鋭さの牙や爪、そうして不可思議な力でもって、何人もの人間が引き裂かれた。そして喰われた。骨の欠片、肉の一片さえ残さず、文字通り丸ごと。

 ――魔物は人を喰う。存在そのものを喰う。
 ――魔物は人を襲う。領土に入れば当然のこと。
 ――魔物に人は勝てない。人には、彼らのような力も、爪も牙もない。

 ――魔物にはかかわるな。
 ――魔物に勝とうと思うなら、鬼を用いよ。

 それが、魔物が現れだしてから数年が経過したあと、人々の心に刻まれた警句だった。


 だもので、今の世の中、旅から旅の根無し草、なんて人間はあまりいない。
 不特定多数の場所や広さの魔物の領土にいつ入り込むか、判ったものじゃないからだ。
 入ったが最後、間違いなく喰われると判っていて、誰が危険な橋を渡ろうか。
 実際、ときおり出される商隊や派遣にしても、確実に安全とされるルートから絶対に外れないのが習慣だ。
 そんな世界を旅しようというのだから、剣のひとつやふたつ、扱えるに越したことはない。
 それでも、幸か不幸か、適当気ままに道を決めていながら、彼は魔物の領土に入り込んだことはなかった。

 ……今までは。


 周囲に展開した、四足の魔物の群れを眺め、少年は生ぬるい笑みを浮かべて空を仰いだ。
 それ以外、することも出来ることもなかったからだ。
「あーあー……オレの運もここまでかい」
 旅から旅の暮らしを数年過ごしたせいで、あちこちのことばが混じった挙句、少年の言葉遣いはかなり独特なモノになっている。
 そんな特徴的な口調を崩すことなく、つとめて軽くつぶやいて、ゆるゆると、彼は、形ばかりに太刀を抜いた。
 少年を囲む魔物は、おおよそ十体ほど。
 そのいずれもが、大型の犬に近い体躯を持っている。
 よほど人間が好物なのか、かなり目を血走らせていた。
 ……そのわりに、このあたりの地域で魔物が人間の街に攻め込んだという話は聞かない。
 待ちの体勢一本では、喰うには困るだろうに。
 いやいや。
 今困っているのは、少年本人だ。魔物の心配をして、いったいどうなるというのか。
「……出来れば、あんま痛ないようにしてくれんかな?」
 ひきつった愛想笑いを浮かべて、お伺い。
「――ま」、
 誰だって、死ぬのは嫌だ。
 痛いのは嫌だ。

 だから――

「抵抗の権利は、行使するんで――!!」

 ――そうして青い空の下、緑と赤が混ざり合う。





 緑色の髪。自分の髪だ。
 それが、ぱたぱた、風になびいて視界の端に踊ってる。
 髪が翠だというのは、自分で云うのもなんだけど珍しい部類に入る、と自覚はしている。
 育ての親、と一応形容してる青年も、そう云ってた。
 それは青年と暮らしてた街でもそうだったし、こうして旅に出てからも、同じ色の髪の持ち主に逢ったことはない。
 旅――とはいうものの、別に何か目的があってのことじゃない。
 一緒に暮らしていた青年から、旅もいいんじゃないかと勧められた。それだけのことだ。
 十数年をともに暮らした青年は、今ごろ、あの街でのんびり作品作りをしているんだろう。
 とりあえず何年かまわってみて、それで飽きたら――何か見つけたら帰ってこいよ、と。
 笑って送り出してくれたから、自分は旅に出た。

 自分が、世間にうといのはよく判っている。
 それでも、青年と一緒に暮らしていた間に、街の人たちに混じって歩いてても違和感を生まないくらいには学習した。
 ……だけど。
 日々移り変わる人々のなか、変わらぬ姿がひとつ、在るというのは、やはり奇異に思われるんだろう。
 旅に出てきたらどうだ、と。
 冗談混じりに云ってくれた青年も、目の前のイキモノに向けられる視線の幾つかに、気づいていたはずだから。
 人々の記憶に留まらないために、自分は旅に出た。
 それ以上に、青年につまらぬ危害を及ぼさないため、街を離れた。

 だから、とくに目的のある旅じゃない。
 何かの目的を見つけられたらいいな、と、そのときはまだ、のんびり考えていたくらいだ。


 ……青年の名は、ラウディという。街では、いや、国内ではそれなりに有名な人形師。ラウディ・ホーン。彼の名前だ。
 さて、では旅に出た自分の名は、

「――あ」

 徒然と遊ばせていた思考と、動かしていた足を止める。
 風でなびく草々の向こうにあるモノをその目にとらえ、ほんの少し、首をかしげた。
 そして、そちらへ向けて歩き出す。
 ――初めて。
 あの街と青年以外の存在に、名を明かすときが来ることを、風吹く草原歩く心はまだ、知らずに。


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