声を、聞いた。
……君のことを知ったのはね、あの嵐の日だよ
すぐに思い出した。
この島に流れ着いたあの日、夢うつつのなか聞いた声。
……碧と紅が継承された日だ。彼らを通して、君のイメージが僕に届いた
声はつづける。
こちらの返答も待たぬまま。
……ありがとう
確信に近い、だけどきっと遠いなにかに対する感謝。
……幼い彼らを救ってくれて
そのことばに、真っ赤だったあの日を思い出した。
何もしてない。
そう反論したくなったけど、やめた。
この声の主が何を話すのか、最後まで聞いてみたくなったのだ。
……傍にいると云ってくれて
そのことばに、昏睡しつづけてる誰かを思い出した。
でも、声は彼のものではない。
誰だろう。
自分と彼らしか知らぬ事象を、何故、この声は知っているんだろう。
……君がいればだいじょうぶだって思えるよ
どこから来るんだ、その自信は。
根拠なき“だいじょうぶ”で突っ走った自分が、云えることではないが。
……だから
ちょっと間を置いて。
声は断言してくれやがった。
……君は君の思うとおりに走って走って突っ走ってくれ
――――それで、どこかの酔いどれ占い師を思い出してしまった。
なんというか、微妙な目覚めだった。
起き抜け早々げんなりしてたせいだろう、ソノラから「……知恵熱?」と問いかけられたほど。
妙な夢を見たのだと説明したが、うん、たしかに妙だと自分で納得してしまった。
どんなんだと聞かれると具体的には覚えてないのだが、なんというか、真面目な話をしてたのに、最後の最後でオチつけられたような、そんな感じ。
あー……なんか、レイムさんやメイメイさんと話してるときの感じに似てたなあ。
あのふたりも、さんざ真面目にことを運んで、中盤とか終盤とかでオチつけてこっちの反応楽しむような性格だった。
ひとりにはもう逢えないが、もうひとりには何かと同じ目に遭わされる日々だったもので、類似点を見つけるのも早かったのである。
……もっとも、今だってその本人を目の前にしてはいるのだ。“”ではなく“”をしか知らぬという事実が、なんとなく距離を感じさせる――が、今はむしろそれがありがたい。近しい気持ちになると、つい現実を忘れて要らんこと口走って遠い明日の情報こぼすかもしれないからだ。
ま、あの人が気まぐれ起こして星占やろうとしても、の星は読みにくいってゆーから悟られる心配はまずあるまい。要はこちらがボロを出さねば済む話。
……そんなこんなで気を取り直したころには、の頭のなかから夢のことはすっかり消えてしまっていたのであった。
朝食を終えて部屋に戻ったレックスたちを出迎えたのは、室内に山と積み上げられた書物だった。
「……え?」
「あらら?」
予想もしなかったその光景に、アティとレックスは扉を開けた体勢のまま一時停止。
思考をくるくる回転させ、そういえばこれは子供たちに出してた課題だったと思い出した。しかもご丁寧に、ここ数日分すべてが積んであるようだ。
アティが苦笑して、室内に身体をすべりこませる。
「そういえば、ナップくんたち随分早くご飯を終えて出て行ってましたね」
食事のために出たときには、まだ何も積まれてなかった床を思い出し、レックスも頷く。
「まさか、このために……かな」
「昨日のも、全部終わっちゃったんでしょうか?」
一冊を取り上げて見てみると、ちんまりしたかわいらしい字がアティの推測を裏付けていた。
レックスのほうも同じらしく、最初のそれをぱらぱらと流し見したあとは、次から次へとすべてが同様の状態であることを確認している。
そうして、全部の書物をチェックし終えたレックスが、感心したように息をつく。
「すごいなあ、完璧だ」
「本当に、頭のいい子たちなんですね」
なんだか、わたしたちが改めて教えることってないみたい。
まだ進んでいなかった頁さえ、几帳面な字で埋め尽くされている課題。しかも九割方正解という出来のよさ。それを小さな音をたてて閉じ、アティもまたため息をつく。
新しい課題を用意しなきゃ――そう云いかけて、だが、彼女はふとした疑問を覚えた。
「でも……どうしたんでしょう。今まで、こんなふうに部屋に投げ込んだりなんかしなかったのに」
授業は子供たちの部屋で、決まった時間に集合して始められる。
その時間になると、いつも彼らは席について自分たちが来るのを待っていた。
近頃は集落のひとたちからのお誘いもあって出かけることが多くなってたから、その間やるように云っておいた課題だって、ちゃんと毎日終わらせて待っていた。昼食はカイルたちと一緒にとってたようだし、昼少し過ぎに戻るといつも、朝と同じように席について待機してたのだから。
……うん。本当にいい子たちだと思う。
だから余計に、彼らがこんな悪戯めいたことをするのが、にわかには信じられない気持ち。
「もしかして……もう勉強が嫌になっちゃったんでしょうか」
書物の片づけを終わらせたアティが、うーん、と首をひねってそう云った。
余計に散らかすだけなのが判ってるレックスは、そんな姉と同じく悩みモード。
「そうかも。こんな状態なんだし、勉強どころじゃないって思うのも判る気がす」
がすッ
「ごふッ!?」
「ああっ、レックス!?」
……召喚獣投擲なんて、やりだしたのは誰だったか。そんな質問がもし出たら、挙手するのは彼らの妹と間違えられた翠の瞳の少女だろう。
が、たった今レックスの後頭部を直撃したのは、いつもの傍にいるプニムではない。もっと硬く、打ち所悪ければ即逝けそうなアールだった。
しかも、投げられたわけではなく、足の部分の出力を最大にして自らかっ飛び頭突きをかましてきたのだ。衝撃と痛みは、プニムから受けるそれの比ではない。
……結果として、くじらよろしく盛大な血しぶきを噴き出すレックス。
倒れずにすんでるのは、これがギャグシーンだからだろうか。古に曰く、ギャグキャラはどんな怪我しても死なないっつー伝説もあることだし。どこの伝説だとか云うな。
まあそれ以前に、
「ぴ、ピコリットを……!」
大慌てでアティの呼んだピコリットが、レックスを一目見て硬直しつつも傷を癒していってくれた。
噴水出力が大から小になり、ほどなく出血は停止する。
「いたた……」
ぼたぼたと顔面を流れてすでに固まりだした血は、どうしようもなかったが。
そうして、そんなスプラッタを見てしまった誰かさんが「はう」とうめいて気絶した。
ぱたり、と床に伏す音の出所は、レックスたちが開け放したままだった扉の陰。――――本を積み上げた子供たちが、彼らが戻ってきたのを見計らい観察のためにひそんでいた場所である。
振り返ったレックスたちの目に映ったのは、まず、真っ青になって倒れてるアリーゼ。それから、その彼女を囲む残りの三人。妹が倒れて慌ててるナップと、心なし顔色の悪いベルフラウ、別の意味で頭痛を覚えたらしくこめかみを押さえているウィルだった。
「あっ、こら! アリーゼしっかりしろ!」
「あんなもの見せたら倒れますわよ、何考えてるんですのナップ!!」
「ガガ、ビー」
「アールは悪くないよ、行かせたナップが悪いんだ」
「結局いつもオレなのか!?」
「「そのとおりでしょうが!」」
双子のダブルアタックに、さしもの長兄もたじたじと後ずさる。
だが、こちらを見るふたりの家庭教師の視線に気づき、
「それどころじゃないだろ!」
と、弟妹を一喝。
しょうがないとばかりにアリーゼを背負ったナップは、双子からは背中側であるレックスたちを指さした。
……かわいいなあ。
ちょっぴり和んだのも束の間。四人、いやひとり気絶してるから三人の睥睨に、ふたりは息を飲んだ。
「授業」
強い口調で、ナップがそれだけを口にする。
「自習課題ばかりおいていくのは、いい加減にしてください」
兄のような勢いはないが、ウィルの語調も珍しく強い。
「あなたたちは、私たちの家庭教師として雇われているんですのよ。集落の方たちと仲良しになるのも結構ですけど、本分を忘れられては困りますわ」
キッ、と云いつのるベルフラウ。
――そして。
「……知らないだろ、あんたたち」
気絶してるアリーゼを除き、ぐるりと一巡した発言権が再び長兄に戻って。
「オレたちが、や船長に稽古つけてもらってたの」
思いもしなかったそのことばに、どろり、と何かが渦巻いた。
子供たちの真っ直ぐな目を見返すことも出来なくて、レックスとアティは焦点を彷徨わす。ふらふらとぶつかった姉弟の蒼い目は、鏡でも見ているかのように同じ色を宿していた。
その感情の名を――知っている。
けれど、それをぶつけるべき相手の顔を描くより先に、自分たちの行動を思い返してしまった。そうすることが大人としては正しくても、感情の流れを歪めるものとは知らないで。
……ここ数日。
集落に出かけてばかりだった、自分たち。
自習課題をきちんとやってくれることに安心して、それ以上見てもいなかった子供たち。
そんな子供たちの相手をしてくれてたという彼女に、感謝こそすれこんな感情を抱くのは間違いなのだと。押し込めるすべを知っている。だから押し込める。
だって、押し込めないと笑えない。
――泣かないで。笑っていて。
もう顔も覚えてない、けれど深く深くに刻まれた、自分たちを生んでくれた女性の声。
――いつでもどこでも、これから先も、笑っていてね。私たちの、大事な子。
真っ赤になって。
冷たくなって。
動かなくなった誰かが、自分たちを抱きしめて、最後に遺した声。
……お母さん。
――もう届かないけど
――……が、いるから
……おかあさん。
――戻っておいで
しあわせな夢を。くれて、去っていった誰かの声。
「――――」
そう思った瞬間。
違う、と。何かが囁いた。
同じモノが今、目の前に在るだろうと。
しあわせは、壊れてなどないだろうと。
だって、変わらないものが、ここには――――
違う、と、自分に云い聞かせる。
同じモノじゃ、ない。
自分たちがこんなに成長したんだから、あの声のひとは、もっと変わってるはず。
違う、と。何かが囁いた。
本当は何も変わってなどいないのではないか、と。
夢だと信じたしあわせは、この夢を壊した先の現実にあると。
――戻っておいで
この声は。
夢から現実に引き戻したのではなく、現実から夢に引き込んだのだ。
そうでなければ。
なぜ、すべてが変わった世界のなかで、唯それだけが変わらぬのか。
――――この声は、――――
……笑っていてね。
ああ、これはお母さん。
ありがとう。まだ、だいじょうぶ……
レックスがいたたまれなさそうに眉根を寄せるのを横に、アティは口の端を持ち上げた。
「うん、ごめんなさい。わたしたち、ちゃんとナップくんたちに授業をしなくちゃいけなかったですね」
彼らに申し訳ない気持ち、彼女らにありがとうという気持ちが混じって、アティの表情はほろ苦い微笑になる。……もうひとつの何かを押し込め、忘れたまま。
それを目にした弟は、怪訝なまなざしで姉を見た。が、今は先にせねばならぬことがある。姉への追及はせず、苦虫を噛み潰した表情のまま、後ろ頭に手をやった。
「不甲斐ないな、俺たち。……こんな先生じゃ、アール投げられるのも当然だよ」
「――――」
投げた、というかけしかけた当人が複雑な表情になる。ことこの件に関しては被害者が加害者をかばうような発言をしてどうするのだ、と、他の人物がいたら指摘したかもしれないが、生憎、その場には誰もいなかった。
はとっくに出かけた頃合いだし、スカーレルとヤードもそれに同行したはずだ。カイルとソノラも同様、今ごろユクレス村に歩いてる途中だろう。
他人という範疇ではないアールたちは、ナップらと一緒に首を傾げるばかり。
リィンバウムの人間をまだよく知らぬ小さな召喚獣たちは、もやもやとした何かを感じるしかない子供たち以上に、そのことを指摘するすべを持たない。
結果、ナップがレックスに感じた違和感はことばにされることもなくなって。
「――本当にごめん」
「ごめんなさい」
子供に向かって深々と頭を下げる大人ふたりへの、当たり前の戸惑いに取って代わられてしまった。
「じゃ、授業はちゃんとやってくれますね」
正体不明の感情をいつまでも抱いておくほど、彼らも器用ではない。
気を取り直したウィルのことばに、ふたりの家庭教師は大きく頷いた。
その直後、
「……う……ん」
「キュっ!」
「あら……? えっと……?」
「おい、アリーゼ……おまえなぁ……」
実にいいタイミングで目を覚ましたアリーゼが、そのことを兄姉につっこまれてうろたえるという、ほのぼのしい光景が展開されることになったのである。
おかげで、このとき感じた違和感も押し込めた何かも、ひとまずは忘れ去られたかのように思われたのだが。
生まれたそれは隠されこそすれ消滅することはないのだということを、まだ彼らは知らずにいるのか実感せずにいるのか。
それさえも――否、まだ何もかも、さだかでないまま。
「……よし! それじゃあ今日は、新しい誓約を結ぶところから始めよう!」
気を取り直すように腕を振り上げたレックスのことばに子供たちは表情を輝かせ、久々に、一同は揃って砂浜へと出かけていったのであった。