子供たちと彼らの間でどんな話があったのか、改めて詮索するような者はいなかった。
先んじて船に戻っていたたちが出迎えた彼らは、それはもう晴れ渡ったピーカン空気を持っていたからだ。泣きはらした真っ赤な目も、なんだか幸せそうな笑みも、「ああよかったね」って感じ。
とっくにしたくを済ませてたご飯を食べてる間も、なんだかんだ、先生と生徒たちは今までみたいに振舞おうとしてたけど――それって、実は全然無意味というか。見てるこっちが苦笑いしてしまうほどだった。
ここ数日の気まずさなんて、どこへやら。
久々にすっきり眠れそうだな、なんて、思ってた矢先のこと。
……は、その会話に出くわした。
夜中に目覚めたのは、虫の報せを感じたからじゃない。
単に、お手洗いに行きたくなっただけ。
ソノラを起こさないように部屋を出て、用を足して戻ってきたら、そのひとたちがそこにいただけのことだ。
――先生たちもお手洗いですか?
そう、声をかけちゃえばよかったのかもしれない。いや、実際は声をかけようとしたのだ。
ただそれより先に、彼らの話してることが耳に届いてしまっただけ。
「のこと?」
……はい?
緩くなったカーブのこちら側、まだ向こうからは死角になってる位置で、の足は停止した。持ち上げかけた腕も、同じく硬直。
なんでレックスたち、夜中にひとの話なんかしてるんだろう。
しかも、なんか微妙に声が硬い気がするんですけど。
「ええ」
応じてるアティの声も、ちょっと強張ってる。
なんとなく出て行きづらいものを感じて、は、壁にぴったり張り付いた。……だって、こことおらないと部屋に戻れないし。と云って、今出て行くとなんかすごく気まずい空気が流れそうだし……
「……レックスは、おかあさん、覚えてるよね?」
「――ああ」
レックスの声には、意外な響きがあった。
「覚えてるけど……アティがそんなふうに云うの珍しいな」
「え? そう?」
「うん。だって、アティは……」
「やだなあ」
早口にレックスのことばを遮って、アティは小さく笑った。
「判ってますって。もう、ゆめは終わっちゃったんだもの。おかあさんは、もういない――ちゃんと判ってますよ」
でも、と。
続けられたことばに、レックスの身体が少し強張る。
「似てるなあ、って、思わない?」
笑われるかもしれない、そんな惑いが少しだけ混じったアティのことばを、だが、レックスは笑わなかった。
それどころか、「ああ」と頷いたようだ。
「ああ――うん、似てる。アティもそう思ってたんだ?」
「……ええ。やっぱり似てますよね?」
「似てるよな」
「「」」
まさかタイミングを合わせたわけでもなかろうに、期せずして揃ったふたりの声に、は、その場から逃げ出したい衝動にかられてしまった。
が、逃げ出したところでどこへ行きようもない。
それに気になる。
すっごく気になる。
初対面時の彼らの反応、いつかのレックスの話から安心してたし、まさかがその当人だと思ってはいないだろうけど、彼らが、もし、気づいちゃったりしたら。
いや、彼らがを覚えてるのは別にいい。
でも、彼らにを覚えてられちゃ困るのだ。
どっちだよ、とか云われそうだが、――要するに。まだ幼かった彼らが成長してるのに、こっちの姿が変わってない、ってのが問題なのである。
浮浪者、もとい不老者か、あたしは。
いつだったか、サイジェントの路地裏でどっかのおじいちゃん相手にかましたボケツッコミを、ひとりでやってみる。空しい。
などと悲嘆に暮れてる当の相手がすぐ傍にいるとは気づかずに、レックスとアティはまだ話し込んでいた。
「……うん、たしかに似てる。髪の色も目の色も。……血縁だったりするのかな?」
こくこく頷いたレックスだったが、「あ」と、何かに思い至ったようだ。
「違うか。、たしか名も無き世界から召喚されたんだから……この世界に血縁はいないはずだよな」
そのとおり、と、本人が壁に張り付いたまま苦笑した。
お父さん。お母さん。
遠い世界の優しい家族、帰ることの出来ない実家。――後悔はしてない、だけどたまに、そのひとたちを思ってちょっとだけ寂しい気持ちになる。
「そうなんです!」
だが、そんなの感傷を吹っ飛ばす勢いで、アティが意気込んだ。
「え? ……って、しー、しー!」
姉の唐突な大声に、レックス、大慌て。
静かにしないと誰かが起きる、という意味合いのそれに、アティもすぐさま我に返ったらしい。
「あ……ごめんなさい」
えっと、と、呼吸を整えて彼女は云った。
「が名も無き世界から召喚されたのって、もしかして、わたしたちが襲われたあの日じゃないかな?」
ちょっと待て。
「……どうして?」
「だって、あんまり似すぎてるから。もしかしたら、本人かもしれないなって。ちょっと主観も入ってるかもしれないけど、おかあさんと本当にそっくりでしょう?」
そりゃ本人ですから。そっくりも何もないんですが。
いや、まて。
このまま行くと、同一人物って推論が出る。それはまずい。
としては飛び出して否定したいが、それやると盗み聞きしてたのがバレる。……どうしよう。
けれども、思わぬところから援軍があった。
「それは――違うんじゃないかな」
少し思考の沈黙を置いて、レックスがそう云ったのだ。
「どうして?」
「“そっくりすぎる”ってアティは云ったじゃないか。……考えてみてくれ、こうも比較しやすい理由。は、あのとき俺たちの目の前に現れたあのひとと“そっくり”なんだ」
つまり、
「同じなんだよ。年が。同じでなくても、近いと思う。あれから十年以上経ってる、少なくともあのひとは俺たちより年上でなくちゃおかしいはずなんだ。でも、は違うだろ?」
「……あ……」
自分より背の小さな少女の姿を思い出したのだろう、アティは、先刻までと打って変わって、気の抜けた声を漏らしていた。
「でもそれは、ゆめ……」
小さくつぶやく姉の姿を、レックスは、わずかに首を傾げて見下ろした。
「ゆめ……」
うん、と彼は頷く。
「ああ。夢だったんだよ。あれは、俺たちが事実を受け入れきれずにつくった、しあわせな夢。あのひとは……それに付き合ってくれただけなんだ」
「――夢。うん、ゆめ」
「さっきアティも云っただろ? 夢は終わったんだ。……おかあさんはもういないんだよ。姉さん」
感情の消えた声で、おうむ返しにつぶやくアティを、レックスは“姉さん”と呼んだ。
どことなく、願うような響きのある声に、いつかの夜をは思い出す。
すれ違いのあるという、ふたりの記憶。
“おかあさん”のこと。
「――ゆめを、くれた。うん、ゆめのおかあさんは……もういないけど」
「うん。今度逢うときは、あのひとはおかあさんじゃないんだよ」
ほんの少し、揺らいだアティの身体を支え、レックスは静かに――だけど、はっきりと断定した。
でも。
その最初の一文字のとき、わずかに声が震えていた。
――話していると判らなくなる、と。レックスは云っていた。
それは、このことなんだろうか。
「アティの気持ちも判るよ、本当にそっくりだし。でも、他人の空似だと思う……でなきゃ、は年をとってないってことになっちゃうじゃないか」
「……でも、ゆめだったら?」
「アティ」
レックスの語調が強くなる。
「年をとらない人なんていない。そんなのはそれこそ夢のなかだけだし、今話してる、俺とアティは現実だ。だから……違うんだよ……」
「……そっか」
ぽつり、と、小さくつぶやいたアティの声に、レックスのことばはそこで途絶えた。
「……」
息を飲んで見守るレックスの前、アティはこくりと頷く。
「そう、ですよね」
わたしってば、何、一所懸命になってたんでしょう。
ほう、と息をついたアティが、壁によりかかる音がした。それから彼女は指折り数え、
「髪の色、目の色、はともかく……外見までが似通ってるなんて、十年以上も経ってるのに、やっぱりおかしいよね」
「そうそう。俺だって、最初びっくりしたけどさ。落ち着いて考えてみたら、ありえないことだし」
「あーあ。そっか、そうだよね……でも、ちょっと残念です……」
――そうだったらいいな、って、思ってた。
残念そうなため息混じりのアティのことばは、言が進むにつれてちょっとだけ下降気味。
「…………そう……だね。俺もそう思う」
それに応じるレックスの口調も、やはり、心なし下向き加減。
はたで聞いてる誰かさんの心境はというと、どちらかというと上昇気味。助かった。
ほっと胸をなでおろすの耳に、それじゃあそろそろ寝ようかと、姉弟の話す声と、部屋に戻ってゆく足音が届く。だんだん遠ざかるそれが完全に聞こえなくなった頃、
「はー……」
いつの間にか押し殺していた呼吸を解放して、は、ずるずると床に座り込んだ。
部屋に戻って眠る気にもなれず、膝を抱えて頭を押し付ける。
「まずいなあ」
今回は、レックスのおかげで助かった。時間旅行者なんて概念ないだろうから、今後だって、この方向からバレてしまうことはないと確信してもいいと思う。
ならこれ以上、ヘタに刺激与えないうちに――とは思うものの、ここは絶海の孤島。姿をくらますことは難しいし、時間跳躍のための魔力だって、欠片も溜まってやしないのだ。いや、そもそもどうやって溜めろというのだバルレル。あたしはどっかの魔公子みたいに、白い焔を魔力に変換することさえよく判らないんだぞう。
「結局、用心するしかないのかなあ……」
――ていうか、何をどう用心しろと?
自問して、はちょっぴり遠い目になった。
サイジェントのときとは、事情が違う。まったく関係のなかった帝国に落ちたこともそうなら、知りもしなかった孤島へ流れ着いたこともそう。
に関してボロが出る可能性は、今のとこアティとレックスにしかない。他の彼らに関ったことはないっていうのは、声を大にして断言できる。
なら遠い未来はどうか。帰るべき時間でならどうか。
――はである。ではない。
「うーん」
そも、この姿ってのは“”が過去の時間にいちゃいけないから、ってわけでバルレルがくれたもの。
ならば、これが解けないように用心さえしてれば、当面はだいじょうぶってことだ。
ああ。
わりと、サイジェントのときよか気楽かも。
だからお願い、レックス、アティ。要らんことは思い出さないでくださいね。
この時代のさん、として立ち直ったが部屋に戻りながらつぶやいた祈りに、その場で応える者はいなかった。
そしてまた、同じ夜の別の場所、ただし比較的近いところで祈る別の者がいる。
穏やかな静寂と闇に浸された室内で、いまいち今夜に限って睡魔に好かれぬ彼は、椅子の背中側に腰かけて、何を見るでもなしに窓の外へ目を向けていた。
背もたれに腕を預け、顎を乗せ、焦点をはっきりさせぬままそうしている姿は、普段の彼を知る者なら意外だと少し驚くだろう。
いやその前に、行儀が悪い、と、彼の教え子のひとりなら云うだろうか。
常ならあまり見せぬ憂いも露に虚空を眺めているのは、ついさっきの――それから、数日前の会話を思い返しているレックスそのひとだった。
その唇が、ゆっくりと動く。
声は出さない、零れるのは呼気だけ。
――忘れない。
いつかに告げた、そして幼い頃から何度も祈ったことば。
――忘れるわけはない。
あの紅い空、紅い大地、紅い骸。そして、そこに在ったひと……
「忘れてなんかないよ、俺は」
――――おかあさん。
もう一度、逢いたい。
ただそれだけなのに、彼の願いはまだ、叶う予兆さえ見せていない。
もう一度、それでも逢いたい。
なすすべもなく刈られるはずだった命を、救い上げてくれた人。
自分たちのつくりあげたゆめまぼろしに、付き合ってくれた人。
おとうさん、は、村のひとだった。数人の大人を問い詰めて、早いうちにたしかめられた。ありがとうって云ったら、困ったように笑ってた。
おかあさん、は、……いなかった。何人もの大人を問い詰めても、そんな者は村にはいない、いないのだから考えても無駄だって怒られた。
ねえ。
じゃあ、あの日俺たちを助けてくれたのは誰なの。
そう重ねたら、誰もが視線を逸らして逃げていった。
探しても探しても、おかあさんのゆめをくれた人はいなかった。
そうしてアティが云ったのだ。
自分によく似た幼い笑顔で、ふわふわと、でも、困ったように。
“おかあさん……いないね”
それで、どきっとした。冷たい手で、心臓をつかまれたような感じ。
だって、探してたのはおかあさんじゃなくて、おかあさんのゆめをくれたひとだったのに。
……だから、やめた。
不思議がるアティの手をひいて、村の仕事に精を出した。
拭い去れない赤い記憶に突き動かされるように、軍学校へ入学した。
そうしたら、もう、何を考えている暇もなかった。
目まぐるしい毎日、学ぶべき多くのこと、移り変わる日々に心はかかりきり、――うん、とても楽しかった。
たまにアティが云う。
“ねえ、おかあさん、どうしてるかな?”
応えてレックスは云う。
“……おかあさんは、もういないんだよ”
アティが答える。
“でも、どこかで逢えるかもしれない。……そうしたらね、よくも放っていきましたね! って怒っちゃおう”
レックスはぼやく。
“――そのころには、もう、おかあさんじゃないんだけどなあ”
“あら。判らないですよ? おかあさんは、もしかしたら魔法使いで”
“ありえないって……”
楽しそうに語るアティ。
夢見がちに語るアティ。
きっとまた、おかあさんに逢える、って、信じて疑ってないアティ。
それは、つまり。アティはまだ、終わらないゆめにいるということではないのか。
……笑うのは簡単。それに紛れて、やんわりと否定するのも上手になった。
代わりみたいに、他は全部受け入れて。
でも、それだけは肯定できなかった。
幼いあの日に見た姉の表情は、強く、くびきめいた何かのように心に突き立っている。そして、それ以上に、強く心を縛るのは。
――祈りだけがずっと募った。
否定を繰り返しながら、それでも、祈りつづけた。
本当に、もう一度だけでいい。
おかあさん、って、呼びかけて。
大きくなったね、って、笑ってもらって。
そして。今の“俺たち”と、出逢ってほしい。
……おかあさんでいてくれた、そのひとに。ただ、逢いたい――