甲板に出ると同時、林のなかを歩いていたときとは違う風が、髪をなぶっていった。
まだ湿り気の残った髪は、だけど、そう易々とすべて持ち上げられたりしない。
それでもなんとなく手で押さえると、ひんやりした感触が手のひらに伝わる。
が出るまで扉を押さえててくれたレックスが、後ろ手にそれを閉める。
「アティは、覚えてないみたいなんだ」
「覚えてない?」
ことばに重きを置く理由が、いきなり記憶障害?
振り返ったからは、レックスの表情は見えない。ちょうど影の部分で、月明かりも彼のところまでは届いていないのだ。
「“おかあさん”のこと」
「…………」
俺は……覚えてるけど。
硬直したを見つめて、レックスが微笑む気配。
身体は固まっていても、脳みそまで凍りついたわけではない。
思考回路をフルスピードで回転させて、は、なんとかことばを舌に乗っける。
「……えっと」
だけど、そこにレックスのことばがかぶさった。
細かいところまで覚えてるわけじゃないんだけど、と前置きして、
「小さい頃に、俺たちを守ってくれた人がいた」
「…………」
「その人のことを、俺たち、“おかあさん”って呼んでた。本当の両親は、そのちょっと前に死んでて」
「…………」
「俺たち、両親が死んだってことなかなか認めきれなくて――でも、“おかあさん”や村の人たちが、ずっと俺たちに話しかけててくれたから、ちゃんと見ててくれるって判ったから、心が壊れないんで済んだと思ってる」
だから思うんだ。ことばって本当に、すごい力を持ってるんだ、って。
穏やかに語をつむいでいたレックスが、ゆっくりと扉から背を離した。
進み出る彼の赤い髪が、月明かりにやわらかく溶けている。
浮かべた表情は、微笑み――淡い、はかない、きれいな笑顔。
「……」
黙ったままのをどう思っているのか。
「でも、アティとはそのことで食い違いがあるみたいなんだ……ちゃんと確かめたことはないんだけど」
せっかく元気に今までやってきたんだし、下手にたしかめようとして、昔の傷を引っかくのも痛いしな。
ははは、と。
後ろ頭に手をやって、視線を足元に落とし、レックスの笑顔が困った感じのものになる。
だけどすぐ、それは消えた。
微笑みはまた、に向けられて。
「は、さ。その“おかあさん”に似てるんだよ」
「……あたしがですか」
からからになった口中をなんとか湿らせて、それだけを返した。
「ああ。だから――なんていうのかな、最初から他人って感じがしなかった」
「港町でお逢いしたとき、ですか?」
「そうそう。実はビックリしてたんだ、俺」
「……そうは見えませんでしたけど」
ぽつりと云うと、
「まあね。俺、これでも結構演技派だし」
「そうですかー?」
えへん、とばかりに胸を張ったレックスは、の疑い深げな一言で、がっくり肩を落としてずっこける。
ひどいなあ、なんて云って、だけどやっぱり笑顔。
だけど。
すぐにその笑顔は消える。
怪訝な色を浮かべて、追いかける。すぐ傍を横切って、扉へ向かうを。
「……?」
やっぱり怪訝そうな声に、ぐ、と手のひらを握りしめた。
ぱっと振り返って、目を合わせ、にんまり笑う。
「あんまり長々話してると、逢引みたいに思われるかもですね」
「……えっ? わっ、ごご、ごめん!?」
ぼっと顔を真っ赤にして、レックスはおたおた慌てだす。
そんな彼を笑って眺め、はぺこりと頭を下げる。
「お話、ありがとうございました。……踏み込んだところまで聞いちゃったみたいで、ごめんなさい」
でも、聞かせてくれてありがとうございます。
「……うん。俺も、いつか誰かに少しでも、話したかったのかもしれないから」
少し間をおいて、レックスもまた、やわらかい笑みを浮かべて答えた。
でも。
人差し指を一本立てて、身をかがめたレックスは内緒話の体勢をつくる。
「アティには内緒。な?」
「はーい」
でも、本当にちっとも全然覚えてないんですか?
「……うーん、覚えてないっていうのは語弊かな。両親が死んだことはアティもちゃんと判ってるんだけど。なんていうか、そのあたりの記憶が、どうも俺の記憶とズレてるっていうか……なんか、話してるとどっちが正しいのか判らなくなってくるんだよな」
だから、無用な混乱を避けるためにも、今元気だからそれでいい、って思うことにしてる。
「いっそのこと、“おかあさん”とまた逢えたら、はっきり出来るのかもしれないけど」
「……そうですか」
また逢えると思います?
「難しいかも。村の人たちも、口止めされてたみたいなんだよ。俺が何訊いても、知らぬ存ぜぬの一点張り」
アティの記憶とも食い違いがあるしで、俺、狼少年になっちゃったかと本気で心配したもんな。
真面目に云うレックスがおかしくて、思わず、声をたてて笑ってしまった。
「――でも、俺は覚えてる」
俺は、俺の記憶を憶えつづける。
「…………」
持ち上げた視線の先、レックスは淡く微笑んでいる。
性分なのか、双眸は真っ直ぐにを見て。
「忘れない。何があっても……、忘れるわけない」
だから、信じるんだ。
「絶対にまた、いつかどこかで逢うことが出来るって」
そしてきっと、俺たちを――俺たちの心を守ってくれたお礼を云うんだって。
「信じなくちゃ、何も始まらないもんな」
「――そうですね」
告げるレックスに、が出来たことは、同意を返して微笑んでみせることだけだった。
……だけど、もう充分だ。
元々礼など考えもしなかったし、逆に、負い目も覚えてた。
なのに、あんなに屈託無く笑って、信じてくれてるなんて。
それだけで、もう充分だ。
それだけで、救われるのはこちらのほうだ。
「たっだいま……っと、わわ?」
水浴びから戻り、静かに静かーに扉を開けてベッドにもぐりこんだソノラは、急にしがみついてきたに驚いたらしく、控えめな声をあげていた。
「なんだぁ、まだ起きてたの?」
「うん」
「何? 怖い夢でも見たとか?」
「んー、なんていうか人恋しくて」
「あはははっ、、子供みたいだよ」
軽やかな笑い声をあげて、ソノラが身体全部をベッドにすべりこませる。
んじゃ、くっついて寝よっか。と、身を寄せ合う。
少しカールした、やわらかな金色の髪が頬をくすぐった。
おやすみ、と云い合って、目を閉じて。
眠りに落ちる寸前まで耳を打っていたのは、窓の外から聞こえてくる、潮が寄せては返す音。
潮騒に混じるささやきに、島の喚び声に。
今はまだ、誰も気づくことはなく。
ただ、安らかな眠りに身を任せていた。