TOP


【慌しきはその後】

- 彼の見たゆめ -



 固唾を飲み、5人分の視線が集まるなか、注目の主であるイスラの瞼が小さく痙攣する。
「おお……!」
「イスラ!!」
 感極まった声をあげるギャレオ。
 それをかき消さんばかりの呼びかけを発したのは、アズリア。

「……ん……っ?」

 そうして、イスラの瞼が持ち上がった。
 ぱち、ぱち、と、緩慢なまたたきを数度繰り返したあと、貧血を起こした人のように額を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
 待ちかねたように、アズリアがベッドの端にとりついた。
「イスラっ、どこも痛くないか? 苦しくはないかっ?」
「……」こくり、と、彼は頷く。「へいき」
 まだ意識がはっきりしないのか、視線はアズリアへと向いているが、焦点は朧だ。
 けれども、その答えだけで充分安心の材料にはなる。
 アズリアをはじめ、そこにいた誰もが、ほっと胸をなでおろした。その瞬間。
「 」「だわー!!」
 つい、とイスラが動かした目が焦点を結び、その人物の名をつぶやこうと唇を持ち上げたと同時、その相手、もといは奇声を発してイスラに飛びかかっていた。
! 何をする!!」
「ちょ、ちょっと、?」
「イスラは病み上がりなんですから、手荒いことは……っ」
 非難ごうごうの周囲の声など何のその、目を白黒させているイスラの口を手のひらで塞いだは、その耳元に口を寄せ、
「その名前禁止。内緒。ヒミツ。これ以上混乱起こすの絶対ダメ!」
 早口に、だが確りと、そう囁いた上に目で訴える。
「……」
 呆然としていたイスラは、数秒ほどその状態で静止していた後、
「ん」
 ヒミツだね、と、少し嬉しそうに頷いた。
!」
 そこに響くアズリアの怒声。
 心配してた気持ちがそのまま、病み上がりの弟に手荒いことするへの怒りとして噴出したらしい。
 が、彼女が不埒者の首根っこを掴むより先に、イスラがの身体に腕をまわしてきた。
 当の弟がそんなことしては、さしものアズリアも強くは出れない。
「イスラ……」
 ちょっぴり悔しさをにじませて弟の名を呼ぶ姉を振り返ったイスラは、そっと笑ったようだった。
「夢を見たよ」
「……夢?」
 うん、と頷くイスラの動きが、くっついた身体からはっきり伝わる。ただ、からは彼の表情を見ることは出来ない。
 なんつーか、横抱きにされてるというか、なんかこれ抱き枕っぽい扱いじゃないかというか。振り払うのもあんまりだろう、さっきだって、別にそうしようと思って荒い扱いになったわけじゃないんだし。
 大人しくしてるか、と、苦笑いする頭上では、イスラが夢の中身を話し出していた。
「ずっとベッドにいた小さい頃のこと、変わらない部屋のなかのこと、姉さんが軍人になるって知った日のこと、……オルドレイクがやってきた夜のこと」
 とつとつ、告げる声は、意外なほどに落ち着いている。
「辛くて苦しくて、ただそれだけしかないと思ってた。置いていかれるだけなんだと、何も変わらないんだと、諦めてた」
「イスラ」
「でも、本当は違ってたね」
 を抱く腕に、力がこもる。
「窓の外から見える空は、毎日違う蒼だった。風も、草も、木々も、見るたびに、においを、姿を変えていた。姉さんも、逢うたびに、大人っぽくきれいになっていってたし……」
「イ、イスラ……」
 てらいのない弟のことばに、アズリアが、照れと惑いの混じった声をあげる。
「……忘れてたんだね。僕は、ずっと」
 自らに凝る闇と苦痛が、その視界をすべて覆って意識を閉ざして。
 見えていたはずの世界の色は失われ、すぐ間近に迫る死の気配だけが色濃く。
「きれいなものから目を逸らすことでしか、真っ暗なものから自分を守れなかった。弱い心で、ずっと逃げてた……」
 浮かべる空虚な笑みの向こうに、何もかも押し込めて道化になれと、ずっと自分に云い聞かせて。
「……イスラ」
 小さな震えがに伝わる。
 それは、他の誰でもない、今くっついている、イスラの震え。
 無理矢理首をひねって彼の顔があるだろう方向を向いてはみたが、イスラはその向こうを、アズリアやレックスたちの立つ場所を見ていて、こちらからはせいぜい、ことばを紡ぐ口に合わせて動く頬が見えるくらい。
「義務って、は云ったけど、僕はそれからも逃げようとしてた」
 真面目に云わないでほしいなあ、と、云った当人は少し遠い目。
 人間、勢いでかました発言ほど、後で思い返すと床をのたうちたくなるものだ。
 それは、今までムチャクチャかましたイスラだって同じはずだろうに、彼は臆することなく、その真意を告白してる。そんなイスラの、どこが弱いと云うんだろう。
「死んでしまえば、苦しみからも姉さんの涙からも、……そのために出した犠牲からも逃げられると、終わりに出来ると、思ってた」
 でも。
 夢を見たんだ、と、イスラは繰り返した。
「思い知ったよ。結局、自分が自分を救えないままじゃあ、たとえ死んだところで次に進むことも出来ずに蹲るだけなんだって」
「それは――どんな夢だったんですか?」
「……」ちょっとだけ、間を置いて。「ずっと泣いてた魂を、連れて生まれた誰かの夢」
 たぶん、イスラは笑ったんだろう。
 そして、は見事フリーズ。ぱきーん。
 なんだなんだなんなんだ、今のイスラのセリフに感じるクソこっ恥ずかしい既視感は。つーか見たのか知ってるのか、つーか、何故!
「……そうか。本当に、どこかから、おまえに伝わったのかもしれないな」
 しみじみ、と、慄くの心境など知らぬアズリアがつぶやいた。
「世界が、おまえに、生きろと云ったのかもしれない」
 やめてください、そう真面目に解釈するのは。なんかすっごく泣けてくる。
 実際、誰もいなけりゃ滂沱してたろう。熱くなる目頭を抑えることも出来ず、は気づかれぬよう、毛布に顔を押しつけて耐え忍ぶ。
「僕は弱い」
 とつ、とイスラが云いきる。
「逃げようと足掻いて逃げ切れなくて、あのときも、いっそ紅の暴君にすべてを奪われれば、いや、こうして起きるまででだって、何もかも忘れたらどれだけ楽になれるだろうかって、まだ逃げようとしてた」
「……イスラ、それは」
 僅かに惑いをにじませて、ギャレオが云った。ただ、彼はそれ以上を形にすることが出来なかったらしく、それきり黙ってしまう。
 ぽっと生まれた沈黙を、そこでが破る。
「いいんじゃない?」
 と。
 なんかもう、あちら様をまともに見れない気分だったりするので、毛布をじっと見つめたまま。
「忘れて楽になれるなら、いいんじゃない? ……まあ、消えるわけじゃないんだから思い出す可能性あるし、そのときその分、反動が素晴らしいと思うけど」
「身も蓋もないです、
 どこか気の抜けた声でアティが云う。けど、それ以上何も云わないところを見るに、否定するつもりではなさそうだ。
 まあ、要するにそうなのだ。
 いくら忘れようとしたところで、行なったことや得た記憶がリセットされるわけでもない。幾つもの積み重ねの先に誰もは立つのだから、それなくして自分が在るなんて、どうして確固と信じられよう。
 ……忘れても。きっと、求める。そのままでも幸せを感じていたとしても、いつか、自分の礎を求める。
 かつてのもそうだったし、イスラだって、忘れたとしてもそうしてたろう。忘れているが故に、求めることへの不安や拒絶は少ない。その分、気持ちは強いだろうから。
「でも、忘れなかったんだね」
 ふとレックスが云った。
「うん。忘れたくないことだって、たくさん、あったから」
「そうか」
 レックスは笑う。イスラは弱くなんかないと思うよ、と付け加えて。
「……ありがとう」
 素直に礼を述べ、イスラがそこで姿勢を正す。
 しゃん、と伸ばした背。視線もまた真っ直ぐに、アズリアやレックスたちを見てるのだろうか。
「でも、僕は強くない。――だから、一度だけ、訊きたいんだ」
 この一度だけ、紡ぐ問いへの答えをもらえたら、それを糧に出来ると思う。
「構いませんよ。何を訊きたいですか?」
 アティがそう促して、イスラは、ひとつ、頷いた。
 僕は、と。
 今までより少し小さな声で切り出しかけて、一度口を紡ぐ。はっきりした声を出したいのだろう、深呼吸してるのがにも伝わった。
 そして、イスラは問いかける。

「――僕は、生きていてもいい?」

 ずっとずっと、長い間。
 父にも母にも姉にも、誰にも訊けなかったこと。
 何よりも訊きたかった問い、だけど、これを否定されたら這い上がることも出来ない深淵に落ちていく気がしていた。
 訊きたくて、訊きたくなくて。

 だけど今。訊かなければ、留まりつづけるだけだから。

 得られる答えが肯定でも――否定でも、受け止めようと、今は思える。

 鳩が豆鉄砲をくらったような、そんな感じで目をまん丸にして固まったベッドの傍の面々を見つめたまま、イスラは静かに答えを待った。
 が、
「……っ」
 そのなかの誰より先に、もぞり、と、腕に抱いたままの少女が動く。
「この期に及んでまだそんなこと云うかあんたは――――!!」
「痛ッ!?」
 不自由な体勢から、腕一閃。
 振るわれた肘は容赦なく、イスラのわき腹をどついていた。
! おまえ、さっきから人の弟を……!!」
 硬直を解いたアズリアが、どつかれた場所をおさえて蹲るイスラから、少女をひっぺがす。
 イスラの手は腹をおさえるのに使われているため、彼女はあっさり、獲物よろしくアズリアの前にぶら下げられてしまった。
 が、そこはやはり彼女というか、
「何云ってるんですかアズリアさん! あれでどつかないほうがどうかしてます!」
「どうかしてるのはおまえの頭だ! イスラが傷物になったらどうする気だ責任をとれるのかッ!?」
「ああもうアズリアさんって本当に弟に弱いなあ! ていうかむしろあたしの方が傷物なんですよイスラのせいで! 傷痕増えたんですよ!?」
「――う……! そ、それは……、……っわ、私が責任をとろう!!」
「無茶です、っていうかなんでそうなるんです!? 大体、あんなたわけたこと云う相手はどつく、これがうちの家訓ですよ今決めた!」
「そんなものは家訓とは云わん!!」
 最初のうちこそ、語調は強いものの比較的抑えた声で云いあっていた女傑――って云っても差し支えないだろう、全然――ふたりは、云い合ううちにどんどん感情が昂ぶってきたようで、後半なんぞ、半ば怒鳴り合いめいたものになっていた。
 実はわりと痛かったわき腹をおさえたまま、どうしたらいいんだろうかと途方に暮れるイスラの目の前で、レックスがアズリアを、アティがを引き離す。
「はいはい、それはまた今度」
「今は夜ですから、静かにしましょうね」
 苦笑混じりのふたりのことばに、アズリアとは「う」と同時に口ごもった。
 呆れた顔で一連のやりとりを見ていたギャレオが、ふと、共に取り残された感のあるイスラを振り返る。
 堅物実直一辺倒、どうしても嘘などつけぬ性分である副隊長の視線に気づいてそちらを見上げると、彼は、表情どおりの呆れた声でこう云った。
「あれが答えだとは思わんか?」
 それにイスラが答えるより先に、との睨み合いを打ち切ったアズリアがこちらに目を戻した。
 真っ直ぐに、祈るように願うように、そうして姉は弟へ告げる。
「生きてくれ、イスラ」
 それから、アズリアはレックスの腕から自分の身体を引き抜くと、自由になった腕で、の肩を叩く。
 弟のかたきのつもりか、ちょっと力が入りすぎたようだ。「あたっ」と、の悲鳴。
 ちょっぴり涙目になりながら、行為の意図を察したもまた、イスラを見た。
「生きようよ。っていうか生きれ」
 朗らかな笑顔と鬼気迫る声で告げられて、思わず背を反らしてしまう。
 それを和らげるかのように、レックスとアティが、苦笑いのち微笑みをつくって向き直る。

 ふたりがそうして形作ることばに、また、イスラも笑みを浮かべた。

 ――そんな、夜も夜中に大騒ぎの一室を気にかけ、目を覚ました人たちがわらわらと集まってきてしまったのは……ま、ご愛嬌。


←前 - TOP - 次→