赤い髪揺らして、翠の眼が驚愕に染まる。
……そんな少女を眺めたまま、イスラは、首を傾げて動かない。
沈黙は、何分ほどだっただろうか。
ぎちぎちぎち、と、油の切れた機械人形めいた動きで、扉に半身張り付いた体勢のまま、その子は、目を見開いたままイスラに云った。
「…………“”……です、けど?」
忘れたんですかこんにゃろう。
言外のそれに気づかぬまま、イスラは、なお深く首を傾げる。
「……誰?」
と。
他の何をも形にはせず、ただそれだけを口にする。
おい。
おいおい。
おいおいおいおいおい。
おいおいおいおいおいおいおい――――!?
それが嘘や冗談ではなく、偽りなき本心なのだと悟った瞬間。
叫びだしそうになった己の口を、はどうにかこうにか抑えることに成功した。
ついでに明かしてしまうと、イスラに飛びかかって首根っこ掴んで前後にがくがく揺さぶってしまいたい衝動も起きた。が、それも堪えた。
落ち着け、あたし。相手は病人だ、病み上がりだ。
そうは思ってみても、さすがに驚愕まで消し去ることは出来ない。自制した結果、しすぎて四肢は凍りついたし、目は、きっとまん丸。
そんなを、イスラは、何故か申し訳なさそうに眺めている。
「……すみません」
理由の見えぬ謝罪のあとに告げられたことばに、は思わず自分の過去を顧みる羽目になった。
「あなたは、僕を知ってるんですね? ……でも、僕はあなたを知らないんです」
つまり、それは。
「――――僕は、記憶が」
「ないんですか……?」
ようやっと動いた口で、は、イスラのことばの後半を奪う。
彼はちょっと驚いた様子で口を閉ざし、それから、こくりと頷いた。
……おーまいが。
過去の自分が目の前にいるような気分で、は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
用意してた挨拶は空の彼方、は何を云えばいいのか判らない。
イスラに至ってはそれ以上だろう、彼の混乱はよーく判る。百パーセントではないけれど、ある程度なら予想出来るつもりだ。
だって、自身、過去に記憶喪失になったことがあるんだから。
そのせいで、さんざんルヴァイドやゼルフィルドやイオスに心痛かけちゃったんだから。
だが、いつまでも過去に浸ってはいられない。
現時点、イスラにとっては初対面のくせして親しげにやってきたあやしげな姉ちゃんである。そんな認識のままで、いつまでもいられるわけにもいくまい。
と、気を取り直すまでに何分ほどかかったのか……考えぬが華。
ともあれ、は立ち上がり、再びイスラに向き直った。
「……入ってもいいですか?」
「あ……どうぞ」
失礼します、と、足を踏み入れ扉を閉める。
それから、果たしてベッドの傍まで近寄っていいのか少し悩んで立ち尽くす。
と。
「……どうぞ?」
それがおかしかったんだろうか、少しだけ緊張を解いて笑みを浮かべ、イスラがそう促した。
「あ、はい」
その笑顔に安心させてもらうような形で、は足を踏み出した。
一歩、二歩、そしてまた一歩。
ベッドのすぐ脇まで歩いて、見下ろすってのも難だなと、備え付けてあった椅子を引っ張って腰かける。
「……えっと」
「うん」
「記憶喪失、なんですよね」
「そう……だと思います。昔のことは少しだけ思い出せるんですが、ここ最近のことが、全然」
砂浜に流れ着いていたのを拾ってここまで運ばれたそうだけど、どうしてそんなことになっていたのか、ぜんぜん判らないんです。
悄然とかぶりを振って告げられる、聞きなれぬ彼の敬語。そして現状。
うーむ。
またしても頭を抱えたくなったが、そんなことしてる場合でもない。
「昔のこと、って、じゃあ自分の名前とかは? あたしは、っていいます」
「あ。それは覚えてます。僕はイスラ」
お。いい調子。
あたしなんか、アメルに助けてもらわなきゃ、名前さえわかんない真っ白けだったもんなあ。
「そしたら……自分の生まれた国とかは判るんですよね?」
「……それが」
ありゃ。早くも暗礁か。
「なんとなく、上にきょうだいがいたような覚えはあるんですが、それ以外は……ただ、わりと広い家で育った気はします」
「うーん……そうですか……」
「あなたは、僕のことを何か知ってるんですか?」
「……いやあ……それがその……」
少しだけ期待のこもったイスラの眼差しに、向けられたはというと、実にあやふやな返答をしか返せない。
何故かって、そりゃ、知ってると云えば知っている。
だが、けっして彼の期待してるような、そんな深い付き合いじゃないのだ。いつぞやアルディラに叫んだように、それこそ一日限りの間柄。
落胆させるだろうな、と思いながらその旨告げると、予想に反してイスラはそんな様子を見せなかった。
それどころか、
「じゃあ、その一日、僕は何をしていたんですか?」
と、身を乗り出す始末。
……そっか。
イスラにとっては、ここで目が覚めたのがはじまりで。つまるとこ、自分がこんなとこで寝てる理由とか、海を流されてたって理由とかが真っ白で。
昔のことより、それが気になるのは当然のこと。
「えーと……あたしが知ってる範囲でよければお話します?」
あなたの出身地とか、家とか、そういうのを探すのには役に立たないと思いますけど。
「ええ。お願いします」
心なし姿勢を正してそう提案すると、イスラも、ぴっと背筋を伸ばした。
では、と前置きしては切り出す。
「あれはしばらく前のこと、あたしが海にバカヤローと叫んでいたとき――」
「…………何してたんですかあなた」
僅かに後ずさったイスラを見て、さん、このまま椅子投げつけて帰ったろかと一瞬思ったとか。