砂浜を散歩する当初の予定は、実は、ものの十分と歩かぬうちに崩れ去った。
「! ちょうどよかった一緒に来てくれ!!」
の進んでいた方向から走ってきたレックスが、有無を云わせず腕を掴んで叫んだからだ。
子供たちのことを話す暇もない、切羽詰った様子。
こちらが頷いたのを確認したのかどうか。すぐに、レックスはを引っ張って走り出す。
レックスの身長は、ルヴァイドより低いけれどイオスよりは高い。当然コンパスの差もあって、半ば引きずられる羽目になってしまう。が、彼の剣幕にただごとではないと感じ、は黙って従った。
歩幅で足りないなら歩数で補えばいい。幸い、身軽さには自信があるのだ。
跳ねていては追いつけないと悟ったプニムが、距離を離される前に、大きく飛んでの肩にくっついた。
そのまま、砂浜を走ることしばらく。
自分たちの船からもジャキーニの船からも外れた、あまり人のこない岩場のあたり。釣りのポイントなのだと、いつかレックスが云っていた。そこが見えてきたころ、彼の全力疾走がゆるむ。
「――――、あれ」
それでも腕をひく手は放さぬまま、レックスが進行方向を指差した。
岩場の陰、砂浜がちょっと露呈してるところ。
……そこに倒れてる、人影を。
見て。
「……………………ッ!?」
呼吸さえ、止められたかと思うほどの衝撃。
レックスの手を振り解く。
彼に付き従うだけだった足が、今度は何かの衝動に突き動かされて前に進んだ。弾みで落っこちたプニムが盛大にブーイングしてるが、それさえも耳に入らない。
五感にまわすべき何かが、すべて、四肢と眼にだけ集中している。
「……」
抑え目に、抑え目に。
数日前までそう念じていた少女はいまや、軍人としての身体さばきを遺憾なく発揮して人影のところへ向かう。その背中を見たレックスは、初めて見るの挙動をぽかんとして眺めていた。
――が、はそれに気づくはずもない。ただ一点だけを目指し、分ともかからずそこへと辿り着く。
「イスラさん!!」
砂浜に倒れ伏す、船上で別れたきりだった彼の名を呼んで。
「…………」
陽光を浴びて、深い緑にも見える髪。
伏せられた目は、たしか濃い色だった。
華奢ともいえそうな身体は、だけど、そこに宿るべき意思が目覚めていないせいか、抱え上げるとぐったりとして、予想以上に重い。――そして冷たい。
口元に耳を寄せると、かすかな呼吸の音。
胸元に同じようにして、心臓の鼓動をたしかめる。
双方ともに弱々しいけれど、それは生きている証。
けれど、彼が目を覚ます気配はない。
「イスラさん! イスラさんってば!!」
「……っ、ぅ」
膝の上に抱えあげ、何度か頬を叩いてみても、小さな呻き声がもれるばかり。
追いついてきたレックスが、そっと、の肩に手をおいた。
「あまり刺激しないほうがいい。でもだいじょうぶだよ、きっと衰弱してるだけだと思うから」
「じゃあ、急いで船に」
提案に、けれど、蒼い双眸は賛成の意を示さなかった。
「俺たちじゃ、ろくな手当てもしてあげられないよ。ちょっと遠いけど、ラトリクスまで運ぼうと思うんだ」
ラトリクス?
あの機械たちの街に、それこそ、手当てをするような施設があるんだろうか――そう思って、
「あ」
と得心した。
唐突に、あの“お人形さん”の顔が頭に浮かんだのだ。
従軍看護用機械人形――クノンと名乗った、外見がどことなくトリスに似てた子のことを。
機械の修理を“看護する”とは云わない。融機人であるネスティだって、ロレイラルから召喚したものを直すときは“修理”と云っていた。彼自身に関しては“看護”や“看病”があてはまるのが当然だけど。
となれば、ラトリクスには融機人なり人間なりを看護・治療する施設があるということだ。
うん、とレックスが頷いて、を立たせた。
「さっきまでラトリクスにいてさ、医療施設を見学してたんだ。あそこだったら雑菌とかもいないっていうし、船に運ぶよりずっと安全だと思う」
「そ――そうですね!」
云わんとするところを察し、はレックスの背後にまわり、イスラを背負うのを後押しする。
「よいしょ……っとと。これはさすがに……」
苦笑したレックスのことばが、ふと止まる。
怪訝そうに首を傾げて、彼はを見下ろした。
「なんですか?」
「ん? ――うん、なんだろう。何か聞こえたような」
が、彼の云う“何か”はには聞こえてない。風がそよぐ音とか、鳥が飛びすぎていく羽音とか、さっきから鼓膜を震わせてたのはそんな程度のものばかり。
さっきの自分よろしく首を傾げるを見て、レックスは「気のせいかな」と再度苦笑した。
「それじゃ行こうか」
「はい!」
途中で疲れたら、あたしが交代しますからっ!
とかなんとか意気込んでみたものの、
「……このひとの膝から下が泥まみれになりそうだから、やめようね」
と、とっても優しい笑顔でストップを出されてしまったのだった。
んで、やってきましたラトリクス。
帰っていったレックスがトンボ返りしてきたことに驚いた顔をしたアルディラだったが、彼に背負われたイスラを見て、すぐに状況を察したのだろう。傍に控えていたクノンを呼ぶと、迅速に手当ての準備を始めてくれた。
待つこと、数分もあっただろうか。
メディカルルームとやらの調整を終えたクノンが戻ってきて、レックスに手を差し出した。
「――ではレックス様。患者をお預りします」
「え。君が運ぶの?」
「はい」
ベッドまで運ぶつもりだったらしく、まだ背負ったままでいたレックスの問いに、クノンは相変わらずの無表情で頷く。
「失礼ですが、おふたりとも土汚れが目立ちます。それでメディカルルームに入られますと、室内の消毒・殺菌の手間が余計にかかりますので」
「……う」
「あ……」
出来るだけ距離を短縮しようと、直線コースを突っ走り――つまるところ、道なき道を文字通り切り拓いてきたとレックスは、思わず顔を見合わせた。
そうしている間に、クノンの手がイスラに向けて――文字通り伸びた。
肘のあたりから、にょきーっ、と。
「!?!?!!?」
驚愕のために硬直したふたりを尻目に、クノンはこともなげにイスラをレックスから取り上げる。片手で。そのまま小さく一礼すると、とても人ひとりを片手で抱えているとは思えない、軽くしっかりとした足取りで、扉の向こうに消えていった。
……なんというか、こう、某ケーキ屋のアルバイターさんが空になった食器を盆に乗せて下げていくときの様子、そのままなんですけど。
抱えてるのが人間ってだけで。
そうか……やっぱり、クノンって、クノンなんだなあ。
どことなくトリスと重ねて見てしまっていた部分があって、も、クノンがイスラを運ぶと云ったときには無理じゃないかと思ってしまったけれど。
うん。今見たように、そんな心配全然要らなかった。
自身、トリスより力があると自認はしてるが、クノンみたいに男性ひとりを軽々と片腕で運べるほどの力持ちではない。そも、成人男性であるレックスでさえ、どうにかこうにかおぶってきたのだから。
今さら何を、と云われそうな気がするけれど。
ひとり頷くの前で、アルディラがクスクス笑っている。
「初めて見たのね? どう、驚いたでしょう?」
ええ、そりゃあもう。
何の前触れもなしに人間の腕が伸びたら、驚くしかありませんって。
こくこく頷く客人ふたりを見て、アルディラの笑みがさらに深くなる。
「あの人も、同じように驚いてたわ。人間っておかしなものね、姿形が自分たちと似ているというだけで、その構造さえも同様なのだって思ってしまうんだから」
先入観など持たなければ、妙な予想をすることもなく、そのギャップに惑うこともなかろうに。
アルディラの笑みの理由は、そんなところだろう。
「でも、そういうのがあるから、驚いたりそれを共有して笑ったり出来るんですよ、きっと」
今のアルディラさんや、あたしたちみたいに。
云うと。
ぱちくり、と、アルディラの目が丸くなる。
それから初めて、彼女は自分が笑っていたことに気づいたんだろうか。口元に当てていた手をおろし、まじまじと見つめだした。
そんな彼女を見て、とレックスもまた、ちょっとだけ目を見開いて顔を見合わせた。
何かおかしなこと云いましたっけ?
いや、普通のことじゃないかな。
そんなアイコンタクトを交わしたところに、ふ、と。
アルディラのついたため息が、静まり返った室内に響いた。
「……驚いたり、共有したり、笑ったり……か」
もうずいぶんと、そんなものから遠ざかっていたのね。
自嘲の色が濃く混じった彼女のことばは、それに比例した重みを伴っている。独白めいたそれは他者の干渉を拒んでさえいるようで、とレックスは何も云えぬままアルディラを見た。
長く続くかと思われたそれは、だが、アルディラ自身が動いたことで打ち切られる。
視線を手のひらから持ち上げ、ふたりが所在なさげにしていることに気がついたらしく、「ごめんなさい」と苦笑した。
「思考に没頭すると、なかなか抜け出さないのが癖なのよ。退屈させてしまったかしら」
「あ、いえ。そんな長い時間じゃなかったです」
「うん。わりとすぐだったよな」
だから気にするな――との意をこめたふたりの返答で、苦笑が微笑に変わる。
「そう? 悪いわね、気を遣わせて」
そんなことないです、とが反論しようとするより早く、レックスが笑いながら告げる。
「さっきのほうが、考えるの長かったと思うよ。ほら、俺たちの剣の話をしたとき」
「え―――あ、ああ。そうだったかしら?」
おや。
ふと、は首を傾げた。冷静を地で行きそうなアルディラが、目に見えて動揺した気がしたのだ。
が、それはほんの一瞬で消える。彼女はすぐに、先刻までの表情を取り戻した。
「だって、そんなすごい剣の相談をされるんですもの、考え込んでもしまうというものだわ」
「レックスさん、剣のこと相談したんですか?」
「あ、うん。あの嵐の日にね、真っ白い光の柱が海に出て、島からも見えたらしいんだ。俺たちも当事者だから、それに心当たりがないかって云われて……」
それで、あの海の中、生き延びたければといわれて継承したと思われる剣のことを話したらしい。
「あー……えーと……ソう、そウいえばソノラも云ってましタ、島から見えたっていうナら、相当大きかったんですネ」
実は真犯人と思われるとしては、そうそらっとぼけるしかない。しどもどなことばに追及がかかるかと思ったが、そんなことにはならなかった。
ちょうどそこに、さっきイスラを運んでいったクノンが戻ってきたのである。
思わず話を打ち止めし、レックスとふたり揃って彼女の腕を凝視。
……左右同じ長さである。さっき伸びた光景が、まるで一瞬の夢のようだ。夢じゃないのは判ってるけど。
が、クノンはそんなこちらをちらりと一瞥しただけで、イスラの容態の説明を始めた。
「外傷は特にありません。船から投げされたのだろうとのことですが、気絶していて水も飲んでいないようです。難破したのが数日前、今日まで海を漂流し、体力が著しく低下しているだけだと思われます」
適切な休養と栄養を与えれば、数日のうちに意識は回復するでしょう。
そう淡々と告げるクノンのことばを聞いて、ほう、と胸のなかの何かがとれるのを感じた。
安堵するの背を、レックスが、ぽんと叩く。
「よかったね、。友達が無事で」
「あら、知り合いだったの?」
まるで自分のことのように嬉しがっているレックスの科白をつかまえて、アルディラが問うた。
が、問われたレックスも詳しいことを知っているわけではない。
だよね? と確かめるように疑問符添えて、を見下ろした。
「はい」
ひとつ頷いて、
「友達ってほど、付き合いがあったわけじゃないですけど」
と付け加える。
それから事情の説明。
「船に乗る前、宿を一晩お世話になったんです。そしたら同じ船に乗ってたらしくて、顔合わせて驚いてたら騒動と嵐が起きちゃって」
それで離れ離れになって、本当は、もうダメだろうかとも思っていた。
あの船にいた顔見知りのなかで、唯一、同じ日に島に流れ着かなかったひと。もう何日も経った最近では、そろそろ諦めが首をもたげようとしてたところだったのだ。
ところがどうだ、それがどっこい、今ごろになって無事――かどうかギリギリの線ではあるだろうが――な姿が見れて、ちゃんと復活する目途も立って。これで安心しないほうが変というもの。
「納得しました」
「へ?」
唐突に、クノンが頷いた。
イスラの容態について説明を終えたあと、黙って控えていた彼女のそれに、少し驚いて振り返る。
だが次の瞬間、彼女はにそれ以上の驚愕を提供してくれた。
いや。本人にそのつもりはないのだろう。特に表情を変えもせず、いつもの調子で淡々と、
「やはり、様が嘘つきなのですね」
「なんで!?」
――ラトリクスの一室が、期せずして少女の絶叫を乱反響させまくったのは、まあ、当然の帰結と云えるだろう。
思わず繰り出したの裏拳は、互いの距離もあって、空しく空中を薙いだだけだったが。
突然の、実に失礼な云いがかりに、クノンへくってかかろうとしたは、あわてて背後にまわったレックスの手で止められた。
ちくしょう、成人男性の腕力にはかないません。今度の目標、ルヴァイド様に腕相撲で勝つっていうのを追加しようかな。――やめておけ、と真顔で制止する養父の顔が浮かんだが、即座に黙殺した。
うーっとうなるを見るアルディラの目が、なんだか哀れんでいるような、胡散臭いものを見てるような……居心地悪いです、お姉さん。
けれども、アルディラはすぐクノンを振り返って、
「どういうこと?」
「さきほど運搬していた折、患者が様のことを嘘つきと何度か繰り返しておりましたので。同名の知人かと思いましたが、状況を考えるに、これはこちらの様のことかと」
「だー! 嘘つきも何も、あたしとイスラは一晩の付き合いがあった程度で嘘ついたりとかそんな深い仲じゃなもごふ」
必死に自らの潔白を証明しようと叫ぶ口を、背後からレックスがふさぐ。
「……。云いたいことは判るんだけど、なんだかすごく危ないから。その発言」
潔白どころか泥沼になるし。
「が嘘つくような子じゃないのは判ってるつもりだから、ちょっと落ち着こう。な?」
「ううぅ〜〜〜〜」
羽交い絞めを解いたレックスが半泣きのの前にまわり、頭を優しく撫でて諭す。
蒼い双眸がこちらを慰めるように細められ、群青のマフラーに隠れがちな口元が、ゆるやかなカーブを描いて持ち上げられていた。
……もし、マグナがもちょっと大人になったら、こんな感じだろうか。まだまだわんこな彼だけど、未来の希望的予測なんてたててみる。
ともあれ、そんな表情を見ては、いつまでも嘆いていられない。
うん、とひとつ頷いて、叫んだせいでちょっとひりひりしてる喉を宥める。深呼吸。噴出していた感情が、それで一緒に引っ込んでくれた。
そうこうしてるの前で、レックスがフォローしてくれている。
「何かの間違いじゃないかな。は、誰かに嘘をつくような子じゃないよ。俺が保証する」
――――――ついてますが。思いっきし。
心臓に、ぐっさり刃が突き刺さる。
明らかにしちゃいけないことだからついてる嘘だけど、こうも深く信用してくれてると、押し込めている罪悪感が割増で迫り来るのだ。
サイジェントではそんなに考えることもなかったのに、どうして――自問するまでもない。
バルレルがいないから。
このことを、共有する相手がいないから。
ひとり――だから。
いじけてるつもりなんかない。
膝抱えて丸まってるつもりなんかない。
今この時代にいるあたしは、あたしなりに全力投球しようって決めたし、こんなの考える暇もないくらい開き直ってやるって思った。
けど、やっぱり身につまされる。
後ろめたくなってしまう。
誰でもいい。
この時代にひとりでいい、このことを共有してくれる人が欲しい。
……きっと、それは叶わないけど。
ちょっと考えるような素振りをして、アルディラが頷いた。
「そうね――少なくとも、誰かを貶めたり保身のためだけに嘘をつくような人は、貴方たちのなかにはいないと思うけれど」
でなければ、あの夜帝国軍が襲ってきたときに、駆けつけてきたりはしなかったでしょうし。
そのことばに、思考が自戒から逸れた。
旧王国だからといちゃもんつけてきた、刺青男の顔を思い出してしまったせいだ。……同じ島にいるんだから、もしどっかで逢ったら、また問答無用で襲いかかって来るに違いない。激情だけで仕掛けてくる分あしらいやすいが、気力体力共、必要以上に削がれる相手だと思う。
「クノンの聞き間違いということはまずありえないから、彼が何か勘違いしてるんじゃないかしら。起きたら訊いてみるといいわ」
きっと、それが一番早い解決よ。
「……はい」
「申し訳ありません、様。不用意な言動で、混乱させてしまいました」
悄然と頷くに、クノンが深々と頭を下げる。
「え!? いやいや全然! うん、クノンは聞こえたことそのまま云っただけだし!?」
なので、逆にこちらが大慌て。手をぶんぶん振って否定するを、クノンが――心なしかもしれないけど――首を傾げて、眺めていた。