……どこかで見た光景だなあ、と感じることを、漢字三文字では既視感と書く。ルビを振るならデジャ・ヴュ。この発音が、また難しい。
そんな蛇足はさておいて、そのとき既視感を感じたのは、
「御用改めであるイスラ・レヴィノス――――!!」
叫ばれた当人と、当時彼を世話していた看護人形だけだった。
故に、砂浜にいた他の者たちは全員、
『は?』
と期せずして起こった唱和とともに、声が発されたほうを振り返ったのである。
ちなみに、既視感を感じたうちのひとりは腰かけていた木樽から転げ落ちかけ、もうひとりは、どうやら島に永住しそうな副船長とともに励んでいた裏拳修行の手を、思わず止めた。
そのために、そのふたりは数秒ほど遅れて、声の発生源……林のほうへと目を向けて、
「は?」
と片方は一人寂しく空しくつぶやき、
「なんでやねん」
もう片方はとりあえず、これぞ好機と裏拳を繰り出してみた。
盛大な注目を浴びながら、朝食放り出して林の向こうに消えた三人、レックスとアティと黒マントもといが駆け戻ってくるのを、一行は呆然としたまま出迎えた。
ほったらかされたままの食べかけがふたりぶん、まるまるがひとりぶん、それぞれ覆いをかけて、ちゃんと取りおきされているのだが、彼らはそれに目も向けず、砂浜に一歩足を踏み入れると同時、ざっ、と視線をめぐらせて、自分たちが雄叫んだその名を持つ相手を発見。するや否や、ほとんどロスを感じさせぬ勢いで、砂を蹴散らし猛ダッシュ。
「きゃ……っ」
進行方向にいたアリーゼが、あわてて横手へ逃げる。その目の前を、戻ってきた三人が走り抜けた。
一拍遅れて、ふわりっ、少女の髪が舞い上がる。
近くにいたきょうだい共々、呆気にとられた表情のまま、アリーゼは突風起こした張本人たちを目で追いかけた。
とたん、
「5時間ッ!!」
切羽詰った黒マント――もとい、の声が耳を打ち、飛び上がる。
自分が叱られているような心持ちで、アリーゼはあわあわ目をまわすが、その叫びを正面から聞く羽目になったイスラの混乱のほうが、もっとひどい。
「え? ご、ごじかん? なにが?」
実に見事なノーアクセントひらがな発音、なんか傍から見る限りじゃ幼児といっても通じるぞ。
周囲にひよこを躍らせながら、目を白黒させるイスラ。そこで、も、己のあんまりな勢いに思い至ったらしい。「あ」と、黒フードかぶったままの後頭部をぺしっとはたいて、たぶんその下で苦い顔。
続いて、深呼吸のような動作。アリーゼたちからは、黒い布地が持ち上げられたりおろされたりしてるように見えるだけだったけど。
そんなふうに呼吸と気持ちを落ち着けたあと、は、きょろきょろと周囲を見渡した。その視線が一点で止まる。……やっぱり、みんなと同じように、ぽかんとして疾走してきた先生ふたりと黒マントひとりを見ていた黒ずくめ召喚師――ヤード。
「ヤードさん」
「はい?」
首を傾げる彼に重ねて、は云った。
「あたし、帰る方法が見つかりました!」
「――え」
困惑混じりの穏やかな空気が、そこで一気に凍結した。
砂浜が瞬時にして静まり返り、その状態を保つこと数十秒。
喜色というよりは、どこか、やむを得ないとかやけっぱちとかいった感じだったの口調が、また、一行の思考停止に拍車をかけていた。
「な、何をいきなり……!?」
どこで免疫がついたのか、真っ先に復活したのはキュウマだった。頭の上部で結わえた髪を荒く揺らして己を取り戻すと、大股に歩いてへ詰め寄る。
表情は険しい。惑いと鬩ぎ合っているが。
「今がどういうときなのか、判って――」
いるのですか、と、続けられることばは徐々に小さくなる。尻すぼみ。
「なんで、どうしてだよ、ほんとにっ!?」
キュウマの後を追うように、スバルがに走り寄る。
何故ことばを途切れさせたのかと、常に傍らに在る鬼忍を勢いのままに押しのけて、黒マントの裾を掴んだ。
「帰るって……なんで!?」
「そうだぜ! 今みてえなときに、なんだって――無責任だと思わねえのか!?」
「カイル」
声を張り上げるカイルを、スカーレルが静かに制した。ご意見番のただ一言に、ぐ、と船長は黙りこくる。
無責任というのならば、何に対しての責任か。
問われ、答えられなかった故の沈黙だった。
「――かえる……?」
の正面にいたイスラが、そこで、ぽつりとつぶやいた。相変わらずのアクセントなし、脳に届いて反復しても、飲み込むには時間がかかっているようだ。……そうしたくないのかもしれないけれど。
「せ、先生」
「本当――なんですか?」
マルティーニの子供たちは、おそるおそる、自分たちの傍で足を止めていた先生ふたりに問いかけた。
レックスとアティは、何か迷うように子供たちを見下ろして、そうして、視線をへ転じる。
自分たちから聞くのじゃない、答えは彼女が告げるから、と。
「ナンジャナンジャ、唐突ジャナ」
外の騒ぎが聞こえたのだろうか、倉庫とおぼしき辺りの壁突き抜けて、マネマネ師匠までも姿を見せた。声を聞いても判るとおり、変身中。今の姿は翠髪のだ。
それを見たキュウマが、ちょっぴり嫌な記憶を刺激されたようで、苦い表情になる。
そうして彼以上の反応を、師匠に対して示したのが
「あ!」
――注目を集めていた、本人だった。
云うや否や身を翻し、今度はマネマネ師匠へ向かって一直線。
「何を昼日向っから外出てるんですか危ないじゃないですか戻らないと!!」
「オ、オイオイオイ??」
何故か、今日に限ってやけに師匠の体調を気にかけ、半ば実体化してる彼(彼女?)の腕をぐいぐいと引っ張って船に戻そうとしている。
「さささささ、戻りましょう戻りましょう、そこの日陰でもいいです、命が惜しかったら!」
「イヤ、ワシハ、今ノオマエサンニ対シテ、ムシロ命ノ危機ヲ感ジルンジャガ」
「うふふふふ、やーだなあ気のせいですよう」
「……コワ」
殆ど引きずるようにして船――の入口を外れて、一応は日陰である船体の向こうっ側に連れ込まれたマネマネ師匠の最後のことばに、一同、深く同意。
その耳に、こんなやりとりが聞こえる。
「さあ師匠、一発お願いします!」
「ナニヲ」
「お願いって云ったらアレです。これじゃヤバイ人もいるんですよっ」
「アー、ハイハイ。ソユコトネ。ジャ、失礼」
お願いとかアレとか、いったい何なんだ。
そんなこんなで何を云えばいいのやら、呆気にとられたままの状態を保つ以外に出来ることもなく、ただただ、船の入口を見つけて待機すること今度は数分。
船の陰から、まず、のまとってたマントが放り出された。直後、そのがひとりで戻ってくるのを見て、判る者は判ったし、判らない者は判らなかった。
「……」
判る者の最たる一人であるフレイズが、こめかみに指を当ててため息をついた。
「おい……なんで、急に、その姿――」
判ることは判るのだが、理由を読み取れぬヤッファが、無謀もとい勇敢にも問いを投げる。が、薄ら寒いものを感じたらしく、ことばは半ばにして途切れた。
そのシマシマさんをちらりと一瞥したは、赤い髪を風にさらわれるままにして、足を止め、仁王立ち。身体の後ろで手を組んで、足も軽く交差。ちょっと首を傾げて――というと、かわいらしい少女の姿が連想されるのだが、あにはからんや、現実は予想より恐ろしい。
「乙女はこまめに着替えるものですよ。――ねえ?」
――――絶対に嘘だ。
そうに云える者は、判る者のなかには誰もいなかった。
「なんじゃいな、奴ら」
「さあ……何かあったんでっしゃろか?」
判らない者(かつあの姿じゃヤバイ相手)代表であるジャキーニとオウキーニだけが、そんな、吹きつける闘気にも気づかぬまま、のんきに顔を見合わせていたりした。
ふたりをちらりと見て、一瞬、が安堵の表情を浮かべる。そして、すぐにそれを消し去ると、黒マント外してすっきりした身体をぐるりとまわし、砂浜にいた一行を見渡した。
持ち上げられる唇から零れることばを、誰も、予想することなど出来ず、皆、が切り出すのを待った。
己に集まる視線などものともせず、小柄な少女は凛と立ち(その実、膝がちょっぴし、ごく小刻みに、震えてるんだが)、告げる。
「帰る前に」、その切り出しで、彼女の意志は揺るがないのだと、聞いた全員が思い知らされた。「いろいろ、ちゃんと説明していこうと思う。はしょるけど、聞いて」
どうしても帰るのかと、そんな問いさえ許さない声で。
「信じても信じなくてもいい。出来れば信じてほしいけど、――あたしはこの時代の人間じゃない」
告げられたそれは、本当に、あらゆる意味で予想を許さないものだった。
『……は!?』
かろうじて声を出すだけの余力を残していた何人かが、大音声で唱和する。
「何人かには少し話したことがあるよね。あたしがヤードさんと契約したのは、界の狭間の向こうで迷子になってたから」
「……本当なの?」
「あ――え、ええ」
乾ききった喉を無理矢理湿らせて振り返ったアルディラの問いに、ヤードは、どもりながら答えを返す。
「界の狭間の……向こう?」
貴霊石を手にしたファリエルが、疑問符浮かべて首をかしげた。
ヤッファも、どこか憮然とした表情で、
「聞いたことねえな。なんだ、そりゃ。界の狭間の向こうに、まだ何かあるってのか?」
「うーん……」
シマシマさんの頭上にいたマルルゥが、首をひねる。
「界の向こうに狭間があって、マルルゥたちはそこを通ったですよね。それは道です、なら、この島でも道の外に野原や林があるんですから、何かあるっていうならさんの云うように向こう側っていうのがあるんじゃないかと、マルルゥは思うですよ」
「……」
ときたま、ヤッファは思うのだ。
こいつ、わざとボケてるんじゃないだろうな。と。
そんな意味合いの濃い視線、しかも複数を向けられたマルルゥは、「あややっ?」と、不意の注目に照れたように、ヤッファの鬣のなかに逃げ込んだ。
微笑ましい光景だが、今は誰の感情も、それを見て凪ぐことはない。
は続ける。
「原因はある意味事故で」、どこかうらぶれた感のある遠い目は、すぐ消えた。「だけどここに落ちたのは、自業自得。本当なら真っ直ぐ帰れてた道を、あたしは、越えきれなくて逸れたから」
翠の双眸が、潮風の当たらない位置に座っているヴァルゼルドへ、ふと動いた。
ラトリクスで起こったいくつかの出来事に行き合わせた数人が、納得の表情を浮かべる。強く見せた拘りは、それに由来するものだったのかと。当のヴァルゼルドは、軽く首を傾げて、の視線に応じていた。
「それで――」
視線をどこかへ動かそうとして、は、かぶりを振る。
「いくつかの場所や時間を、彷徨った。それから、ヤードさんの召喚術の道に行き合って、それを辿らせてもらって、今に出てくること、出来た」
ふと、子供たちは、自分たちの家庭教師を見上げた。
寂しそうな、だけど、諦めとは違うように思える感情を、視線と表情に等しく乗せて、レックスとアティはを見ていた。
そしてそれ以上に大きな――それは。信頼と、親愛と。いうのだろう……きっと。
「あたしをこの時代に留めてたのは、召喚術だけじゃなくて、幾つかの理由があった。それ、この島で過ごしてるうちに、ひとつずつ解けていってたんだ」
云いながら、はわずかに目を細める。
砂浜を照り返す陽光が、という感じじゃない。眼前で何かが弾けた、そんな感じの仕草。
「……今は、その召喚術しか、あたしを留めてるものがない」
「後、5時間ほどで、それも効力をなくすんだそうだ。そうなると、はまた、あてもない時間の迷子になってしまうんだって」
「運良く元いた時間に戻れるまで、出口の見えない迷路に引き込まれてしまうんです」
レックスとアティの補足に、場の雰囲気がざわつきはじめる。
たしかに、あてどなく彷徨って、偶然元の場所に出ることを期待するよりは、眼前にある確実な道を選ぶほうがいい。いいに決まってる。
だけど。
「そんな――急に、そんなこと、云われたって……」
どこか途方に暮れた様子で、ファリエルがつぶやいた。
それよりももっと小さな声で、
「……帰る、の?」
目の前に佇んでいる彼女の、服の裾。それをぎゅっと掴んで、イスラがへと問いかけた。
がイスラを振り返る。
ふたりの視線がぶつかった。
翠の双眸を、黒の双眸を、互い、どのように受け止めたかは判らない。
みるみるうちに、イスラの表情が歪む。
「……」
云おうとしていることは明白なのに、ことばに詰まって、イスラは口をぱくぱくさせる。
は辛抱強く、彼に声を出す力が出るのを待ってる。さっきの慌てぶりから考えると、そう、余裕はないはずだろうに。
けれど、存外、その時間は短かった。
「……帰ら、ないで」
搾り出すように告げたイスラの要請に、
「あたしは帰る」
是ではない、の答えが返るまで。