梢の揺れる大きな音の、残滓がようやく消えたころ。
ヘイゼルの起こした突然の行動を、ぽかんとして見守っていたは、そこでやっと我に返った。
「――なんと豪快な」
「そういう問題?」
思わず零した感想を聞きとがめ、イスラが首を傾げる。
うん、と、迷いもせずに頷いて、座り込んだまま肩で息をしているヘイゼルの傍らへ移動する。立ち上がるための手を貸すつもりだったけれど、先に傍らにいたメイメイが、かぶりを振ってそれを制した。
「ちゃんたちも、そろそろ」
自分は術をしなければならないし、たちはそこへ突入しなければならない。ならば、このまま座っておいてもらったほうが、無理な負担もかからない。
意図を察して、はこくりと頷いた。
「少し待っててくれる? ちゃんたちに道を開かなくちゃいけないから」
「……」
のろのろと顔を上げたヘイゼルは、どこか放心したような眼差しで、メイメイを、そして、とイスラを見回した。
それから、小さく頭を上下させる。かすかに動いた唇が「わかったわ」とつぶやいたようだが、声としては聞き取れなかった。
ただ、緩慢な動作で身体の向きを泉へと向けなおしているのを見るに、読唇の結果は間違ってはいなさそうだ。
その間に、メイメイは、てきぱき、イスラとプニムに指示を出していた。
「いーい? プニムのなかに、白い焔が蓄えられてるの判るわね?」
「はい」
「それを引っ張り出して、なんでもいいから形にして、私に渡してちょうだいな。別に貴方の持ってる白いのと混ざってもいいけど、全部出しちゃったりしないように。帰るための余力は残しておきなさいね」
「……余力?」
体力じゃなくて、焔の余力?
が首を傾げるのも、ある意味当然。力っつっても、そんな、どこぞの亀は目波(not誤字)のように攻撃性を期待出来るものじゃないんだが、あれ。
とっといて、何の役に立つのだろう。
その疑問に応えるように、メイメイは、眼前のふたりと一匹を均等に視界におさめながら、
「さすがに、亡霊うっじゃうじゃで開けっ放しも怖いしねえ……気が乱れてると、触発されて中のが出てこない保証もないし。だから、鍵、かけておこうと思うのね」
「鍵?」
「そ。焔でだけ開く鍵。一度作ったことある仕掛けだからね、動作は保証しちゃうわよ〜」
「――鍵、ですか」
作る側はともかく、開ける側が、その開け方を判らない場合はどうするんだろう。そんなイスラの復唱も、メイメイは予想済み。
「焔の持ち主がある程度近づけば、自動で開くわ。外からでも内からでも」
だけどそれ以外じゃ絶対に開かない
「ぶっちゃけ、エルゴでさえも無理――なあんて、大見得きってみたりして。にゃははは」
「……」「――」
こっちこそ、ぶっちゃけ、見得だと云いきれない気分になっちゃってる……なんて、きっと云わないほうがいいだろうな。
特にに至っては、サイジェントでの経緯もあるわけだから、なおさら。
遠く聖王国に、ふと思いを馳せる。
今はまだ、仲間の殆どが幼いか、生まれているかどうかっていうこの時間から――遠い遠い、その地へと。
そうしているうちに、イスラとプニムは、メイメイに促されるようにして、泉のふちに移動した。
さあやれ、と、云わんばかりに胸を張るプニムの傍らにイスラがしゃがみこみ、手のひらを、青いぷにぷにボディに押し当てる。
「――」
それに。応えて、プニムから零れ出る白い焔――いや、陽炎。
霧のように霞のように、一歩間違えばすぐさま消えてしまいそうに儚い、その見た目が少し意外だった。もっとごうごうと、盛り、猛る、爆炎めいたものを、いつも感じてたから。
ふと浮かんだその疑問を察したか、術に入ろうとしていたメイメイが、ふとを振り返った。
「力は、使い手の意志で、いくらでもその在り様を変えるのよ?」
生徒に云い聞かせるようなそのことばに、そうか、と苦笑。
が喚んだ結果があの焔なら、イスラの喚んだ結果は、優しい天霧。ただそれだけのこと。
魔剣も。
遺跡も。
存在はすべて、それを手繰るものの意志次第。――遠く、禁忌の森に眠るものさえも、本当ならきっと。
優しく周囲をけぶらせていく陽炎を、メイメイが、たおやかな動作で手招いた。霧は容易にそれに応え、ゆらり、イスラたちからメイメイのほうに移動する。
かすかに残った残滓が、すっ、とイスラに戻っていった。それ以外はすべて、真紅まとう占い師へと。
――そうして。
界廊への門が、開かれる。
島中が亡霊で騒然としているなか、例外として襲撃を受けずに静けさを保っているのは、かの海賊船と店一軒、そして、集いの泉。
四界の力が集うこの場所は、聖王都に在る至源の泉に及ばぬとはいえ、清涼な息吹をたたえている。余人はかろうじてそれが判る程度であろうが、その実、見る者が見れば、ここは他の地に比類なき場所であると察することが出来るはずだ。
――しん、と心地好く張り詰めたその静寂を、そのとき、破る者がいた。
四界天輪 陰陽大極――
けして大きくはないものの、耳に心地好く響く女性の声だ。
出所は泉のほとり、中央にある浮島を利用してつくられた会合の場へつながる通路に、彼女は立つ。少し離れた泉のふちには、人間が三人、プニムが一匹。
通路に立つ女性の肌は、不健康でない透明感がある、鼻にかけた眼鏡を縁どる髪は濃い茶色。お団子に結わえられたそれからは、ツノのようなものが突き出ている。身にまとうは真紅の衣装、布地の縁や要所要所に施されているのは金糸の装飾だ。腰には毎度お馴染み“龍殺し”と書かれた酒。
メイメイという名でもって島の者たちに知られる彼女は、普段頬にのぼらせている朱をきれいに消し去り、真摯な表情で“それ”を紡ぐ。
――夢幻の最奥を目指す者へ その門を開きたまえ
召喚師の詠唱めいているが、韻が違う。律が違う。
紡がれることばは言霊となり、如何なる媒介も使用することなく、静かに宙をかけ、泉の中央へと走る。
王命において
だが、呪は途中で止まった。
複雑に動き、何かの形を続けざまに編んでいた手のひらも、そこで停止。
後方で見守っていた者たちが、不安と疑問をたたえて彼女を凝視する。
閉じていた目を開き、メイメイは、引き結んだままだった口の端を、少しだけ持ち上げた。
そして再び、瞼を伏せる。
白き焔手繰りし彼女の歩みにおいて
――――疾く なしたまえ!
光が走ったわけではない。
音が響いたわけでもない。
だが、たしかに変化はそこに生まれた。
島の中央、会合の場。先ほどまではそのまま、向かいの岸を見通せた空間に、僅かな歪みが出現していた。
持ち上げた瞼の下でそれを見、メイメイは「よし」と満足げな笑みを浮かべる。
「おー」
「へえ……」
彼女がという名で認識している少女と、その傍らのイスラの声。宿る感情は感嘆。
彼らが一目で察したとおり――術は成功したのだ。
メイメイもまた、満足な心持ちで頷いた。
「――腕は鈍ってないみたいね」
やってくる足音ふたつ、飛び跳ねる音ひとつを耳にしながら、そうごちた。
「至源の泉に比べると、ちょっと力足りないけど……ま、なんとかなるか?」
それに、この騒動が終われば、また流れ込む力も元の秩序を取り戻すだろう。
そうしたら、鍛錬好きの誰かさんとか授業で学んだことの実戦を欲するかもしれないお子さんのために、試練用の道を開いたりしてもいいかもしれない。
今回は、なるたけ最短で最奥に行ける門を開いているから、悠長に試練だとか云えるもんではないが。……なにしろ、道が短い分、待ち受けている障害物は洒落になんない強力を誇るはずだし。
たとえば、メイトルパでは最悪の害虫とか云われてる女王ゴルコーダとか。シルターンで怖れられている朱天鬼や荒ぶる雪の精とか。
いずれも遭遇したが最後、命はないと思えってな感じの相手だ。メイメイもそれをよく知っている。
知ってはいるけれど。
「――」
通路を渡ってやってきたふたりを見るメイメイの眼には、これから強敵を相手取る者への不安はない。
うん。
知ってるんだけど――なんていうのか。だいじょうぶっぽい気がするわ、この子たち。そんなことを考えたせいか、メイメイの唇が僅かにほころんだ。
「何か?」
目ざとく、わずかなその変化を見たイスラが、疑問をひとつ。
「んん、なんでも」
お似合いだな、って思ったの。――などとからかうと、ひとりはともかくひとりが真っ赤になって噴火すると予想されるので、曖昧に笑っただけで誤魔化す。
そうして、さらに追及しようとしたイスラを遮るように、メイメイは、さっさと動くことにした。
手早くふたり(と頭上の一匹)の後ろにまわりこみ、
「ほらほら、もう門は開いたわよ。仕掛けは万全、ほっとくと鍵かかって閉じちゃうから、早く入った入った!」
ばん! 勢いよく、その背中を、たった今開いたばかりの門へ向けて押し出した。
「わったった」
「ぷぷー!」
力が強すぎたか、赤い髪した少女がバランスを崩し、片足と広げた両手でバランスとりつつ移動する。けんけん。
「メイメイさんッ!!」
裏返った怒号もなんのその、彼女が移動している間にメイメイは身を翻し、すたこらさっさと泉のふちへ。地面に腰を落としたまま、なりゆきを見守っていたヘイゼルの傍らに立ち、ひらひらと手のひらを振ってみせた。
実はちゃっかり、空間移動の術も展開させ始めてたりして。
その早業に、翠の目がまん丸くなる。おまけに、傍らのヘイゼルの目も。
ふふふ、まだまだ青いわね若人ども。
「じゃあねー♪ また逢えたら、おいしいお酒でも一献付き合ってちょうだいな♪」
「……!」
ほとばしりかけた光のなか、ヘイゼルが、やっとのことといった態で声を出した。
呆気にとられていた翠の目が、それで我を取り戻す。あわただしい数度のまたたきに重ねて、ヘイゼルが叫んだ。
「また――きっと、あなた……あなたたちも……!!」
視界を埋め尽くす光のなか、さっき届いたかどうかさえ判らなかったことばの分まで取り返そうと、張り上げられるヘイゼルの声。
そうして今度こそ声は届いた。
「いえっさ了解! もうさっき名乗っちゃったから問題なしですよねパッフェルさん! きっとまた逢いますお元気でッ!!」
そうして今度こそいらえが返った。
「ついでにメイメイさん、あたし未成年だからお酒ダメです、お付き合いはホットミルクでお願いします!」
……余計なものまで返ってきた。
光さえなければ、笑顔全開で腕真っ直ぐ突き出して親指立ててる少女の姿が見れたかもしれないが、そこまで期待するのは酷というものか。
「きっとよ……!!」
再び叫ぶヘイゼルを見、その声を聞き――この子もまた、変わることが出来るだろうと、そんな予感を抱きながら、メイメイは術を解き放つ。
螺旋の記憶を刻まれることなく、占い師は、そうして光に溶け消えた。
それと時を同じくして、島の一角、木々の合間にひっそり佇む異国風の店もまた、唐突に姿を消したのである。
――静寂が戻る。
周囲には、風が梢を揺らすささやかな音だけが、ひとときの間奏でられたのだった。