パン、
乾いた音が、そうして響いた。
「わ」
「っ!」
反射的なものだろうか、何人かが身をすくめる。
だが、覚悟した痛みは彼らにはない。
――当然だ。
を押しのけて腕を振り上げたレックスの前にいたのは、イスラ。その手のひらを叩きつけられたのは、イスラの頬なのだから。
「……」
滂沱と零れていた涙が、その衝撃で止まったらしい。慟哭もどこへやら、ぽかん、と、イスラはレックスを見上げて、それから、のろのろと、叩かれた頬に手を当てた。
「ぶ――ぶった……っ」
どうして、と。視線が問いを訴える。
それを真っ向から組み伏せんばかりの強さで、レックスはイスラを見据えて告げる。
「謝るんだ」
今すぐ。
お父さんやお母さんやお姉さんに。
だが、イスラはまだ、混乱の極みにいるようだった。
「――なん、で」
叩かれた理由も、謝罪を要求される理由も、判らないと。
ただ呆然としたままの彼に、また、レックスは腕を振り上げる。
が。
その傍らから、先んじてアティの手のひらが伸びた。
――そしてまた、乾いた音が響く。
「うあ……っ!?」
「ぶたれる理由も判らないで、あなたはあんなひどいことを云ったんですか!?」
ぐらりとよろめいたイスラだったが、どうにか、倒れる前に手をつくことに成功していた。
そこに、アティが怒鳴りつける。
「生きてちゃいけない? 呪われた要らない子ですって? 誰かがあなたにそう云ったんですか? 違うでしょう? そんなの、あなたが勝手に思い込んでるだけじゃないの!!」
ことばが進むにつれて、彼女の声は、ひきつったものになっていく。イスラを見つめる双眸は、彼に負けず劣らず、涙に濡れていた。
呆然と、イスラの唇が持ち上がる。眼前のふたり――レックスとアティを忙しく往復しながら。
どうして、泣いて、と、つぶやいたようだった。
「君のためじゃない。アズリアが、君の家族が、かわいそうだからだ……っ」
レックスが、うめくように、それに答えた。
「自分の子供を、弟を、うとましいって思うはず、ない――」
望まれない命なんか。
消えていい命なんか。
そんなの、ひとつだってないはすなのに。
「どうして判らないの……必要とされていないなら、あなたは、とっくの昔にひとりぼっちになってるんだよ!?」
叩きつけられる激情、否定ではない、なら、これは何という名の気持ちなんだろう。
「――あ」
それでも。
どうしたらいいのかと、彷徨わせたイスラの目は、手持ち無沙汰で突っ立っているを見つけた。
涙こそ零してないけど、彼女の目は、真っ赤に充血している。
それも、レックスやアティと同じ理由だというのだろうか。
「イスラ」
覚えているのとは違う、やはりどこかが突っ張ってるような声で、はイスラの名を呼んだ。……ゆっくりと、口の端持ち上げて。
だが、緩慢な動作はそこまで。
次の瞬間、さきほどのレックス以上の素早さで、はイスラの前に片膝をつくと、そのまま乱暴に襟首をひっつかんだ。
「殴るのはもう充分だろうから勘弁しとく。でも、云わせろ。あんた、自分がどれだけ寝とぼけたこと云ってるか判ってんの?」
「――っ」
レックスとアティの叫びがこたえてるのか、単にの気迫に圧されてるだけか。
判らないまま、イスラがごくりと唾を飲み込んだ。
「いなきゃよかった? 死ねばよかった? ふざけないでよこのバカ」
浮かべた表情そのままに、の語調は苛烈だった。
「それじゃあたしはどうなるの、あんたがいなかったら、ずっとずっとあの港で途方に暮れてたかもしれない、あたしはいったいどうなるっての」
「でも」、
「でもじゃない!」
僕と逢わなければ、こんな島になんて来なくてよかったのに。
紡ごうとしたことばへ先んじて雄弁に語る、イスラの視線。それを受けて、が爆発する。
「何がみんなを不幸にする、よ! 誰だって生きてる限り誰かを蹴落としてるのよ! 生き物殺して食べるし水は汚すし戦争なんてあちこちであってるし召喚術なんてそのいい例じゃない! んなこと云ってたらみんな死ななきゃいけなくなっちゃうでしょうがッ!!」
「……乱暴な理論だわ」
「正論、ではありますね」
スカーレルとヤードが、ぽつりとつぶやいた。
だが、感想を述べられたは、それが届くような状態ではない。
「それでも生きていくのが権利で義務! 何かの犠牲を知ってるなら、死ぬなんてその何かに対して最ッ大の侮辱だ! そんなして途中で投げ出すなんて真似、たとえあんたが願ってたってね、あたしの目が黒いうちは絶対させないんだから!!」
「……ぎ、む?」
ぽつり、疑問符浮かべてイスラが復唱する。
権利なのだから投げ出す自由もあるのだと、だから、そうしたかったのだと――
だが、のセリフに首を傾げたのは、周囲の一同も同じ。
命の権利という話なら、聞く。自分の権利を主張するなら、相手の権利も主張せよ。大事にしようとは、そういう観点からではないのかと。
けれども、
「義務よ」
は、きっぱり、云いきった。
「それから権利」
「産んでくれたお父さんとお母さんにもそうだけど、何より、生まれてこようって思ったいっちばん最初の、自分に対しての義務。まっとうするために生きて歩いて、それからの話よ、権利なんてもの、誰かに胸張って云えるのは!」
――――
―――――――――
……たとえば。
たとえば、それは潮騒のように。
たとえば、それは子守唄のように。
遠く、優しく、包み込まれていた記憶。
眠る我が子をいとおしみ、胎をなでる母の手。父の手。
早く生まれておいでよ、
早く出逢いたいね、
手を取り合って、歩いていこうね、
まどろむ小さな命へ、優しく語りかける声。
……それに応えるように、子は胎を蹴る。
早く逢いたいね、
早く家族になりたいね、
……その声の元へ行きたいと、願って。
願うから――狭く暗い道を懸命に、進み、いずる力を、子は持つのだ。
たとえ疎まれるかもしれない不安があっても、
たとえ忌まれるかもしれない恐れがあっても、
この世界に、生まれようと願うから。
だから、誰もは、生まれるために足掻くのだ。生きるために生まれるのだ。
きっと。それが、それこそが。
誰もが、一番最初に抱く願い。