「……うおっ!?」
「え!?」
不意に横であがった誰かの声に、イスラは身を強張らせた。よもやまだ何かいたのかと、警戒も露に床を蹴る。鞘に戻していた剣の柄に手をかけて、飛び退いた体勢が安定すると同時に抜き放つ。
「待て待て待て、坊!! ワシじゃワシっ!!」
「……あれ?」
ごく僅かな衝撃を同時に感じ、一瞬動作を止めたのが幸いだった。目の前で大慌てしている黒髪の天使モドキ――もといマネマネ師匠の姿をとらえたイスラは、きょとん、と瞠目する。
あ。今感じたの、もしかして、鍵が解除されたとか?
「ぷー」
しょうがないなあ、とでも云いたげに、プニムが一声鳴いた。
抜いた剣をもう一度鞘におさめて、立ち上がる。そよそよと揺れる梢の音が、緊張していた神経を解してくれた。
……梢?
そこでまた、イスラは動きどころか思考まで止める羽目になった。
ねじの切れた人形のように固まった状態で、かろうじて目だけを右へ左へ動かし、そこが、集いの泉であることを確認する。
嘘だろ、と、口が動いたら云っていたかもしれない。生憎にして麻痺は継続中であり、それは叶わなかったが。
その代わりなのだろうか、思考がやけにハイスピードで進んでいく。
ここはどこだ集いの泉だ今まで無限界廊を潜ってたはずとプニムと一緒に大勢の相手と戦ってメイメイさんに逢って光に彼女たちは消えて
「おーい、坊。坊。起きてるか、坊〜?」
「……っ!!」
目の前までやってきたマネマネ師匠が、実に不審なものを見る表情で、手をぱたぱたと振っていた。
今度こそ我を取り戻したイスラ、忙しないまたたきを数度繰り返し、それからようやく息をつく。ほっ。
「――、し、師匠」
それを見た師匠もまた、あからさまに安堵を浮かべて盛大なため息。
「おう。……ああよかったー、界廊で頭ヤられたかと思ったぞ」
そんななってたら、あの怖いおまえさんの姉さんに、ワシ、申し訳がたたんところじゃった。心底安心した朗らかな笑顔へ、思わずツッコミを入れたくなったのは、とりあえず、外には出さないほうがいいだろう。
「ぷ」
「おお、プニム。おまえさんも無事で何よりじゃ」
「ぷいぷーぷー」
くるうりまわってブイサイン、そんなプニムを微笑ましく眺めた後、
「……ってちょっと待て。なんでプニムが戻ってきてるんじゃい」
と、真顔になって振り返る黒髪さん。
大味な性格してるくせに、こういうところは細かい。……まあ誰だってそうか。
「それが、その。この子にとって、これから生きる場所はここなんだそうです」
少し迷って、かいつまんだそれを答えにした。
追及されるかと思ったけれど、予想に反して、マネマネ師匠は「ふーん」と数度首肯した。
それからあっさり、
「まあ、そーいうことなら別にいっか」
そんなお返事。
……前言撤回。やはりこのひとは大味だ。
弟的立場のフレイズが、何故あんな細かい性格になったのか、少し判る気がした。
「それで」、
マネマネ師匠がふと表情を改めて、そんなイスラを振り返る。
「あの子は、送ってきてやれたのかな?」
「あ……はい」
「そっか。……やっと帰れるんだな――」
そうつぶやく黒髪さんの浮かべた安堵は、先ほど以上に大きかった。
師匠が“”の姿に刻まれた記憶を読み取ったことは、本人と読み取られた相手しか知らない。故にイスラは、何故だかひどくほっとした表情になったマネマネ師匠にその理由を問おうとして、……やめておいた。
うん、やっと帰れたんだ。
港で途方に暮れてた赤い髪、あの背中じゃなくて、焦げ茶の髪と黒い服の後ろ姿をおいて。――そう、やっと帰れたんだよね、。
と。
その拍子、彼女の傍らにあった赤い服の占い師のことも思い出したイスラは、連鎖的に、さっき自失する羽目になった原因を掘り起こす。
「師匠」
「ん?」
「僕たちはどうしてここにいるんでしょう?」
……
「坊。――なんというか、そうじゃな、古より“映らなくなったてれびはとにかく叩け”って云うらしいんじゃが」
「遠慮します。それ以前にてれびってなんですか」
「さあ。ロレイラルにあるもんだとか、なんだとか、アルディラが云ってたっけ? よく知らん」
「ぷーぅ」
なんとも非生産的かつ間抜けな会話に呆れたか、プニムがまた一鳴き。
ぽよぽよの青い小さな子にツッコミ入れられたも同然、ちょっぴり情けない顔になったイスラは、「それが」と、話を無理矢理引き戻す。
「たしかに僕らは最奥に辿り着いて、は光の向こうに消えたんです。それを見送ったのは覚えてます、けど、気づいたらここに……」
最奥にいた女性――メイメイのことは伏せておく。
ここにいたのは今日のメイメイだとか、向こうにいたのは遠い明日のメイメイだとか、迎えに来てたんだとか、そういうのは説明も面倒だし、混乱するだけ。
肝心なのは、あの子が無事帰れたこと。それでいい。
「ふむ?」、黒髪さんは顎に手を添え、思案顔。「ワシのほうからだと、おまえさんたちが唐突に出現した感じじゃなあ。――なんつか、最奥から弾かれたんでないかい?」
「弾かれた?」
「ぷう?」
おうむ返しに単語のひとつをとらえたイスラのことばに重ねて、プニムが身体を左右に揺らす。疑問のジェスチャー。
「あそこが試練の門とも云われる由縁じゃな。進もう進もうとする者に対しては、次々相手を用意してくれるが、一旦気を弱くして」、
おまえさんたちのことじゃないぞ、と、判りきった注釈。
「帰りたい、とか思うと、すぐさま入ってきた場所に弾き戻すとかなんとか。まあ、色々不思議な場所ってことじゃな」
「――――」
つまり、を帰すという今回の目的が達成されたから、界廊はそれを知って、イスラとプニムをこちらに押し戻したというのだろうか。
「……まあ」、呼気かため息か、交えた感情は苦笑に近い。「帰りも戦わなくちゃいけないかと思ってましたし……正直、助かりました」
「ぷー」
「ははは、良かったな。人間、楽できるところは楽しなくっちゃ身がもたんよ」
長い黒髪揺らして、マネマネ師匠は闊達に笑う。
酷似した相貌である金髪天使ことフレイズなら、絶対にやらないような笑顔だ。このへんが、結局別物である由縁のひとつなのかもしれない。
そうして疑問ひとつ片付けば、次なる疑問が頭を覗かせる。
「――それで、もうひとつ、訊きたいんですけど」
「ん?」
「島は……どうなったんですか?」
風が梢を揺らす音、水面が時折波打つ音――そして、中央に佇むイスラとマネマネ師匠、プニムの声以外、しん、と辺りは静まり返っている。
その静寂が逆に不安をあおる気がして、心なし早口に問いをつむいだ。
そうして、問いを受けた黒髪さんは、ちょっと目を見開いた。
「……」
沈黙は、数秒か十数秒。
黒髪さんは後ろ頭に手をやって、少し、気まずそうな顔になる。
「それが――ワシにも判らん」
「……師匠」
思わせぶりな沈黙を挟んで、それですか。
がっくりと脱力したイスラを見て、名誉挽回しようと思ったのかどうかは判らない。いや、そもそも師匠が名誉に重きをおくかどうかさえ、怪しいものだが。
ともあれ、マネマネ師匠は「ただ」とことばを続けた。
「ちょっと前から――ついさっきまで、えっらい地鳴りと轟音がしてたんだよな。島中響いてたんじゃないかなってくらい――坊たちが出る少し前に、それはおさまったんじゃけども」
それがたぶん、界廊に響いてきたあの揺れだろう。
あちらにいてさえあの規模だったのだ、発生源であるこの島では、想像もつかぬほど莫大なものだったのではなかろうか。
なんとなく空に目をやったイスラの傍らで、師匠は云う。
「ただ」
「ただ?」
「あんなに満ちてた亡霊の気配が、嘘みたいに消えたのはワシでも判ったよ。――だから、そういうことなのかなあ、とか思ってな」
「――――」
それは、つまり。
「つまり――」
頭に浮かんだ考えをそのままことばにするべく、唇を持ち上げたとき。
……ありがとう
風が吹いた。
それまでと同じに、優しくやわらかく。静かに水面を、梢を揺らしてその風は吹く。
「――――」
それまでと同じ風を受け、イスラ、そして黒髪さんもプニムも、期せずして空を振り仰ぐ。僅かに持ち上げられた髪を反射的に手のひらでおさえ、なにものもいない虚空を見上げた。
なにものの声も、その耳朶を打つことはなかった。そのはずだった。
紅の暴君はすでに砕け、その意志とのつながりは、いまや断たれたも同然のはずだった。
「坊?」
「――――」
さあぁ、と、優しく風が吹く。
……君たちがここを訪れてくれて、本当によかった
梢を揺らし水面を騒がせ――穏やかに、その風は通り過ぎていった。
目を見開いて虚空を見上げたまま固まるイスラ――戻ってきてから通算三度目、それを見た師匠が「今度こそダメかも」とつぶやきかけた矢先、
「師匠」
「はいッ!? ワシまだ何も云ってないよッ!?」
まるで、“師匠”にふられたルビが“ほーるどあっぷ”だったかのような慌てぶりを、イスラはきょとんと眺めるばかり。
何あわててるんだろう、このひと。
一連のそれを眺めていたプニムが「ぷーぅ」と、ちっちゃな手で口元おさえて笑い出した。
イスラはちらりとプニムを見て、すぐ、視線を師匠に戻す。
「マネマネ師匠。たぶん――」、
だから、イスラは気づかなかった。
イスラに向き直った黒髪さんも見逃した。
吹き渡る風、もういない誰かを探すそのひとかけらを、プニムがそっと受け止めて、白い焔の分空いてた自分の裡の跡地に、住まわせてやったことを。
「――先生たちが」、
胸にほんのり、小さくあたたかく、灯る光。
それは、いつか赤い世界が広がる前に、プニムから出て行った光と同じ。――プニムが受け取った光と同じ。
「レックスとアティが?」
このために。
プニムもまた、ここへ来た。
赤い髪の女の子が、ほんの一瞬宙にきらめいた、お天気の良かったあの海辺――崖のふちから。
「きっと」、
お礼を云う前にいなくなってしまった女の子へ、
「――あのひとの魂を、救ったんじゃないかな……」
そのひとの。お礼のことばを届けるために。
女の子と。相棒だった、お父さんから。
マネマネ師匠は、イスラのことばに、黒髪を揺らして微笑んだ。
「……そっか」
ハイネル、もう眠れるんじゃな。
思えばこのひともまた、当時を知るひとりであったわけだ。それを思うと、そのたった一言は、幾万の重みを備えているように思える。
「ええ」
だからイスラも、ただその一言だけでいらえとした。
その背中に、声がかけられる。
「おーい!! イスラー! ししょ――!!」
「先生! イスラさんいましたよ!」
「あ、青いのが跳ねた! プニムもいるよ、テコ!」
「ご無事ですの? はちゃんと送ってこられたんですの――!?」
実に賑やかな、子供たちの四重奏。
「……」
「……」
ね? とイスラは微笑んで、
うん、と師匠は破顔した。
それから、ふたりは揃って振り返る。
どんな激闘があったのか、全身ずたずたのぼろぼろの、だけど晴れやかな笑顔の彼らへと。
「送ってきたよ――ちゃんとね!」
「お疲れじゃ、更にお迎えご苦労さん」
「ぷっ!」
「ミャ!」
同じメイトルパのよしみか、先んじて走り出したテコとプニムが感動の再会。
その傍らを通り抜け、ついでに、立ち止まってる二匹を拾い、短髪と長髪の黒髪さんたちは、泉のふちで待つ一行のもとへと駆け寄った。
同じく短髪と長髪の赤髪さんたち、それに、周囲の子供たちが、全開笑顔でそれを出迎える。
「お疲れ様。おかえり」
「おかえりなさい」
おかえり! ――また響く四重奏。今度は、四匹の召喚獣たちもが唱和した。
「ただいま。それから、君たちもお疲れ様――おかえりなさい」
「同じくただいま。――君タチモオ疲レ様――オカエリナサイ」
「師匠ッ!!」
「アハハハハハハー♪」
真っ赤になった短い黒髪さんの怒鳴り声もどこ吹く風、不意打ち敢行出来たことに大喜びな瓜二つさん。それを見た一行に、笑顔どころか爆笑が巻き起こる。
とりあえず、イスラが本格的に頭を抱えて苦悶する前に、笑い声はおさまった。
「さあさあ、のんびりしてないで。急いで船に戻らないと」
「ええ。きっと、みんな心配してますね」
目じりに残った涙をぬぐって、アティがレックスのことばに頷いた。
「みんな? ――そういえば、そのみんなは?」
一緒に遺跡へ行ったんじゃないの?
そんな疑問を口にしたイスラがまず見たのは、
「ああ。……それがその」
「あは、ははは……」
「?」
何故か目をお魚にして泳がせる、先生がふたり。
それでは埒があかないと思った子供たちが、ずい、と身を乗り出した。
「あのさ、ディエルゴ。あいつ、オレたちが負かしたんだけどさ、悔しいからって島壊そうとしたんだ」
「それで――果てしなき蒼なら共界線を束ねなおして崩壊を止められるかもしれないから」
「先生たちと僕たちで、残ったんです。みんなは、危ないから先に船へ戻ってもらって」
「心配っていうのは……ちょっと無理云ってきちゃったから……です」
おそらく、はしょりにはしょっているのだろうその結果を聞いたイスラ、そのまま深々と脱力した。
けれど、当の元凶たちが、それを許してくれない。
さあさあさあ、と、こめかみに手のひら押し当てたイスラ、とっくに元の姿に戻ってる師匠、誰の頭にこれから乗ろうか考えてるかもしれないプニムを、六人で一斉にせきたてる。
――遠い赤い日。
その手をとって、置いていったひとの話をまだ、イスラは知らないけれど――ふと、無限界廊に潜る前、レックスたちがに叫んでたことばを思い出し、それをかみしめた。
……たしかに、“おかあさん”なのかも。いろいろな意味で。
だけど、その話を聞くのはまだもう少しだけ、先の話。
今はとにかく船に帰って、きっとやきもきしてる他のひとたちに、このひとたちの元気な姿を見せてあげなければ。
そして自分も、待っててくれてるあのひとに――姉さんに、だいじょうぶだよと伝えたい。
だから――さあ、行こう。
帰るべき場所、これから歩いていく場所、それをあの子は知ってたし、自分たちも知っている。
「――――」
最後に一度だけ、イスラは集いの泉を振り返る。
最後にもう一度、プニムは集いの泉を振り返る。
「――――」
最後に、一度。レックスとアティは、身を翻す前に、集いの泉を目に焼き付けた。
そうして――――迷子は元いた場所へと戻り、彼らは彼らの道を往く。
複数の足音が、集いの泉から遠ざかる。
しん、と静寂を取り戻したその場所には、ささやかなそよ風が吹くばかり。
また逢いましょう。
また逢おうね。
どんなに遠い時間の溝が、そこに横たわっていたとしても。
きっとまた、君と逢おう。君たちと逢おう。
望めばきっと、何かは叶う。
それが欲しいすべてではなくても。
望めばきっと、また道は交わる。
それが遠い時間の果てでも。
――――やくそく。 ね。