ミルクだのジュースだの、酒場に不似合いな飲み物を頼んで待つこと小一時間。
戻ってきた男は、一枚の券をに手渡した。
おおよそ一般に出回っているとは思えない乗船券には、質の悪い印刷機で文字が刷られていた。
「そいつが、出港日時。明後日の正午だ」
一応堂々とは出来ねえ船だからな、時間に間に合わない奴は遠慮なく置いていかれる。注意しろよ。
「はい。……あ、この代金はどうしましょう?」
裏ルート、ってものなんですよね?
それなりに値が張りますよね?
「ん? なぁに、気にすんな。カイルんとこの先代には、昔世話になったんでな。これで恩が返せるなら、安いもんさ」
「……ありがとうございます」
本気で、カイル一家に足向けて寝れない気分をひしひしと味わいつつ、はぺこりと頭を下げた。
もしもヤードが緊急で自分を喚んだとしたら、絶対、絶対がんばろう。
そんな彼女の横、男がひとり、イスラに話しかける。
「そこの兄ちゃんは? いいのかい?」
「あ……いいえ。僕は別の船に乗りますから」
「そうか。じゃあな、おふたりさん。いい旅を」
「はい。みなさんも、いい旅を」
「それでは失礼します」
あたたかい見送りを受けつつ、ふたりは、来たときと同じように木戸を押し開け、外に出た。
少し西に傾き始めた太陽が、それでもまだ、一日が終わるまでには余裕があることを継げている。
んー、と、伸びをして、まず新鮮な酸素を取り入れる。
別に毒の混じった場所にいたわけではないけれど、酒とたばこのにおいは、やっぱり少し息苦しかった。
ぷは。
二酸化炭素を勢いよく吐き出して、はイスラを振り返った。
「イスラさん、具合はどうですか?」
呼吸困難に陥ったりしてません?
「してないよ」
同じように深呼吸していたイスラが、苦笑して答える。
それから、「あのね」と顔を近づけてきた。
「勘違いしてるみたいだけど、僕はこれでも健康体だよ。……あれは、本当にたまに、一年に一度あるかないかってくらいの予定外で」
「つまり病気なんでしょうが」
健康な人は、そもそも吐血なんぞしやしません。
「……だから、予定外なんだってば」
第一なんだって、あんなことになったのか……治療の効果が薄れたんだとしたら、そのあと復帰した理由が判らないし……
はあ、とイスラはため息ひとつつき、腕を組んでなにやらぶつぶつ。
いまいち事情が判らないが、そんなにも判ったことがひとつ。
ここで延々と彼の健康について議論していても、たぶん無駄だろうなということである。
「じゃあ、イスラさんは仮健康ということにして」
「仮って何」
「深く考えちゃ負けですよ」
さらりと云って、とりあえず歩き出す。
数歩遅れて足を踏み出したイスラが、小走りに追いついてきた。
「どこ行くの」
今日は一日一緒にいてくれるって云ったよね?
ちょっと咎める感じのそれに、今度はが苦笑する。
「云いました。おいていこうなんて、してませんってば」
「…………」
ぎゅっ、と。
伸ばされたイスラの手が掴んだのは、の服。の、裾。
見上げれば、少し拗ねたような表情がある。
まるで子供のような仕草に、思わず顔がほころんだ。
「だいじょうぶですって。あたしも明後日まで暇が出来ちゃいましたから、今日はちゃんと、日が暮れるまでお付き合いします」
あ、でも出来れば、船が出る港をちょっと下見したいんですけど。
そう云うと、やっと、イスラの表情がやわらいだ。
「うん。西の端の港だったね。判る?」
「えーと、たしか、聞いた話だとこの角をこっち……」
「……。そっちは南」
「あれ?」
くるりと方向転換した身体を、また90度回転。
照れを隠すために曖昧な笑顔を浮かべたを見て、イスラはくすくす笑う。
「たぶん、こっちだよ」
それからそっとの手をとると、先導して歩き出す。
少し冷たいその手のひらに一瞬驚いたけど、すぐに伝わってきたぬくもりに安堵し、も手を握り返した。
黙って歩くのも難なので、会話を探してみたりして。
で、出てきたネタはというと、
「イスラさんって、何気に強引なとこありますねえ」
とか、聞きようによっては実に失礼な発言だったりしたのだが。
がっくり、と、イスラの肩が落ちる。
「……あのね。そんな、僕が誰にでもほいほい声かけるみたいに云わないでくれる?」
「かけたじゃないですか。実際。見ず知らずのあたしに」
「それは、君があんなところで絶叫してるから何があったんだろうって思っただけ」
海に向かって叫ぶ、だなんて劇の中だけの話かと思ってたら、実物がいるんだもの。
「それはそれとして」、
思い返すと恥ずかしいため、は、さっさとそれを横に置く。
つないでない方の手で、荷物を横によせる素振りまでする徹底っぷり。
「そのあとついてきたのは、どうしてです?」
「……ん? うーん……我侭、かな」
たしかに。
そうつぶやこうとしたけれど、は、それを口にする前に胸中で押しとどめた。
視線をそらして、どことも知れぬ場所を見て。
告げるイスラの表情が、まるで、今にも消えてしまいそうに儚く思えたからだ。
沈黙をどうとったのか、彼は、虚空を見たままことばをつむぐ。
「……うん――我侭だよ、単なる」
君の声が聞こえた。
ここにいる、どこにも行かない。そう叫ぶ、君の心が聞こえた。
だから、最後の一日を一緒に過ごすなら、
「……君みたいな人が傍にいたらいいな、って、思っただけ」
「はあ。まあ、あたしなんぞでよろしければ、はい」
それじゃとりあえず、港見たあとはどうしましょうか。
こっくり頷いて、は再び話題を変える。
ことばにしなかった部分の彼の気持ちを訊いてみたい気もしたが、それはやめておいた。
なんというか、いつまでもこの話を続けていたら、そのうちイスラが風に吹かれて飛ばされてしまいそうな、そんな気がしたから。
そうして思惑通り、イスラの視線がに戻る。
ゆっくり微笑むその表情は、至極楽しそう。
「なんでもいいよ。買い物でもいいし、それこそ散歩でもいい。僕もこの街はまだよく知らないから、ふたりで探検でもしてみる?」
「うーん、そう云われると迷いますねー」
せっかくですから、帝国ならではの特産品など見てみたい気もしますが。
「特産品かあ……そういえば君ってどこの人? そう云うってことは帝国じゃないんだよね?」
「……う」
でも、ま。隠すのもなんですし。
「暮らしてる家は聖王都にありますよ。帝国の敵国」
「あはは、そうなんだ」
それじゃあ、帝国の軍人に見つかったら大変だね。
「……あう」
「だいじょうぶ。旧王国ほど仲が悪いわけじゃないし、云いふらさなきゃ判らないよ」
「だといいんですけどねー……」
の剣術はデグレア仕込みだ。イコール旧王国。……誰かと戦わなくちゃならない事態にだけは、どうか陥りませんよように。
「あんまり目立たないように、さっさと船に乗っちゃいたいもんです」
横手に見える停泊船を見て、はしみじみつぶやいた。
あのなかのどれかが、聖王国に向かうんだろうか。それとも、新しく入港するんだろうか。
いずれにしても、あと二日で、ひとまず胸の荷物のひとつはおりる。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
聖王国についたらついたで、なんとかどうにか手段を講じなくてはいけないだろうけれど。
けど。
「ま、今は難しいこと考えないで遊びましょう!」
「うん、そうだね」
大きく腕を振り上げたの横、笑って頷くイスラを見て、しみじみ思う。
誰かが横にいてくれるっていうのは、本当に、何に代えられないほどありがたくって、安心できるなあ、と。