それを見た瞬間。
身体中の血が、沸騰した。
「……!!」
叫ぶのはただ、反撃も出来ずに黒い雷を全身に受けた少女の名前。
苦しげに歪んだ表情で、さらに、血が逆流するような感じを覚えて。その衝動のままに、レックスは足を踏み出した。
黒い雷が迸って、ビジュたちの視界がうまく効かないうちに、一歩でも距離を詰めようと。それはを囮にしたようなものであり、そのことは、彼の心境に薄暗い影を生み出した。
強い自己嫌悪は、だけど、幸い足を進める枷になることはなかった。
むしろ、それをバネにして、レックスはひた走る。
数秒もあっただろうか。だがそれで十分だった。
「レックス……!?」
驚きも露な姉の声を背中に聞いて、レックスは、急な坂になった岩場を駆け上がる。
「!!」
呼びかける声に反応したのは、当の少女ではない。
苛立ちを募らせる哄笑をあげていた、刺青の男。ビジュは間近に迫ったレックスの姿を認めると、「ゲッ!?」とうめいて後退した。
「テメエ、じっとしてろって云ったろうが! ガキの命が惜しくねえのかよ!?」
「惜しいさ! だけど、の命だって捨てさせられるわけない!!」
今の事態に、には何の責任もない。
子供たちとちゃんと意思疎通出来ていなかった自分たちが、この事態を引き起こしたのだ。
その責任をに負わせて、だけ傷つけて、黙って見ていられるわけがなかった。
叫ぶ間に、足を進める。
意識はかろうじてあるんだろう、力なく膝をついて俯いたままの少女よりも前に出たところで、レックスは立ち止まった。
両手を広げる。
武器は、さっきアティといっしょに立っていた場所に投げてきたまま。
「……君が恨んでいるのは、俺もだろう。気が済むまでやればいい、ただし俺が倒れるまで、にもウィルにも手を出すな!」
「なんだとォ……?」
「レックス!」
罠ではなかろうか、そう訝しげに表情を歪めたビジュのことばにかぶさって、アティの叫ぶ声。
そして、駆け出そうとしたらしい彼女を制するアズリアの声。
「やめろアティ! それ以上奴を刺激するなッ!!」
加勢に行く素振りを見せてみろ、今度こそあの子供はやられるぞ!?
「アズリア……」
「……」
すまない、と、口の動きだけでつぶやいたアズリアのことばを、レックスもアティも目にすることはなかった。
「イヒヒヒヒ……かっこいいねェ」
「――――」
両手を広げたまま、レックスは動かない。
そこへ、再び紫の光が迸る。――ビジュの咆哮とともに。
「なら、死ねェェェェ!!」
一旦はサプレスに消えたブラックラックが、再び現れた。無数の髑髏が、眼球のない、落ち窪んだ闇に浮かんだ光が、ぎょろりとレックスをとらえる。
その異様さに息を飲んだ瞬間、召喚獣の周囲に黒い雷が再び生まれた。――それを視認したかしないかのうちに、
「うわあああぁぁぁぁぁぁッ!!」
先刻を襲ったのと同じ、いや、もしかしたらそれ以上かもしれぬ衝撃が、レックスの全身を見舞っていた。
だが、彼は踏みとどまる。
正式な召喚師ではなくとも、レックスとアティは軍学校で召喚術を学んだのだ。訓練の過程のなかには、召喚術の行使だけではなく、相手から受ける術を如何にして緩和するかというものもあった。
そして、体力の差というものがある。
成人した男性と、まだ年若い少女の間の開きは、それなりに大きい。
「……っ、ぐ……」
物の焦げるいやなにおいが、自身の鼻孔をつく。
平衡感覚を失おうとした身体を必死に留めて、踏ん張った。
倒れるわけにはいかない、けっして。
せめて何か――誰か。この事態を打破するきっかけが、見えるまで。
その可能性が低いことを理解していても、レックスが倒れれれば攻撃がまたに行く。が倒れれば、きっと次はアティだ。その後、抵抗出来ない子供たちがどうなるか。
――俺が。
――ここで、踏ん張らないと。
霞む視界の向こうで、ビジュがニヤニヤと笑っている。
「がんばるじゃねえか。じゃあ、もう一発行くぜェ?」
「――――っ」
耐えられるか? ――難しい。
自問の解はすぐに出る、が、レックスは動かない。
広げていた手こそ、苦痛をこらえるため、気を保つために自身を抱きこんでいるが、足はそれこそ張り付いたように動かない。動かさない。
「やめてくださいっ!!」
が、そこに響く足音。
「……アティ!?」
「これ以上レックスたちを傷つけるつもりなら、先にわたしを倒しなさい!」
ベルフラウをアズリアに預けたまま、アティがレックスの前に駆け込んできていた。
「イッヒッヒッヒ……、美しい兄弟愛ってかぁ?」
そんなふたりを、ビジュが嘲笑う。
けれどそれに重なって、それより鮮やかに届く声。
「なんで……っ!!」
声。……誰の声だっけ。
くらくらする頭で思い、けど、答えはすぐに出た。
珍しいな、泣きそうだなんて。初めて聞いた気がするよ、俺。
ビジュの腕のなか、アズリアの腕のなか。
分かれた双子が、叫んでいた。
「どうしてそこまでするんですの! 私たちを捨てれば、もあなたたちもそんな目に遭わずに済むんですのよ!?」
――ベルフラウ。
「なんで、黙ってやられてるんですか!! そんな奴の云うことに……どうしてっ!!」
――ウィル。
どうして、って。
答えの判りきった質問に、レックスは「はは」と力なく笑った。アティもきっと、同じ気持ちなんじゃなかろうか。
だって。
だってさ。
「……約束、しただろ?」
あの日。
船をカイルたちが襲った、あの日に。
自分たちは、子供たちに、こう云ったのだ。
「絶対に」
「君たちのことは守ってみせる……って」
――――それは、約束。
レックスとアティと、そしてマルティーニ家の四人しか知らぬ、たったひとつの約束だった。