空は青く。
海も青く。
ただ、ただ世界は青く――蒼く。
穏やかに凪ぐ波の上、心地好い風を受けて、船は快調に進んでいた。
強い潮のにおいを含む風は、今日もこの大海原が元気に満ちていることを教えてくれる。
もっとも、後しばらくもすれば、この潮風ともお別れだ。
いささか難儀はしたものの、どうにか目的を果たして帰る、彼らの心は晴れやかだった。
戻ったら早速、溜まっている宿題の点検をしないといけませんね。
灰色の髪した教育熱心な先生が、昨夜のうちから早々とそんなことを云っていたのを思い出し、船べりに組んだ腕の上、顎を乗せたままくすくす笑う。
大変そうに云っていたけれど、あの先生はそれで結局何かを教えているのが幸せだという人なのだ。
と云ったら、それに関してはあなた方もでしょう、と、返されてしまったけれど。
それでまたまた笑いが零れてしまうのだが、実は止める気もなかったりする。
空は青い。
海も青い。
風は気持ちよく、世界はこんなにいい天気。
こんな日は、ご機嫌に、笑っているのがしあわせだ。
「センセ、そろそろ見えるころよ」
海図片手にやってきた声の主は、それまで彼が向いていたのとちょっと違う方向を示し、そう云った。
「あれ、こっちのほうだったっけ?」
「……判ってないまま今か今かと見てたワケ?」
呆れたように云いながらも、相手は、声も表情も笑っている。
「はは」
だから軽く笑って流し、教えられた方向へ向き直った。
そしてその瞬間、
それは立ち上った。
「え……」
海の彼方から。
まだ見えぬ島から。
――白い陽炎と、真紅の炎が、競い合い、手を取り合い、天へ天へと昇らんとする。
さながらそれは光の柱。……そして遠い記憶。
「――――」
呆然としていた時間はどれくらいか。
判らないまま意識だけは取り戻したけれど、身体は金縛りにあったように動かない。
それは、海図を手にしたまま硬直している相手も同じこと。
「――あ」
それでも。
衝動が、驚愕を上回る。
「おか――さん……?」
零れるそれは、遠い記憶。懐かしい呼称。かつて見送ったひとりの少女。
「レックス!!」
そして、響いた声と足音が、金縛りを断ち切った。
甲板の向こうから、慌しく走ってくるのは、赤い髪をなびかせた女性。シンボルとも云える白いマントと帽子は今日も健在。
自分と同じ青い双眸には、やはり、自分と同じ感情。
「レックス、レックス! ――今、今の光は……っ!!」
驚愕か。郷愁か。歓喜か。
もう何がなんだかごちゃ混ぜになってしまった表情で、駆けてきた彼女――姉は、しどもど。
でも、云いたいことはよく判る。
けれど彼女のフォローをするには、溢れ出す感情が邪魔をした。ことばにならない思いを表現するために、だから、ひたすら、頭を上下に振ってみせる。
そして、そんな姉弟の傍らを、
「アニキ――――!!」
船長、兼操舵士である、一家の頭領ことカイルの名を怒鳴りつつ、砲撃手であるところの、金色の突風が疾走していった。
……ややあって、
「急げ急げアニキッ! ちんたら行ってないでスピードアップ!」えぇ!? 風が静かだからこれが限界!? と、続いた叫びのあと、「突風神風大嵐ッ!! 先生! 今こそ魔剣を解放してあのとき以上の嵐を呼んで!」
尾を引いて遠ざかっていったはずの叫びが、それ以上の速度でもって戻って来た。
キキィッ!
よく掃除されている板の上、靴底との盛大な摩擦発生させつつ、急停止する金髪の女性。――まだ歳若い印象を受けるし、行動も少女そのものだが、その実、過ごした時間はその倍以上。
「……それはさすがに、無理ですよ」
あははは、と、乾いた笑いを浮かべて応じる姉。
「なんでー!? いいじゃん、ちょっと天変地異起こすくらい!」
「その天変地異が問題なんでしょうが」
抗議する金髪女性の頭が、丸められた海図でぽこりとはたかれる。
はたいた主へさらに抗議しようとした女性の行動は、だが、
「レックスさん、アティさん! 今、海の向こうに光の柱が……!!」
ばたばたばた、と、黒いローブの裾を乱して走ってきた、灰色の髪した青年によって遮られた。
そしていよいよ、騒動はピークとなる。
「レックス殿、アティ殿!」
「おい、今の見たか!?」
「あれって、不滅の炎ですよね!?」
「白い光が重ねて見えたのだけど……幻じゃないわよね!?」
ばたばた、ばたばた、ばたばた、ばたばた。
駆けてくる。
鬼忍と獣人、幽霊と融機人。
まだ体調は本調子に戻っていないから、と、自主的に船室で休んでいたはずの四人は、そんなのどこ吹く風といった感じで、全力疾走かましていた。
そして彼らは、到着と同時に目を見開いた。
「レックス! 何してるのあなた!!」
「気でも触れましたか!?」
融機人の女性が叫び、鬼忍が、がしっと肩を掴んできて、彼は手をかけていた船べりから引きずりおろされた。
「いや、その」
答える間もそわそわと、忙しなく、水平線の向こうを気にしながら告げた彼のことばに、場の一同は、まぎれもなくこいつが一番慌てていると、痛恨の表情を浮かべたそうだ。
――曰く、
「お、泳いだら早く着けないかと思ってさ……」
無理に決まっている。
ぺこん。
丸まった海図は再び、誰かの頭部を叩く栄誉を得られたのであった。