今日一日何をしたのか日記に書けと云われたら、とりあえず、『いろいろやった』と書くだろう。
いちいち覚えてもいない雑多なことを省いたとしても、実に多数。
カイルたちと別れたことに始まって、海で叫んでイスラと逢って、酒場に行って乗船券貰って、そのあと適当にあちこちうろついて。
そうして日が暮れるころ、ふたりは一軒の宿の前にいた。
「うわーうわーうわー」
おのぼりさん全開で、宿を見上げて口を開けてるのが
。
「そんなに珍しい?」
と、微笑ましくそれを眺めているのがイスラ。
当初こそ“日が暮れるまで”という約束だったが、ふと考えてみたら、
は船が出るまで泊まる宿さえ決めていなかった。
それじゃあ僕が使ってる宿で、と、イスラが提案したのは至極当然の流れ。
つれてこられた宿を指して、はイスラを振り返る。
「だって、こーんな大きな宿って聖王都でも見たことないですよ」
同じ港町のファナンだって、ここまで大きいのありませんでした。
「ああ、そうか。人の行き来で云えば、ここは三国中でもかなり盛んなほうらしいから」
となれば自然、宿泊設備も大きくなるわけで。
ばばーんと、広く高い建物を前に、はしばらく立ち尽くす。
そんな彼女を、イスラが軽く促すけれど。
「どうしたの? ほら、早くしないと部屋が全部埋まるかもしれないよ」
「……宿泊費って、一泊いくらくらいするんでしょう?」
そう。
切実な、その問題があったりする。
サイジェントで稼いだ日銭のあらかたは、
が持っていた。バルレルに渡しとくと、とたんに酒に化けそうだったから。
が、稼いだその半分以上を生活費としてリプレに渡していたことも、また事実。
ていうかそもそも、当初はゼラムに一直線予定だったんだし。
クス、と小さな笑い声。
切羽詰った生活感あふれたの疑問に、イスラが口元を押さえてふきだした。
「もしかして、無一文?」
「……そういうわけじゃないんですけど」
ちょっと、この先何があるか判らないから、極力節約したいっていうか……
そんなのことばに、告げたイスラのセリフは。
たぶん、彼としては冗談のつもりだったのだろう。
「じゃ、僕の部屋に一緒に泊まる?」
相手が普通の女性なら、真っ赤になって逃げるなり全力で辞退するなり、したかもしれない。
または、冗談云わないで、とか笑ってすませたかもしれない。
だが。
「いいんですか!」
ぱあ、と表情も晴れやかに訊き返すの目は、どう見ても真剣だった。
「え。」
予想外の反応に、ではなくイスラの頬に冷や汗一筋。
お兄さん、ちょっと見解が甘かったようである。
何せ相手は元軍人。つまるところ、男所帯での、文字どおり雑魚寝に慣れきっていたりする。
あまつさえここ数ヶ月、プラスその前の旅においても、雑魚寝や野宿は日常茶飯事。
「……僕、一応男なんだけど……構わないの?」
「はい!」
おそるおそる問えば、実に元気な返事。
しかも、まあ。
きらきら、という擬音がこれ以上はないほど似合う表情で、そんなふうに云われたら。
云いだしっぺとしても、また、人間としても。
「…………じゃ、行く?」
「はいっ!!」
そう、云っちゃうしか、ないわけなのでありました。
合掌。
とはいえ、別に不健全な目的など、双方持ち合わせていないわけでして。
最初の衝撃が過ぎてしまえば、あとはのほほんとまず夕食。
で、大浴場前で一旦別れてまた合流。
余談だがここの水、ファナンと同じようにお魚を使って海水を真水にしてるらしい。
お魚はそれでいいのかと思って訊いてみたら、ちゃんと一ヶ月周期でローテーション組んでるんだそうだ。要らんところ配慮があるな、帝国。
宿に据付の寝間着に袖を通したとイスラ、気づけばすっかりくつろぎモード。
「……」
「……」
バチバチバチバチバチ。
――ではないようだった。
火花を散らして睨み合うふたりの間には、ベッドがひとつ。
シングルルームであるこの部屋、当然のようにベッドは一人用がひとつしかない。
ゆえに、ふたりの人間がいる場合、どちらか一人は蹴り出されることになる。
「だからー、あたしが床で寝ますってば」
ていうか寝せてください。
「女の子にそんなこと、させられるわけないだろ?」
僕が床で寝る。
「イヤです」
「嫌だよ」
ばちばちばちばちばちばち。
飛び交う火花はエスカレート。
ふたりの手にがっしり握られた毛布は思いっきり左右に引っ張られ、あともう少しもすれば破れそうだ。
「あのですね。イスラさん」
「何」
「あたしが、部屋の本来の宿泊主かつ病人を床で寝せて、ぐーすかベッドで寝れると思いますか?」
「あのね、」
「なんですか」
「誘った当人として、お客でしかも女の子を床で寝せるような人間にはなりたくないんだよ、僕は」
「……」
「……」
バチバチバチバチバチバチ。
いい加減にしろ君ら。
――と、そんな天の声が聞こえたわけではないが、ぱっ、とは毛布から手を放した。
「うわっ!?」
まだ力をこめていたイスラは、当然、その反動で後ろによろける。
そこに、は身を乗り出す。
ベッドに片手と片足をかけ、はっしとイスラの腕をつかんで、ぐいっと自分の方に引っ張った。
今度は前に倒れ込むイスラの身体をうまく反転させて、そのまま、間にあったベッドの上、仰向けに引き倒す。
そうして、まだ彼の手にあった毛布を取り上げて、ばさぁと上からかぶせて押さえた。
所要時間2〜3秒。
「――」
「はい?」
身体を起こそうとするイスラを、毛布の上から押さえ込む。
ベッドの横から身体半分乗り出して、まあ、半ば自分の身体で押さえつけてる状態だ。
そんな姿を見て、イスラは、こめかみを押さえてため息ひとつ。
「……あのさ……君、警戒ってことば知ってる?」
「知ってますよ」
「僕が男だって判ってる?」
「判ってますよ」
「じゃあ、普通、男女がこんな体勢つくったそのあとって、何が起こるか判るよね?」
「勿論です」
「なら、どいて?」
「イスラさんが、大人しくベッドで寝てくださるなら」
にんまり。
笑ってそう云うと、イスラの口から、これまでで最大級のため息がこぼれた。
――勝者、。
あ、でも、一応念のため。
ベッドに上半身起こしたイスラの横、つまりベッドのふちに腰かけて、とりあえず
さん自己弁護。
「あたし、別に襲われてもいいやってことで、ああいうことしたんじゃないですからね」
第一襲おうとしたら、どつき倒しますよ?
「判ってるよ、そんなの」
あっさりやられたのが悔しいのか、イスラの声は少し拗ねている。
手にした本から視線をあげないのは、せめての抵抗のつもりだろうか。
別にいいやと気を取り直して、もまた、視線をイスラから動かした。
大きくとられた窓の外に見えるのは、港町の華やかな夜警。
航海してくる船の目印の意味もあるのだろう、夜になっても消えない灯りや、水夫たちが集うのだろう店の装飾。
その手前、ガラスに映るのが――の姿。
赤い髪と翠の眼。
「何見てるの?」
「ちょっと、夜景を」
まさか、窓に映った自分を見ていたなどとは云いづらい。
答えたの視線を追って、イスラもまた、本から視線を転じたようだ。
ガラスに映ってたイスラが、と同じ方向を向いている。
最初こそ窓の外に向けられた彼の視線は、数秒もしないうちに、窓のに視線を合わせてきた。
「君、変わった子だって云われない?」
「ああ、よく云われます」
「……やっぱりね」
「なんですか、その呆れきったよーな云い方は」
呆れてるんだよ、と、イスラはあっさり一言返す。
返して、それから小さく笑った。
「でも、逢えたのが君みたいな人で良かった」
最後にこんなに楽しい時間が過ごせて、良かった。
やっぱり含まれた言外の感情に、はちょっぴり眉を寄せる。
「……なんか好きじゃないです、そういう云いかた」
「どうしてさ?」
「今生の別れみたいで。好きじゃないです」
「そう……? 別に他意はないよ?」
「イスラさんに他意がなくても、あたしがそう思うんです」
窓を見たまま、ふたりの会話はつづく。
「なんか諦めちゃってるみたいな……覚悟してるみたいな。イスラさんみたいな若い人が、そういうこと考えるのは、まだ早いですよ」
「…………あのさ。僕、たぶん、君より年上のはずなんだけど?」
「あたしはいいんです。まだ考えません」
諦めない。
何がなんでも諦めない。
こんな、ン十年前の帝国に落っこちようが。帰る手段の目星さえついてなかろうが。
それでもだ。
――あの時間、あの場所に帰ることを、まず、あたしは諦めない。
「人間、諦めたら終わりなんですから」
だから、イスラさんも、そんなふうに何かを諦めたように話しちゃだめです。
ため息ついたらひとつ幸せ逃げますし、諦めたら願いも望みも全部逃げます。
「じゃあ……何?」
ひやり。
イスラの声が、冷気を帯びる。
もしや、つついちゃいけないツボをつついただろうか。
ちょっぴりそんな予感がし、は視線を窓から横へ滑らせた。――イスラも同じようにしたらしく、ちょうど視線がそこで交わる。
「諦めなければすべてが叶うの? 諦めなければなんでも出来るの? それが自分にはどうしようもないもので押さえつけられていても、諦めなかったらどうにかなったっていうの?」
「……」
「どうなんだよ」
「――――」
ふ、と。
これみよがしに息を吐き出し、イスラはから視線をそらす。
視界の端にちらりと映った彼の表情は、嘲りの混じった笑み。だけどそれは、誰へ?
「……答えられないんだ?」
「叶います」
「――?」
「…………あたしが欲しかったもの、全部じゃないけど……」
それでも、
「あたしは、そんな人たちを知ってます」
幾多の嘆きも絶望も越えて、道を望んだ人たちを、知っています。
ひとつは調律者。彼らにまつわる人たち。
ひとつは誓約者。彼らにまつわる人たち。
すべてを得たわけじゃない。
何もなくさなかったわけじゃない。
それでも――笑い合う、その人たちを知っている。
ふふ、と、小さな笑い声。
窓から視線を戻したイスラが、を見て笑っていた。
ついさっきまでの冷気はどこへ行ったのか、きれいさっぱり消え失せている。
「」
「はい?」
「寝ようか」
「……はい?」
唐突な話題転換。
同じことばを繰り返したの頭を、ぽん、と撫で。
さっさとベッドにもぐりこむイスラを、はぽかんと見ていたけれど。
「……ま、いっか。怒られなかっただけ」
ひとりごちると、ベッドのふちから下りてまず、部屋の明かりを消した。
それから毛布に包まって、いそいそと、イスラの眠るベッドの傍に身体を横たえたのである。
――そう。それはただの、行きずりの旅人同士の。
ほんの一夜の、気まぐれと親切。……そのはずだった。