「……諦めないでよ」
――諦めたもの。
「いないほうがいいなんて、云わないでよ」
「……」
昂ぶった感情が、そのまま涙腺を直撃した。哀しいわけじゃない、ただ、どうしようもない熱が、胸を襲ってしょうがない。
イスラの襟首掴んだまま、ちょっと頭押されれば額がぶつかりあいそうな距離だった。そんな間近で泣き顔見られるのはちょっとごめんだ、と、頭の冷静な部分が考えて、は、こうべを垂れる。
落とした額は、眼前の相手の胸へと当たる。
「ここまでしっちゃかめっちゃか、やる根性があるんなら、死ぬんじゃなくて生きるほうに、それ、使おうよ――!」
「イスラ」
うろたえた様子のイスラの肩に、手が乗せられる気配。声からして、たぶんアティ。
「ひどいと思っていい、嫌って憎んでいいです。――どんな理由があっても、わたしもレックスも、けっしてあなたを殺してあげられない」
でもね、と、彼女は続けた。
「これだけは、判っていて。あなたがどんなに必死になって嫌われようとしたって……あなたがいなくなって悲しむひとは、あなたが思う以上に、ずっとずっと、確り、ここに存在しているんだよ」
その手に促されるように、イスラの首が横手を向いた。小さく、身体が震える。
俯いたままの体勢から、も同じ方向に目をやった。
――泣いている、そのひとが視界に入る。
背を撫でてやっているレックスの傍ら、ぽろぽろ、ぽろぽろ、とめどなく頬を濡らしつづけるひとが、そこにいた。
「ねえさん……」
嗚咽をこぼすその人に、イスラは呼びかける。そこへ行こうと身を起こしかけたのを知って、は手を放したけれど、彼は、立ち上がろうとしたそのまま、がくりと膝をついた。
身体中の力が、もう、抜け落ちてしまっているのだろう。戦闘や魔剣が砕かれたからだけでなく、ぶつけられた感情の渦によっても。
「ねえ、さ……泣かないで、ねえさん……っ、お願いだから――」
“泣かないで”
幼い頃そうしたように、今、また、彼はつぶやく。
ただ、それをもう見たくなかっただけなのに。自分のことなど忘れて、笑ってほしかっただけなのに。
鞘におさめた剣から伝わる思惟は、何故か、紅の暴君が砕ける前より鮮明だった。
間違いようなど、ない。
何故かは判らないけど、イスラの感情が、わずかにへ流れ込んでいる。
媒介は白い剣。――所持している間に、彼は何か施したのだろうか?
発生した疑問を解くような余裕、今はないけれど。
「……やり直そう。イスラ」
今度は、俺たちも手伝うから。
アズリアの背に手を置いたレックスが、目を腫らしたまま、微笑んだ。
一緒に見つけましょう、と、アティが続ける。
「呪いをといて、元気になって、もっともっと、たくさんの幸せを見つけ出していける方法……」
「――――」
まばたきをすることさえ忘れたように、イスラは目を見開いて硬直していた。
それは、どれほどの時間だっただろう。
いらえを待って、誰もが、彼を凝視した。
……闇がにじみ出るに、それは充分な空隙。
戸惑いながら、怖れながら、――それでも、イスラが頭を動かす。
のろのろとした動作は、はっきりと、上下の動き。
「――うん……っ」
瞬間。
誰もが安堵を瞳に宿し、
「ぐ――ッ!?」
瞬間。
噴き出した鮮血に、誰もが意識を凍結させられた。
イスラの間近にいたにとって、その惨状は眼前で繰り広げられる。彼の吐き出したそれで、身体のそこかしこが赤く濡れた。
「――イスラ!!」
だが、それが、を硬直から解き放つ。
咄嗟に肩に添えた手に気づいているのかいないのか、イスラは、驚愕を露に、自らを濡らす赤を見下ろした。
「ち……血……っ? なん、で……?」
服のそこかしこに滲むそれは、口から出た分だけではあるまい。皮膚を突き破って出血している。
全身あますところなく、その現象は起こっているようだ。
痛みも当然あるのだろうに、だが、驚愕故から、彼の感覚は麻痺
「ぐふッ!」
していた時間も、きれた。
「ガっ……ギ、あ……あああぁぁァァアアァァあぁぁぁッ!!」
絶叫とともに、イスラは床をのたうちまわった。だが、それでは残り少ない体力がなお消耗してしまう。
「イスラ!!」
「しっかりしろっ! しっかりして、イスラ、イスラっ!!」
とアズリアが同時に伸ばした手も、だが、悶えるままに跳ね除けられる。
「どいてください!!」
ふたりを押しのけて、ヤードが、召喚石片手に割り込んだ。
早口に呪を唱え、舞い下りた聖母が癒しの光をイスラへと注ぐ。
これで、と、ほんの一瞬生まれた安堵は、だが、次には失望と驚愕に変わり果てた。
「ぐ、う……ッ」
どんどん広がる赤い染みも、真っ青になっていくイスラの表情も容態も、なんら、改善が見られない。
バカな、と、掠れた声でヤードがつぶやく。
「召喚術での治癒が、追いつかないなんて」
「血圧、体温、ひどい勢いで下降しています。このままでは確実に、患者の生命活動は停止いたします……!」
そう叫ぶクノンも、だが、手の施しようがないのだろう。
彼女の傍らを抜けたカイルが、いささか乱暴に、手のひらをイスラに押し当てた。
淡く零れる光――ストラだ。
が、そもそもストラとは己の気を精練して与え、傷の回復を促進する術。そのための体力が傷を負った本人に充分なだけ残っていないのでは、ほとんど役に立ちはしない。
ちくしょう。うめいて、カイルは悔しげに唇を噛んだ。
「に、ニコニコさぁん……!」
随分と懐かしい気のする呼称を、泣き出しそうな声で呼びながら、マルルゥが忙しなく飛び回る。
ふ、と、闇が嗤う。
「ふはははははは……」
昏く、低く。
地の底から侵蝕するような嗤い声。
「!?」
この場の誰が発するとも思えない声に、一同は視線をめぐらせる。嫌な予感に胸を苛まれながら。
……そうして。
嫌な予感というものは、本当に、当たるときには当たるもの。
「無駄だ無駄だ! 足掻いたところでそれの命、もはや助かりはせんぞ!」
高らかに断言し、姿を現した声の主は、まさに、予感に違わぬ相手であったのだから。
「――オルドレイク……セルボルト……!」
誰かが、愕然と、その男の名をつぶやいた。