時間が流れ、太陽が中天にさしかかる頃になっても、はまだ風雷の郷に居座っていた。
あれからちょっとした武器談義をし、そのあとスバルの母親がやはりミスミであることを(彼女の夫がリクトという鬼人であり、今は亡きひとであるということも)教えてくれたキュウマが、時間を見て、せっかくですからと御殿での昼食に誘ってくれたのだ。としてもミスミにお礼を云いたかったので、おことばに甘えさせていただいた次第。
だが。
当初敷物に対してのものだった感謝の気持ちは、目の前に燦然と輝いた白米のごはん、味噌汁、焼き魚、肉じゃがといった献立によって、倍増どころか際限なく肥大してしまったのである。
……いやもう、どう表現しようか。
育ち盛りで食べ盛りのスバルが、目を丸くするくらいの勢いでたいらげてしまったのだといえば、我の忘れっぷりも判ろうというものだろうか。
「ほほ、気持ちのよい食べっぷりじゃったな」
「あ、あははははは……つい我を忘れてしまいました」
昼食後の縁側、ちょっとぬるめに淹れたお茶を横において座り、鬼姫と少女はのんびり、日向ぼっこと勤しんでいた。
スバルとキュウマの姿はない。腹がこなれるのを待って、稽古をするんだと出かけていった。
「スバルくんも、剣の稽古してるんですね」
ナップたちを思い出しながら水を向けると、「うむ」とミスミもうなずく。
「男の子たるもの、やはり強くなってほしいからのう。まあ、あの子はキュウマのようなシノビには不向きじゃと思うが」
基礎鍛錬は共通じゃからのう、と笑うミスミ。
先日まで実にその共通部分を行わせてたも、こくりと同意。シノビには不向きという部分も含めて。
そんな女性ふたりの横、昼食後の散歩がてらとやってきていた老人が、呵々と笑った。
「坊主には無理じゃろうて、あれは隠密よりも正面切って挑むが性にあっとろう」
「まさにのう、ご老体の仰るとおりじゃ」
「うーん、見抜いてますねえ」
「何を云うか、これくらい見抜けねば年の功とも云うておられんぞ」
「亀の甲よりですね」
「うむ。おぬしは向こうでも、よう勉強しとったようだな」
感心するに笑ってみせる老人の名は、ゲンジという。後半の会話が示すとおり、なんと出身は名も無き世界。しかも日本。しばらく前に召喚され、故郷と似たところのあるこの風雷の郷に、ミスミの勧めで世話になっているんだとか。
郷の外れに小さな庵を用立てて一人暮らし、手慰みに茶葉の栽培もしてるんだそうだ。の目から見ても、実に風情のある老後である。――少々、暮らす場所が日本の老人とかけ離れまくってしまっているが、
「向こうでやることは全部やった、心残りはないわ。連れ添いにも先立たれてどうしようかと思ったところだったし、これはこれで新鮮じゃ」
と、寂しくはないかと問いかけたに笑って告げたつわものだ。
日本では教師をやってたそうだが、さぞ生徒に慕われてたんではないだろうか。
少なくとも、はこういう豪快な先生は結構好きだと思う。
十歳までしかあちらにはいなかったから、学校といえば小学校までしか通ってないが、ゲンジがもし担任だったら怖がりながらも懐いたような気がするし。
「そういえば、お主のところにも教師がおるらしいの?」
こちらの思考とリンクしたわけでもあるまいに、ふと、ゲンジが思い出したように云った。
は話した覚えなどないから、おそらくミスミやキュウマ、スバルあたりから聞いたんだろう。はい、と頷いて目をやると、ミスミも「おお」と手を打っている。
「そうそう、そうじゃ。その件でな、是非あのふたりにお願いしたいことがあったのじゃ」
「なんじゃ鬼姫、まだ頼んでおらんかったのか?」
お願い? と首を傾げたの横、内容を先んじて知ってたらしいゲンジが、ちょっと呆れたように問うた。察するところ、お願い事が出来たのは今日や昨日ではないようだ。
そんなゲンジの科白を軽く交わして、ミスミはに向き直った。
「うむ。実はな、うちのスバルとその友達のパナシェが、是非先生たちについて勉強をしたいと云っておるのじゃ」
つまり、学校を開いてほしいということなのじゃが。
「……学校?」
「そうじゃ」
「でも、それならゲンジさんがいるんじゃ……?」
第一線を退いたろう年齢とはいえ、教師としての経験はレックスたちとは段違いではあるまいか。
ちらり、と、慮るように見た老人は、けれどちっとも気分を害した様子はない。それどころかこちらを諭すように、
「何を云っとる。鬼姫が坊主たちに学ばせたいのはな、とおりいっぺんの勉学ではない。この世界のことなんじゃぞ」
告げられて、気づいた。いや、思い出した。
――世界の名は、リィンバウム。
彼ら――そして――にとっての、異世界。
「我らはな、この島から出たことがない。故郷のことなら郷の者から学べ得ようが、この世界のことはこの世界の人間から学ぶしかあるまい?」
「それは……たしかに」
「わらわとて、思うておった。いつまでも島に閉じこもったままでは、いられぬだろうと」
頷くへ微笑みかけて、ミスミはつづけた。
「そうしたら、そなたたちが訪れた。……子供めいた予覚かもしれんがの、これは何かの兆しなのだと思うのじゃ」
まあ、今日が駄目なら明日でも構わぬ。船に戻ってからでよいから、是非レックス殿とアティ殿にこちらへ足を向けてもらうよう、言付けてはもらえぬか。
もちろん、反対する理由はない。
学校を開くかどうかはレックスたちの判断であり、は、彼らにミスミのもとへ赴くように告げるのみだ。
大きく頷くを見て、ミスミもまた、嬉しそうに頷いていた。
――――そうして、夕暮れ。
子供たちの授業を終えたレックスとアティに、ミスミからの伝言――頼みがあるから郷に来てくれとの――を伝えたところ、ちょうど時間もあるからと出かけていったふたりが、いったい何があったのか、ほうほうのていで戻ってきた。
なんだか、やけに疲れまくっているようだ。が、外傷はない。
行き来の合間にはぐれたちに襲われたわけでもなさそうだが、げんなりというかぐったりというか、とにかくそんな感じ。
だもので、元々はそのふたりが順番のはずだった夕食当番は、急遽カイルに任されることになった。
手早く食事を済ませて、今日の授業で疲れてしまったという子供たちをレックスの引率で湖に水浴びに行かせてる間、アティが事情を説明することになった。
学校の先生になってくれと頼まれたこと、四人の生徒がいるからすぐには無理と告げたところ、ふたり増えたくらいで悲鳴をあげるようでは教師など勤まらん、と、ゲンジというひとに怒鳴られたこと、そうして教師のなんたるかをみっちりぎっちり叩き込まれてきたということ……
つまり、みっちりぎっちり説教を受けてきたわけか。そりゃ疲れる。
「へー、学校の先生に?」
「……で、そのジイさまに説教されて、引き受けちゃったわけ?」
またいろいろ舞いこんでくるな、と感心するカイル、もう予想がついちゃってるけど念のため、とばかりに確認するスカーレルのことばに、アティは「あははは」と乾いた笑いを浮かべている。
やっぱりねー、と、とソノラも顔を見合わせた。
「なんてゆーか苦労性だよねぇ、先生たちって」
「だよねえ」
赤髪と金髪、少女ふたりの息の合ったやりとりに、アティの笑みがさらに乾く。一応自覚はしてるんだろう。
が、そこに気がかりそうにヤードが告げた。
「私たちはとにかくとしても……子供たちは、どう思うでしょうか?」
「うん、そうですね。それは、レックスに頼んでます」
なるほど、早々と湖に行かせたのは――教師ふたりが二手に分かれて、子供たちと海賊一家プラス客人を離したのは――そういう理由もあったのか。
得心のいったたちを均等に見渡して、アティは云った。
「ゲンジさんに云われたからだけじゃないんです。わたしたち、本当の先生らしいこと、何も出来てなかったから……」
一周した視線が、で止まる。
「あの子たちから聞きました。この数日、が面倒を見てくれていたんですよね?」
「え。あ、……っと、はい。勝手だとは思ったんですが」
ほっとけなくて、とは云わない。そんな、ともすれば消極的ともとれる理由で、ナップたちの提案を受け入れたわけではないのだ。
「先生よ、そりゃ――」
「判ってます。わたしたち、浮かれてました。島のひとたちに受け入れてもらえそうなのが嬉しくて、先生っていうのは勉強だけさせてればいいってわけじゃないこと、忘れてたんです」
だから、胸を張って、わたしたちは先生なんだと云えるようになりたい。
「そのために、先生としての勉強をしたいんです。今回の学校のことは、そのきっかけになるといいな、って……」
がんばりたいんです、とアティは云った。
手を軽く握り締めて胸元に当て、自らを力づけるように微笑んで。
これならきっとだいじょうぶ、と、彼女を見る一同に思わせるような笑顔。
そうして、も、例に漏れずそう思った。
こんな真摯に云われて断れるひとなんて、きっといるまい。子供たちだって、学校のことは納得してくれるだろう、と。
それはたしかに、間違ってはいなかった。
湖から戻ってきたレックスが、子供たちを部屋に帰したあと、「いいって云ってくれたよ!」との報せをもって駆け込んできたからだ。
だが。
頷いたという子供たちの表情を、その晩、他の誰一人として目にしていなかったのが、すれ違いといえばすれ違いだったのかもしれない。