手に入れた情報は、たかだか幾つもない。
でもそれらは確実に、にとって死活問題だった。
第一に、この場所。
海賊の彼らが嘘を云ったのでなければ、三国中よりによって一度も訪れたことのない帝国領。
第ニに、この状態。
ひとりきり。
――独りきり、なのだ。
こういった状況でひたすら頼りになる――実際、とても頼りになった――魔公子は、今はいない。
自分の不甲斐なさが招いたこととはいえ、バルレルとはぐれてしまったのだ。
いや、彼はだいじょうぶだろうと思う。
と同じようにあの空間のなかを彷徨ったとしても、彼は生きてきた時間が長い。空間にいたときの口ぶりから察するに、あそこに対しての経験もあるんだろう。その分、糸は見つけやすいはずだ。
だが助けは期待できない。
いくら彼でも、手がかりのない状態からを発見することは難しいだろうから。自分でなんとか……するしかない。それがとんでもなく困難でも、どうにかして手段を探すしかない。
そう思って幾つかの時間を彷徨って、辿り着いたのがこの港。
――そうしてそれはよいとしても、第三の問題がある。
どう切り出せばいいのか判らないまま、結局、ヤードたちには訊くに訊けなかった問題が。
そう。
今はいったい、何年の何月なのか――?
無事フォックスハウンドとやらを見つけ、船を手配してもらい、聖王都に帰れたとしても。
何十年も何百年も時代がズレてたりなんかしたら、うかつに知り合いを捜して歩くことさえ出来ない。というより自殺行為だ。
タイムパラドックスなーんて起こしたら、存在抹消の可能性さえあるんですヨ?
いままでだって、自分、結構やばいことしてたでしょ?
……だっていうのに。
この時間に飛ばされてきてからこっち、滞在時間は過去最高を更新している。
そのうちまたあっちに引っ張られるのかもしれないが、それはないような気がする。
なにしろ、ここに出てこれたのはヤードの召喚術によって、なのだ。
つまり、あれだ。
時間を彷徨う迷子状態は終わり、この時代で存在が固定されてしまった――と、そういうことなのかもしれない。
……八方塞とは、まさにこのこと。
ルヴァイド様。イオス、バルレル、トリス、マグナ。……みんな。
あたしはいったい、これからどーすればいいんでしょう……?
途方に暮れまくったの耳に、その声が届いたのはそんなときだった。
「……どうかしたのかい?」
さっきの叫びを見ていたのか、かなり戸惑いの混じったことば。
自分に向けられたと判るそれに、緩慢な動作では振り返る。
身体を動かすのさえ億劫だったが、呼びかけに応えないのは失礼だという理性の声に従って、声の主を視界におさめて。
そうして、の双眸に映った相手は一人の少年と――
「げほ。」
「っていきなり吐血かいッ!」
彼の吐き出した、真っ赤な血でありましたとさ。
…………とりあえず助け起こし、水飲み場へ連行し、背中をさすること少々。
ようやく発作が落ち着いたらしく、少年は、手を真っ赤に染める血を洗い流している。
当のはというと、通りかかった水夫から柄つきブラシを借りて、床に落ちた分の血をこすり落とすのに一生懸命だったりした。
「……手伝おうか?」
「結構です」
下手に働かせて、また吐血されてはたまったもんじゃない。
いいから大人しく座ってろ、と、立ち上がった少年にブラシを突きつけて座らせて、掃除再開。
「手際がいいねえ、姉ちゃん」
あはははは。
ブラシを貸してくれた水夫が、豪快に笑ってそう云った。
嬉しい反面少し複雑で、はあいまいに笑って返す。
そして再び、ごしごしごし。
赤がかなり薄れて、もうこれ以上はムリだろうってところで、ようやくお掃除終了。
がんばったご褒美な、という水夫からありがたく飲み物を頂いて、本当に大人しく座っていた少年のところへと歩を進めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
少年は座ったまま、は立ったまま、飲み物をそれぞれ口に運ぶ。
よい具合に冷えた液体が、喉を通って胃の腑に落ちた。
……労働の汗って尊いなァ。
サイジェントでの騒動の名残やら僅か彷徨った時間旅行の名残やら抜けやらぬまま、いきなり日常の仕事に立ち戻ったおかげで、そんな間の抜けた感想までわいてくる始末。
「――ありがとう」
ぐい、とカップをあおったところに、再び少年の声。
飲み物のことじゃなく、さっきの吐血騒動のことを云ってるのだと察するのは、難しくない。
だもんではカップを口から離し、改めて少年を見下ろした。
少年少年云ってはいるが、年のころはと同じかもう少し上くらいだろう。
光の具合で深い緑にも見える黒髪は、とっても艶やか。
少し翳りのある微笑なんか、そのスジのお姉様とかには大好評になりそうだ。ってどのスジだか。
なんで、こう、世の中には女性顔負けの美人な男が多いかな。
どっかの金髪美白槍使いを思い出し、思わず遠い目になった
だった。
「どうかした?」
「……いえちょっと」
「……?」
沈黙は、どちらかというと、説明を求めるものらしい。
真っ直ぐに向けられる彼の視線は、あいまいな云い逃れを許してくれそうにない。
「まあその……美人だなぁと」
ちなみにそう云うと、イオスはちょっぴり不機嫌な顔になる。
男が美人だと云われても嬉しくない、というのが彼の自論だ。っていうか当然か。
美白だなあ、と云うと斬りかかってくるのはバノッサだ。
彼は彼で気にしてるらしい。
蛇足だが、一応ネスティも美白大会には間違いなくエントリーされるだろう。
いや、そんな大会開かれることもないだろうが。
――とまあ、目の前の少年に対しても、そんな反応を
は予想したのだが。
「あはははははっ」
実に軽快な笑い声が返ってきたもので、逆に驚いてしまった。
「面白いこと云うんだね、君」
「そ、そーですか?」
「うん。面白いよ」
そう力説されても、嬉しがっていいのかどうか、微妙なトコロなんですが。
なんとも云えなくなってしまったを、少年は手招いた。
隣に座れということなんだろうか。なんだろうな。
適当に解釈して、はすとんと腰を下ろす。
「僕はイスラ。君は?」
美人は“イ”で始まる法則でもあるんですか、居もしないカミサマ。
それはおいといて、
「あたしは――」
ピシ。
つい名乗ろうとしたは、音高くそのまま固まった。
「……?」
「あの、名乗る前にひとつだけお訊きしたいことが!」
「え? うん、僕で答えられることなら」
掴みかからんばかりのの勢いに、イスラと名乗った少年もさすがに退き気味。
が、先ほどの件もあってか、一応こちらの要望には応えてくれそうだ。
それをいいことに、はますますイスラに詰め寄る。
「今何年ですかっ!?」
それは、本当に小さな希望だった。
時代によっては偽名で通さなくてはならない、そんな事情もあるけれど。
だったら最初から、“”で名乗ればいいだけの話なんだけど。
それでも、やっぱり。
いつかどこかで、たしかめなくちゃいけないことだ。
それに、もしかしたらもしかしたら。
本当の名前で名乗っても問題のない、年号かもしれないし。
もしかしたら――これ以上悩まなくてすむかもしれないし。
……それは。
ほんのささやか、かつ、切実な希望だった。が。
「……え? 年号?」
こくこくこく。
さすがに、今度はイスラの目も丸くなる。
年号だとかそんなの、普通他人に確かめるようなもんじゃない、一種常識だ。
真顔でそういうこと訊かれては、一瞬相手の頭の中身も疑おうってもんである。
それでもイスラは、しばらく間を置いたものの、律儀に
の問いに答えてくれた。
――のは、実にありがたかったのだが。
「・・・だいじょうぶ?」
ずぶずぶずぶ。
軟体動物よろしく地面に撃沈したを、心配そうに見下ろすイスラの視線が感じられる。
平気です、と答えたいが、そんな気力さえ今の
には残っていなかった。
代わりにつぶやいたことはというと、
「……やっぱり、青い海のばかやろー……」
とまあ、現状把握もへったくれもない、ただの八つ当たり的発言だったり、した。