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【girl meets boy】

- ここにいるよ -



「事情はよく判らないけど、あんまりそうしてると、通行人に蹴られるよ」
 そう云いながら、イスラがを助け起こす。さっきと立場が逆。
 さすがに蹴られるのはご遠慮願いたく、はいそいそと身体を起こした。
 ……もっとも、かなりの精神的重労働ではあったけど。
 いっそこのままくたばって、寝て、目を開ければすべてが夢だったならどんなにいいだろう。
 叶いもしないそんな夢想にすがりたくなる気持ちを振り払い、それでも立ち上がることまでは出来ずに、ぺったり床に腰を落としたまま。

「“”です」
「……君の名前?」

 はい。

 さっきのイスラの名乗りに応えるため、はそう告げて、頷いた。
 が。
「嘘だね?」
「……………………」
 なんでそーあっさり見透かされますかね。
 思わずイスラを凝視したものの、変わらず彼はにこにこ笑っている。
 嘘つかれたって判ってる割に、その笑顔はどういうことだ。
「ああ、やっぱり」
 名乗る前にわざわざ年号とかたしかめるなんて、裏があるって云ってるも同然だよ。
 最初からたしかめずに、用心してそっちの方で名乗ってたら、僕も信じたけど。
 などとイスラは付け加えるが、果たして本当にそうなっていたのか、今となっては としても疑わしい。

 食えない人だ、この兄さん。

 病弱少年という第一印象を撤回し、そう思わせるに充分だった。今のやりとりは。
 でも、それこそにだって事情がある。
 “”がリィンバウムに訪れるのは、これよりはるか先の未来だ。
 イスラの告げた年号がたしかなら、自分の仲間たちだってまだ生まれてるかどーかっていう時代である。
 ……今デグレアに行けば、もしかしたらご幼少のルヴァイド様に逢えますか……?
 などと余計な考えも浮かぶが、理性で止めた。そんなことしたら、問答無用で歴史が変わりかねない。
 そんなことがハッキリ判ってるのに、嘘がばれたからっておめおめと本名が名乗れるもんか。
 つーか、名乗るわけにはいかないんですよ。
「でも、“”ってことでお願いします」
「いいよ。本当の名前を教えてくれたら、“”ってことにしてあげる」
「…………」

 待てやコラ。

 じろり。
 にこにこ。
 じっとり。
 にっこにこ。
 じーーーーっとり。
 にこにこにこにこにこ。

 は渾身の力を込めて睨みつけているというのに、イスラの笑顔は崩れない。
 いつだったか、どっかのポエマーな悪魔が『 さんの微笑みは春の野のようですねえ』とのたまっていたが、目の前の兄さんの笑みはそれ以上だ。
 もっと儚くて今にも消えそうな淡雪、だけども剥がれ落ちない絶対凍土。ふたつの印象。
 このままじゃ、たぶん根負けする。
「――ふ」
「?」
 不意に俯いて、肩を震わせたを、不思議そうな視線が見下ろす。

「ふふふふふふふふ」

「……どうしたの?」

 不気味に笑い出してみれば、さすがに不審に思ったらしく、こちらを覗き込む気配。
 そこですかさず、は立ち上がる。
「うわッ……!?」
 どさくさに紛れて頭突きもかましてやろうかと思ったが、イスラはのけぞってそれを躱した。
 かなり不意打ち気味だったはずだが、なかなかの反射神経。
 だが、さぞや驚いてるだろう彼の表情をたしかめることもせず、 はそのまま走り出す。

「秘奥義・三十六計!」

 いやソレ、奥義じゃねえ。

 どっかの魔公子でもいてくれたら、そんなツッコミがもらえただろう。
 だが現実問題として、この時代では、は一人きりである。
 いろいろ機転の利く彼とはぐれた以上、『突っ走るしか能がないのか』と評された己だけでこの場を乗り切らねばならないのだ。
 まあつまり、何が云いたいのかというと。

 なりふりかまっていられるか、  である。

 そんなわりに、走って逃げるしかないというのが、いささか情けなくもあるが、さっき発作が起きたばかりの第一印象病弱少年のイスラでは、たぶん、全力疾走の には追いつけまい。
 仮に追いかけてきたとしても、まいて逃げ切るだけの自信は充分ある。

 ――あった、

「――――ま――――」

 はず、


「待って……ッ!」


 ……だった。のに。


「……っ!?」


 けして大きくないはずの、その声は。
 まるで氷の刃のように、の耳に入って、脳を刺激して、心臓に突き立って。
 ――ひどく。痛くて。辛くて。哀しくて。

 彼女の足を、その場に、縫いつけた。


 そうして振り返ったとき、視界に入ったのは。
 急に走り出そうとしたらしく、前に一歩踏み出した体勢を崩し、倒れ伏すイスラの姿。

「イスラさんッ!」

 それこそ。
 戦闘中もかくやという瞬発力を発揮して、 はイスラのもとへ駆け寄った。
 それでも間に合わないと悟るや、スライディング。身体や腕を目一杯伸ばしてようやっと、地面に激突する直前でクッションになること成功。
「う……っ」
 背中に衝撃が走るが、予想していたより重いものではなかった。
 ――それが、余計に不安をかきたてる。
 起き上がろうとしないのか、出来ないのか、判らないままにイスラの下から這い出て、抱き起こす。
 それから……絶句した。

 顔色が悪い、とか、血の気がない、とかいう騒ぎじゃない。
 仰向けにしたイスラの貌は、それこそ死人と云っても過言でないくらいに、白い。
 胸に耳を押し当てれば、かろうじて心臓が動いているのは判った。だけどそれにしたって、かなり弱い。
「イスラさん! イスラさんっ!!」
「……っ、……っ」
 しかめられた眉と、浮かぶ脂汗が、相当な苦痛を に知らしめる。
 それでもかすかに動く唇は、いったい何を告げようとしているのか。
 それを問う前に、答えは出る。

「……行か、な…………いで……っ」

 ――強く。強く。
 イスラの手が、の腕を掴んでいた。
 貌と同じほど白く変色した指と、腕の血行さえ止められてそうな痛みが、そこに込められた力を見せつける。
 でも。
 たぶん、それは、に向けてのものじゃないんだろう。
 それくらい、判る。
 心的外傷。
 そんな単語が脳裏をよぎった。

 置いて、いかれたことがあるんだろうか。このひとは。
 独りぼっちで、寂しかった頃があるんだろうか?

 世界に自分がただ独りなのだと。――そう感じたことが、あるんだろうか。

 そう考えることは、ひどく痛かった。
 苦痛に歪むイスラの表情、声も出ないのに同じことばを繰り返す彼の唇と相俟って、ズキズキと の心臓を抉る。

 ……独りじゃ、ないよ。
 誰も、独りには、ならないし、なれないよ。

 だって、あたしは、知ってる。
 あの人の力を垣間見て、預かって、受け取ったから。
 誓約者の誕生を、この目で見たから。
 ――あたしは知ってる。
 どこか意識の奥深く、世界の一番奥深く、すべての命とすべての意識は、最奥の奥で繋がっている。

 だから、
「だいじょうぶ……!」
 ぎゅ、と、今にも冷え切ろうとしているその身体を抱きしめた。
 自分の体温が伝わればいい。
 あっためきることが出来なくても、ここに自分がいることが、この人に伝わればいい。

「だいじょうぶっ……だいじょうぶだから!」
「行……「行かないからっ!」

 ショック死だかなんだか知らないけど、こんなところで見も知らぬ人間に最期を看取られるっていうのはアレだけど。
 初対面だし名前しか知らないし、あまつさえあたしは偽名しか名乗ってないけど。
 おまけにもしかしたら、追いかけようとしたのがこんな発作の原因かもしれなくて、となると間接的にでもあたしにも責任があるわけで!
 っていうかそういう義務義理はおいといて。

 そうだ。
 それでも。

「独りじゃない! あたしがここにいる!」

 過去に何があったか知らないけど、最期にこんな苦しみを抱えたままで、終わらせていいはずがない。

 ――トクン

「……?」

 ――ドクン……

 それは、鼓動。
 どこからとなく……いや、今、の腕のなかの、イスラから響く鼓動。
 だけど、彼のものではない鼓動。
 そして、彼のものであろう鼓動。

 ――トクン、ドクン

「……何?」


 ――ドクン!

「――――ッ!?」

 黒い。
 光。

 いつか見た黒い影のような、禍々しい光が、イスラから出現して彼を飲み込んだ。


 トクン

 いざとなったら心臓マッサージ。
 そう決めて、すでに胸においていた手のひらに、強い鼓動が響いた。

 ――ドクン
 ――ドクン、ドクン

 ドクン、ドクン、ドクン……

 だんだん強さを増す、心臓の脈動。……イスラから響く、彼の鼓動。
 それに比例して、真っ白になっていたイスラの顔に朱が指していく。
 荒かった呼吸が落ち着いて、苦しげだった表情も薄らいで。
 一時は本当に死ぬのかと思った人間の、なんだかえらく派手な復活を、 は呆然としたまま見守った。

「……痛」

 気が抜けたところで、ふと、まだ掴まれたままの腕の鈍痛に意識が向いた。
 イスラの顔色などからして、楽にはなっているんだろうに、掴む手のひらだけは相変わらず白い。
 それに伴う痛みも、そうとうなものだ。
 血行障害起こしても困るなあ、と、やっと普段の自分の思考が生まれたところで、 はイスラの頬を軽く叩いてみた。
「イスラさん、イスラさん」 
 落ち着いたところで、腕、放していただけると助かります。

 ――ぎゅ。

「ヲイ。」
「……いるって云った」

 那智の腕を解放したイスラの手は、今度はそのまま、 の身体を丸ごと抱きこんだ。
 だが、とりあえず耳元でささやかれることばの意味がつかめずに、 は首をかしげるばかり。
 イオス曰くの『すきんしっぷ』で慣れていた、という説もあったりするが。

「いる、って、君が云った」
「……。云いましたね」

 ぴこーんぴこーん。

 まだリィンバウムに来る前、好きだった変身ヒーローのカラータイマーが点滅する幻影が見えた。
 それは、イコール危機。
「何はともあれ元気になってよかったですねそれじゃそーいうことであたしはいかねばなりませんさよならばいばいふぉーえばー」
 だから放せこんちくしょう。
 さっきまでの痛々しさはとりあえず思考の隅に追いやって、 はイスラの腕のなか、じたばたじたばた身じろぎしきり。

「……行かないって云った」
 だいじょうぶだ、って。
 ここにいる、って。
 君の声が聞こえた。
「心全部で、君が思ってたのが聞こえた」
 独りじゃない。君がここにいるって。

「君が、云ってくれた――」

 危機感、大当たり。……でした。
 逃がさないとばかりに力いっぱい抱きしめて、真顔で覗き込むイスラに、結局 は根負けしてしまったのである。
 ――嗚呼、なんでこういうときに、適切なツッコミ役がいてくれないんだろう?

 当初浮かべてた涙はお空の彼方、は、別の意味で途方に暮れてしまったのだった。


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