それまで凍り付いていた足が、一気に解凍された。
ろくに動作を自覚せぬまま、は、階段を一足飛びに駆け下りる。最後の数段はもはやすっ飛ばすように飛び下りて、衝撃も消えぬうちからまた走り出す。
「ヘイカモーンちゃん♪」
「うわああああん、本当にメイメイさんだああぁぁっ!!」
大きく広げられた腕に飛び込むと、まず、豊かな胸が頬に当たった。うーむうらやましい。でなくてあたたかい。
ヲトメとしての煩悶を押しのけて、安堵が胸から全身に満ちる。
メイメイさんだ。
あたしの知ってるメイメイさんで、あたしを知ってるメイメイさんだ。
銀の首飾り、あのふたりに返して、今は気ままに聖王都で占い師やったり時折どこかに姿消して何やってるんだか訊かれてものらくら躱す、遠い明日のメイメイさんだ――!
……何気に失礼な思考だが、要は云わなきゃばれはすまい。
そのメイメイの腕が、すっ、との背中にまわる。ますます胸に押しつけられたせいで圧迫感を感じるが、呼吸に支障があるほどじゃない。
頭の上でぽむぽむ跳ねる、優しい手のひら。
「にゃははは、ちゃんってば甘えんぼねえ」
ま、甘えたさんになっちゃう気持ち、判らないでもないけど。そう云って、メイメイは、両腕使ってを抱きしめた。
「ようこそ、夢幻の最奥へ。――よく辿り着いてくれたわね、ちゃん」
「……はい……っ」
頷くの後ろから、戸惑いがちに近づく足音。そして跳ねる音。
を抱いたままのメイメイが、少し動くのが伝わった。たぶん、やってくるひとりと一匹へ視線を移したんだろう。
「君たちも――たしか、イスラとプニムよね。ちゃんを送ってきてくれて、ありがとう。私からもお礼を云うわ」
「え……何を、そんなふうに改まらなくても」
ついさっきも逢ったばかりでしょう、とイスラは云って、もうひとつ、思い出したらしい。
「そう――ヘイゼル……パッフェルさんは送ってきたんですか?」
「にゃ?」
律儀に、最後彼女が叫んだ名前に云いなおしたイスラの問いへ、メイメイはかっくりと首を傾げた。
抱きしめてた腕をゆるめると、を覗き込んでくる。
「ねえ、ちゃん。この子たちに、説明とかしてないの?」
「……はははははは」、乾いた笑いをまず返し、「テンパってて、全然」素直に事実をそのままお伝え。
幸いにもメイメイは気分を害した様子もなく、
「にゃはは、そっかそっか。うん、ごめんねえ」
と、逆に頭を下げてきた。
「私も、あんまし大きく干渉するわけいかなかったから。手紙も、ほんと、気づいてくれるかどうか賭けだったのよね」
同じもの、ふたつは要らない――
少し前にこの時間のメイメイが云っていたことばを、は頭のなかで反芻する。
そうしてメイメイはから身体を離し、イスラとプニムに向き直った。
「うん。じゃあ、識ってはいるんだけども“君たち”とは初めまして。私は、ちゃんを迎えに来たメイメイさんよ」
これで判ってくれるかな?
「――――」
「ぷ? ぷぷーぷぷ」
難しい顔して首を傾げるイスラの足元、プニムが何度か跳ねて鳴く。その語尾が消えようとした頃、イスラがようやく姿勢を戻した。
「つまり……あなたは、と同じ時間を生きているメイメイさんということですか? ――僕らがさっきまで逢ってたのは、この時間のメイメイさんで……?」
「ぴんぽん正解♪」
「あの」
「ん? なあに若人?」
思考がそこへ至った瞬間、おそらく反射的に生まれたのだろう問いを口にしようとしたイスラは、けれども、即座に返ったメイメイの笑顔を見て、それ以上の愚行を断念した。
懸命な判断、ではあるかもしれない。
女性に年のこと、訊くもんじゃないぞ。
「じゃあ、早く迎えに来てあげればよかったじゃないですか――は、この島に来てから、本当に大変な目に遭って……し、死にかけたりもしたのに」
撃破された問いの代わりというわけでもないだろうが、自分こそが泣き出しそうな顔になって、イスラはメイメイに詰め寄った。
「あなたは島にいたんだから、それも知ってたんでしょう? なのにどうして……」
「――ううん」、ゆっくりと、メイメイはかぶりを振る。「知らなかったわよ、“私”は――ね」
「な」
「分岐は無数、道は無限――いったいどれだけの“私”が、先に進んでいたのかしら。いったいどれだけの“私”が、この私を繰り返さずに済むのかしら」
韻を踏み、うたうように紡がれることば。
そしてメイメイは繰り返す。
「知らなかったわ。私は。あの絶望を君たちが越えられたなんて想像もしなかった。出来なかった。――私の見た君たちは、核識の絶望に身も心も呑まれ、赤く染まり、笑顔さえ忘れて私たちの前から次々に姿を消した」
それは嘘偽りではない。馬鹿げた空想でもない。
それは彼女が身をもって体験したことだ。
確証を求められて何を示せるでもないが、――感じる。もイスラも、プニムも。
このメイメイの通ったこの島の軌跡は、ふたりと一匹が知りえるものとは明らかに異なるのだと。
「そうして過去は変わらない――絶望の螺旋は止まることなく、そのうえに時は築かれ積み重なっていく……はずだったんだけど、ね」
ちらり、こちらを見下ろすメイメイの眼に気づき、は不思議な思いでそれを見返す。
「……詳しいことは勘弁してちょうだいね。だけど、私の知る螺旋はもうないの」
そしてメイメイは笑う。
しあわせそうに、うれしそうに、を見つめて微笑んだ。
「ある日のことよ。まったく予想外の場所から、ひとつの分岐が生まれたの。そこから無数の分岐が生まれ道が示唆され――それは螺旋さえをも白紙に戻した」
ひとり寂しく酒を飲んでいたその夜。
ふと気づけば、朱に染まって絶えたはずの女性が差し向かいにいて。
挟んだ卓にはちゃんと、ふたりぶんの酒盃と料理。
甘露と変わった、苦みばしってたはずの酒。
――その夜、彼女はささやかに、ひそやかに、改変の祝杯をあげたのだ。
白い焔。
銀の悪魔。
もう叶わぬと手放しかけていたのぞみを、再び強く心に刻んだ。
碧と紅。
存在しなかった蒼。
不意に叩き込まれた記憶をそうして、自らで知りたいと強く思った。
……だから。
「改めて、この昨日を見届けに来たの――そしてそれは、叶ったわ」
疑問符宿して見上げる夜色の双眸に詳細を告げぬのは、説明が大変だということもあるけれど――それ以上に、こんな無限螺旋のような話で、彼女を煩わせたくないという気持ち。
そうしてもっと強いのは、話したところで彼女はきっと、全身全霊で自分の干渉とやらを否定するだろうという予想。悪くすれば気分を害するかもしれない、決まっていたことなのかと。
いくつもの選択を選び抜いたのはたしかに彼女、そして彼ら。
だけど、そんな陰りを落とすくらいなら、今自分がしあわせなのだからと、めいっぱい伝えてそれをよしとしてほしい。
やわらかに微笑む。気持ちを視線にただ乗せて。
「……」
ふと、自分を見るもうひとつの視線に気づいて、は首をひねった。
戸惑いに比例するかのように、大きく首を傾げているイスラの様子がなんだかかわいらしくて、口元がほころぶ。
そのまま、ひとつ頷いた。
「――ってことらしい、よ。まあ、不思議はメイメイさんの専門だし」
あたしは別にいいかなって思うんだけど、イスラはまだ、訊きたい? そう付け加えると、わずかに考えるような間を空けて、イスラは結局かぶりを振った。
「そう……だね。――うん、僕も……いいよ。螺旋どうのも気にしないでおく。――ありえたかもしれないけど、今はこうして、を見送りに来てるんだしね」
歩いてきた道には、幾つもの分岐。幾つもの取捨選択。
それを思えば、螺旋が白紙になったということがどれだけの異常か判る――ついでに、それがどれだけ、本来なら許されぬことかも。
……でも、いい。
今、自分たちはここにいるから。こうして立って、話して、見送り、見送られるために、ここへ来たから。そう、出来るから。
――――今、自分たちはここにいる。
歩きぬいた昨日に対する“もし”は、ありえたかもしれない可能性に過ぎない。
今、ここにいる。確りとそう云えるから、だから、それでいい。
「うん」
微笑むイスラにつられるようにして、もまた微笑った。