狭間の領域探検の許可をもらい、マルルゥの先導で奥へと向かう一行を見送って、フレイズはファルゼンに呼びかける。
「ファルゼン様」
「ナンダ……?」
瞑想の祠へ戻ろうと、踵を返した白い鎧。
その姿を視界におさめ、フレイズは問う。
「先日の嵐の折――集いの泉にいらしたときに、海に、白い炎の柱をご覧になった、そう仰っていましたね」
「アア……」
「…………」
「――フレイズ?」
抑揚のない、感情を抑えた声には、けれどたしかに傍らの天使を案ずる響きが混じっている。
振り向いたファルゼンの兜に焦点を当て、フレイズは、僅かに口許を持ち上げて見せた。
「いえ。なんでもありません……」
「……ソレナラバ……イイノダガ……」
「ご安心下さい。少なくとも、彼女が悪魔ではないことははっきりしましたから。……無用な心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
ゆっくりと歩いていたつもりだったが、気づけば、彼らの前には瞑想の祠が眼前に出現していた。
何をするでもなくついてきていたポワソたちが、それをきっかけに、三々五々と散っていく。
彼らは、祠に入れるのが護人とその副官だけであることを知っているのだ。
だから、その祠にやってきた客人が気になって、彼女を遠巻きに眺めていたのだろう。
「――引きこもっているうちに、鈍くなってしまったかもしれませんね」
彼らに気づけたことが、まさか自分に気づけなかったとは。
そんな自嘲の念をこめたフレイズの独り言に、けれど、少女の声が応えた。
「――そんなことないわよ。私は、あの人に悪魔の気配があるってことさえ気づかなかったんだから」
「ファリエル様」
瞑想の祠の奥。
立ち止まったファルゼンの鎧の肩に、どこから出現したのだろう――ひとりの少女が腰かけていた。
うっすらと身体を覆う燐光と、少し透けたその在り様は、彼女が現し身を持たないことを示している。
唐突なその出現に、けれどもフレイズは驚くこともなく、また応じる。
「ええ……ひどく巧妙に織り込まれていましたから。違和感がなければ、私も気づかなかったかもしれません」
「違和感?」
少女が首を傾げる。
年のころは、先ほど悪魔呼ばわりされて途方に暮れていた、赤い髪の少女――と同じくらいか、少し上。
銀色のやわらかな髪を丸めてまとめ、女性らしいシルエットの服をまとった少女は、ふわりと地に下りた。
「友人の護衛獣とやらの、悪戯か何かは判りませんが――」
そう前置きして、フレイズは告げる。
「悪魔にしては珍しい、護りの術であることがひとつ」
「めずらしいの?」
「ええ。そもそも、悪魔というのは非常に攻撃的な種族ですからね。自らはともかく、他者に護法を用いることはまずないと思っていいんです」
もっとも、それだけだったら、まさか悪魔のものとは気づかず、あまり見ない術だとしか思わなかったでしょうけど。
「……それじゃあ、ふたつめは?」
彼を見上げる少女の問いに、
「ほころびです」
そう、フレイズは応じた。
ほころび? 小さな唇を動かして復唱する少女に、こくりと頷いてみせる。
「堅牢な術に見えましたが――実際そのとおりなのですが、あまりの密度故でしょうか、小さなほころびが生まれていました。そこから漏れる悪魔の気配が、私にそう思わせたそもそもの発端だったんです」
「それって……術が解けてしまったら、あの人は護りを失ってしまうの?」
「……どうでしょう。どうも、あの術は護りを兼ねていますが、護りが主目的ではないように思えるのです」
それが何なのか、私には、判りませんが――
つぶやいて。
ふ、とフレイズは微笑した。
「ファリエル様。ともあれ、我々の迎え入れた客人は、少なくとも害はもたらさないように思います」
今は、それだけで納得しておくことにしましょう。
他のことについては、おいおい、判明させていけばいい。
「……」
そうだね、と、少女もつぶやく。
フレイズの笑みに応えるように、彼女もまた、微笑んだ。
瞑想の祠で、そんな穏やかな会話が繰り広げられているころ。
マルルゥ率いる客人一行は、またしても、途方に暮れていた。
人気のない集落をぐるりと廻ってやってきたのは、外れにある“双子水晶”と呼ばれる結晶体が大量に見られる広場。
ひときわ大きな結晶が、まるでテーブルみたいに広がっており、周囲には文字通りの水晶が山と存在し、あえかな灯りを生み出していた。
面白いのは、水晶たちは必ず、同じ形のものがふたつセットで一組だいうことだ。
このあたりが、“双子水晶”の名の由来なのかもしれない。
で。
今、たちの目の前には、ふたり一組のアティがいたりした。
「いいかげんにしてください!」
「イイカゲンニシテクダサイ!」
「どうして、わたしの真似をするんですか!?」
「ドウシテ、ワタシノマネヲスルンデスカ!?」
「いや、あのさ。とりあえず、ふたりとも落ち着いて……」
「レックス! わたしが本当のアティです、間違えないでね!?」
「れっくす! ワタシガホントウノあてぃデス、マチガエナイデネ!?」
「お願いだから、ふたりとも一旦黙ってくれーっ!」
「…………」
まるでステレオ多重放送だ。ここにそんなものはないけれど。
「……どうしましょうか」
「どうしましょうねえ」
ふたりのアティに挟まれて、大ピーンチ。
そんなレックスの背中を見つつ、とヤードは途方に暮れていた。
マルルゥはどうしてるかというと、最初にどこからともなくもうひとりのアティが現れた瞬間、「あれ? あれれ? 女先生さんがふたりですよ?」と、パニック起こしてふらふら地面に落ちてしまった。
あえなく気絶している彼女を頭に乗っけたプニムが、少し離れた場所から騒動を見守っている。
さっきからつづく、アティとアティのやりとりに飽きてきたのか、うつらうつらと鼻ちょうちん。ちくしょううらやましい。
「でもまあ……判りやすく色合いが反転してるあたり、笑えるっちゃあ笑えますね」
の云うとおり。
本来のアティは、赤い髪に赤い服。蒼い眼。
今出てきたアティは、青い髪に青い服。赤い眼。
「ええ。声も違いますし、間違いようもないと思うんですけど……レックスさんもアティさんも、相当ひどいパニック状態ですね」
唐突に、自分――もしくは身内とそっくりな姿が現れて、云うことやること真似されてしまえば、さもありなん。
とはいえ、下手に手を出したら、今度はこっちがあの偽アティの餌食になりそうだし。
とりあえず、レックスに落ち着いてもらうのが先だろうか。
ちらりと目と目を見交わして、とヤードはうなずいた。
ヤードが、自分では用のないロレイラルへ通じるサモナイト石を懐から取り出して、に渡す。
はそれを受け取って、頭上に大きく振りかぶる。
秘奥義・落ち着かせるには実力行使!
……だが、その秘奥義が発動される瞬間は、残念ながらこなかった。
がサモナイト石を振りかぶったと同時、頭上から羽ばたき音が聞こえて。それと同時、
「マネマネ師匠! 何をしているんです!!」
と、つい先刻にケンカを売ってくれた某天使さんの声が、やっぱり頭上から降ってきたからである。
「……まったく、申し訳ない。私の早とちりのみならず、マネマネ師匠までもがご迷惑をおかけして」
「いえ、お気になさらず。なんか、レックスさんたち楽しんでますから」
フレイズもが混じった騒動の現場にて、彼の出現から数分後。
ひとしきりその場を騒がせた偽アティの正体が判明したことで、一行はようやく落ち着きを取り戻した。
マネマネ師匠、と、人は呼んでいるらしい。
逢う人逢う人の姿を映しとり、その行動を真似て遊ぶ謎のひと。
幽霊なのか、天使か精霊なのか。はたまた、もっと別の何かか。訊いたけど、フレイズは難しい顔してかぶりを振るばかりで、答えてくれなかった。
判ったのは、彼(?)が無類の悪戯好きだということ。――さきほどのアティ騒動で、それはよくよく実感。
だが、その混乱も今は終わった。
現在、彼らはステージ状の水晶の上で、狭間の領域の精霊たち相手にマネマネショーを展開中だ。
なんでも、マネマネ師匠が踊ってみせるのを、一挙手一投足間違えずに真似できれば、真似した側――今踊ってるのはレックス――の勝ちらしい。
物真似道とか云ってるが、あれは本当にそういう修行なんだろうか。ただの遊びにしか見えないが。
「それにしても、幽玄を思わせる光景ですね」
ショーの展開されている賑やかな空間から目を転じれば、風景は一転して静かなものだ。
元々、これが、狭間の領域の本来の在り様なのだろう。
しん、と静まり返った、ほのかな灯りの満たす空間。ところどころにたゆたう光は、魂なのだろうか。
「そこかしこに、自力で発光しているものがありますが……あれも水晶の一種ですか?」
「いいえ、あれは貴霊石といいます。サプレスの者が発する霊気が、結晶化したものですよ」
「……貴霊石……?」
ヤードとフレイズの会話を耳にして、は、思わずそれを反芻していた。
記憶の一部に、貴霊石、という固有名詞が引っかかったのだ。
そう遠い日に聞いたものではないような――つい、さいきん。そんな感じ。
「ええ、そうです」
にこり、フレイズが笑いかけてくれる。さっきまでの敵意が、本当に嘘のようだ。
「サプレスには、あちこちにありますよ。人間のつくる建物よりももっと大きな結晶でさえ、稀ではありません」
この領域に存在する貴霊石も、長い長い年月をかけて、ここまで成長したのです。
フレイズの視線を追って、も、改めて貴霊石を双眸に映した。
無色透明かと思われたそれは、木々の間からうっすらこぼれてくる陽光と、時折吹き抜ける風の具合で、きらきらと色とりどりに輝く。
紫、蒼、虹色――様々に。
引っかかりを感じた記憶は、その輝きへの感嘆によって、あっさり深部へ押し込められた。
「きれいですねー……」
「ええ。この光景は、我々も気に入っています」
遠きサプレスの地を思い起こさせてくれる、数少ないものですからね。
そうつぶやいたフレイズに、とヤードは何も云わなかった。
いや、云えなかった。
微笑みこそ消さなかったものの、彼のまとう雰囲気に混じる寂寥感に、気づいてしまったせいだった。