これ以上は無理だろうというほど、イスラの双眸が見開かれた。その奥、胸のうちにどのような嵐が吹き荒れたか、見ている者には掴み取れなかった。
けれど、
「嘘つき!!」
昂ぶる感情そのままに、イスラが叫んだことばだけで――その一端を知るには充分だった。
「イスラ……」
少し離れた場所にいたアズリアが、そう強くない声音で弟を呼ばわる。
けれど、それが聞こえるようなら、そもそも叫んだりしないだろう。こんな衆人監視のなかで、しかも、自分が傷つけたと知っている人々のなかで。
は預り知らぬことだが、彼女が目を覚まして船を出てくるまでの間、朝食のために一同が集まっている状況を利用し、イスラの事情についてはある程度、避難してきた集落の人々にも伝えている。理解はしてくれたようだが、感情的にはまだ難しいところ。
そのため、このときまで物静かにしていた彼の唐突な叫びに、誰もが目を丸くした。衝撃としてはの告白より小さいが、驚愕としては同規模。
……ただひとり、もっとも近くでその叫びを受けた以外は。
その彼女に掴みかかろうとしたのだろうか、立ち上がるべく身を持ち上げたイスラは、だが、「あ」とバランスを崩して砂浜に座り込んだ。
は無言のまま軽くかがみ、イスラを起こそうと手を伸ばす。
が、イスラはそれを払いのけた。響く、乾いた拒絶の音。
その残滓が消える間もなく、
ドン!
にぶい音が、続いた。
座り込んだまま振り上げたイスラの拳が、の腿を打った音だった。
「嘘つき――いるって云ったじゃないか! 友達だって、ここにいるって!! 今までだって、君だけ、変わらないでいてくれたのに!!」
港町で出逢って。
島で再会して。
友達でいようと、笑いあった。
裏切って、裏切られて。
それでもどちらも、友達だと云ったあの日を、否定したことはなかった。
「それとも、僕が変わったから? もうだいじょうぶだって、手が要らないからって――だから!?」
レックスとアティの心中に生まれるのは、少し苦い気持ち。
目の前にあるのは、あの幼い頃、自我を忘却していなければ、きっと同じようにしていたろう、そんな光景だから。
ドン、ドン、音は響く。繰り返し。
「紅の暴君に何を渡しても、君のことは忘れないでいようって……今度こそちゃんと、友達になれるって、思ったのに……!!」
弱っていたとはいえ、男性の力だ。悪くすれば痣になるし、そも、痛みだってあるはだろうに、は何も云わずにそれを受けている。周囲の人々からは、赤い髪や背中が震動にあわせて揺れるのが、見えるだけ。
「なんで、今になって帰るんだよ!! 帰れって云ったときに帰ってくれてれば、こんな気持ちなかったのに!!」
贖罪? 置いて行く贖い?
……そんなわけは、ない。
ドン。
そうして、音は途絶える。
の腿に拳を当てたまま、イスラは、ずるずると、彼女にもたれかかった。
「自分勝手だ……ずるいよ……」
そのことばと同時に、が動く。
イスラを砂浜に落とさないよう、注意して身をかがめ、その頭を自分の肩に乗せた。体勢を整えてから、あやすように背中を軽く叩き、口を開く。
「そんなの承知の上で云うんだけど」
「……何」
「帰るのにはイスラに手伝ってもらわないといけないことが」
「やだ」
即答である。反応までに一秒未満、に、ことばを最後まで紡ぐ時間さえ与えずにイスラは云った。
それはそうだ、と、完全に観客になってしまった一同は思う。ついでに、その皮肉も。
こんなに反対している相手の助力を得られなければ帰れないというへのちょっとした同情と、それで素直に帰すわけもないよなというイスラの返答への納得。
「やだ。嫌だ。絶対手伝わない」
「いやでいいから手伝って」
「嫌だ」
「……むしろ手伝わす」
の声が凄味を帯びる。
「病み上がりのあんたと、一応健康体のあたし。しかもプニム付き。どっちが勝つかなんてすぐ判るよね」
「卑怯だ!!」
叫び、イスラは顔を持ち上げた。至近に翠の双眸見据え、非難の色濃くへ告げる。
「勝手じゃないかそんなの! 僕の意志無視して無理を通すなんて……そんなに帰りたいの!? 帰る方法が見つかったら、本当に、僕たちのことなんかどうでもよくなったって云うのか!?」
ここにいてと。非難以上に強い願いを、
「――帰りたい」
は静かに、両断した。
「……」
イスラが瞠目する。
再び、強い非難が、うっすら持ち上げられた唇から零れるかと、見ていた誰もは予想した。けれど、それは実現しない。
――思う。誰だろう、誰か――観客の誰かか。ふたりの当事者か。
思う、そして考える。
無理を通して道理を引っ込める、そんなことばは確かにあって、だけどもそれは、今が押し通そうとしてるのと同一ではないんだと。
それはイスラにとっての無理であり、にとっての道理だ。
逆ににとっての無理が、イスラにとっての道理だ。
「――――」
上向き加減だったイスラの頬が、ぽつりと濡れる。流れ出したのではなく、落ちてきたもので。
それを受けると同時に、イスラの表情が歪む。
「……なんて顔――してるんだよ。」
泣かないでよ。
口の動きだけでそうつぶやいて、イスラがのろのろと腕を持ち上げた。の頬に添えて、指の腹で瞳の下あたりを拭うように動かす。
「云いたいことあるなら、云えばいいのに」
「云わない」
なんて顔、というの表情から何を読み取ったのか。促すイスラの声に、けれど彼女は応じない。
それだけではあんまりだと思ったのか、続けてこう云った。
「謝るなんて出来ないよ。あたしはあたしの勝手を通すんだから。非にしちゃいけないんだから」
遠い遠い明日で生きてく彼女。として生まれたこの自分を、在るべき場所に在ることを、貫きつづけることが、の願い。
――なによりも。もう。すべてのくびきが断たれれば、いずれにせよ、この時代から放り出される。おそらくこのまま進むなら、それは最悪のタイミングだろう。
「……意地っ張り」
呆れの色混ぜて、イスラはつぶやく。
「適当なこと云って騙して行けばよかったのに。そしたら、こんなに騒ぎにならなくてすんだのに」
「だって、そしたら、結局また説明の手間かかるじゃない」
「え?」
頬を拭いつづけた指を止めて、きょとん、とイスラの目が丸くなる。
「また?」
「そだよ。どうせ説明しなくちゃいけないもん。また島に来たとき、姿変わってないわけだから――結局不信に思われるでしょうが」
だったら今、きれいさっぱり説明して、
「あたしはまた、この島に来る」
って、約束してからお別れしたほうが、なんぼか後味オッケイじゃない。
「嘘」
さっきまでの感情の昂ぶりはどこへやら、どこか自失した態で零したイスラのことばに、は、ちょっとムッとしたらしい。
「嘘じゃない」
時間的には充分、射程内だって確信してる。
そう云う声は、今までの淡々とした、無理に感情を殺してたものと違って、ちゃんと、ああむかっ腹立ってるんだな、と聞いている者たちに思わせた。
「そんな。どうやって? ここは地図にさえ載ってない島だし、結界が消えても共界線が世界との境をつくってることは変わらないのに」
「それはほら、どうにかして」
「答えになってないよ!」
半ば悲鳴じみた――けれど、込められた感情はそれまでと別物の――声に、もまた、とっくに取り直した気をさらに高めるように、きっぱり。
「成せば成るときに成ることは成るッ!!」
判じ物のような、ことば。
それで、ますますイスラの目が丸くなる。観客一行の目も丸くなる。
「……やってればやれるべきことにやりたいことはやれる?」
読書量の勝利か、想像力の勝利か。
口元に指を当てて一生懸命考えていたアリーゼが、幾ばくかの沈黙ののち、ぽつりとつぶやいた。生憎、出題者からの正否判定はされなかったが。
そうしてイスラはというと、
「じゃあ……そのときが来なかったら?」
と、至極当然の質問をし、
「来なくても来させる。前も云ったじゃない」
気に入らない明日が来た日にゃ、叩いて潰して蹴り飛ばす。ほしい明日は力任せで引き寄せる――って。
ああ、たしかに、遺跡でオルドレイクと相対していたときに、彼女はそんな啖呵を切っていたような。と、記憶を刺激された数人は、期せずして、次に紡がれたイスラのことばと同じ感想を抱くに至った。
すなわち、
「……無駄なくらいに漢気溢れてるよね……君って……」
はは、と、力なく笑ってそう零すイスラの額を、の指が軽く弾く。
「そりゃまあ。怒涛の人生送ってますからー」
主にあたしの主観時間でここ2年と何ヶ月かくらい。
心なしやさぐれた気分になったのだろう、わずかに顔を横に向けたの目は、真っ赤に充血していた。
頬を伝った何かの後が、太陽の光を肌より強めに反射させている。
「……約束?」
そこにかけられたイスラの声で、は再び彼の方を向いた。
「うん」
赤い髪が、頭の上下につられて揺れる。
「絶対?」
「絶対はないけど、絶対にする」
「嘘ついたらはりせんぼんだよ」
「……どこで覚えた、そんなの……」
どこぞの酔いどれ占い師がいたらば、にゃはー、とか笑ったかもしんない。
そんなぼやきはひとまず横に置き、は、「約束する」と、気持ち大きな声で云う。周囲の皆に聞かせようという意図も明らかに。
「ずっとずっと遠い明日のことになるけど、あたしはきっとまた、この島に来る」
だから。
「……それでは、いつぞ約束したそなたの着物、そのときまでに仕立てておいてやろうにな」
つと肩の力を抜いたミスミが、やわらかに微笑んで、のことばの先を奪った。
「まあ、“まだ逢わぬ”相手の着物をつくるなど、わらわも初めてじゃがの」
彼女のことばに、ふっ、と、一同から強張りが抜け落ちる。
「……悪かったな」
とイスラの間近まで歩み寄ったカイルが、ばつの悪そうな顔でそう云った。おまえはおまえの果たす責任ってのを持ってるだけなのにな、と。
そうだ。
そもそも最初から、交わることなど叶わぬ道だった。
その道が、再び、離れるときが来ただけだ。
「さん」
こちらは元の場所から動かぬまま、ヤードが声をかける。
「いってらっしゃい」
にこりと微笑む召喚主を見る翠の双眸は、嬉しげに細められていた。
「はい。――いってきます」
そしていつか告げるべきことばを、同時に胸に携える。