――欲しかったもの。
――あきらめたもの。
手に入れたかったもの、握りしめたかったもの、抱きとめたかったもの。
手放したもの、突き放したもの、捨て去ったもの。
…………望み、そして絶った、願い。
夢だろうか。
ああ、間違いなく夢だろう。
だって、自分は、こんな男性を知らない。
赤紫の髪、よく鍛えられた体躯。鋭い眼光は、だけど、優しく視線の主を見てる。
その男性に伸ばした視線の主――自分の手であるはずのそれは、だけど、本来あるべきものではなくて、ひとまわり以上小さかった。
「――――様」
視線の主が、男性に呼びかける。けして、自分の意志で行なおうと思ったのではなかった。
……感覚としては、誰かのなかから視界を共有しているというものだろうか。それ以上の何かは出来ず、また、しようとも思えないが。
「どうした?」
と、男性が応じる。
「――さんが云ってたんです。……召喚術で喚ばれたものは、召喚した本人じゃないと帰せない、って本当ですか」
「……ああ。そうだな」
視線の主は、僅かな間ののち返された肯定に、落胆したようだった。
「じゃあ、あたしは、召喚したひとが誰か判らないから、帰れないってことなんですよね?」
召喚されたのだろうか、この視線の主は。そして、召喚主が不明ということは、ことばのとおりの事態であるということか。
声はまだ幼い。そして、どことなく湿り気を帯びている。
けど、それだけ。
我を忘れるほどには取り乱してもいいだろうに、だが、そんな様子は見られなかった。
「……」
「――――様」
少しだけ。少しだけ視線を逸らした男性に、視線の主は詰め寄る。
それに負けたか、男性は、いささか眉根を寄せて頷いた。
「そうだ。おまえには酷かと思って、云えなかった。すまんな」
軽く頭を下げた後、それにしても――め、もう少し云い様を考えればいいものを、と、しかめっ面になる男性。
そんな相手を見て、視線の主は小さく笑う。
「ううん。召喚術の仕組みを訊いたのはあたしだし、――さんは教えてくれただけです」
ちょっとだけ泣きましたけど、いっぱい遊んでくれたから、もう元気ですよ。
……ちょっとだろうか、と。生まれた疑問は、おそらくあちらとも同時。いぶかしげに首を傾げる男性の仕草は、まるでこちらのそれを代弁してもらっているようだった。
それから、視線の主は続ける。
「帰れる日待って、長い間待って、それで判ってショック受けるより、今のうちに教えてもらったほうがよかったと思います」
期待を積み重ねて、挙句崩壊させるより、ずっといい。
そういう意味なんだろう発言に、自分の胸の奥、僅かに凝りが蠢いた。
――期待があった。望みがあった。
いつか治る、いつか起きれる、いつか立てる。……それが途絶えたのは、いつだったろう。
「そうか。おまえは強いな」
男性が笑んで、手を伸ばした。頭に触れたようだ。
視線の主は嬉しそうに声をあげて両手を持ち上げると、髪を乱す男性の手に触れた。
「強くなんかないです」
と、云いながら。
「強いなら、――――様ですよ。力はあるし、剣とか凄いし、えっと、大きくて堂々としてるし。あたし、――――様みたいになりたいな」
「……いや、俺のやり方は、おまえには向かんと思うぞ」
苦笑して、最後に一度、とん、と弾みをつけて叩いたあと、男性は手を引き戻した。
笑みから苦いものが抜ける。何か、面白いことでも思いついたのか。
「剣術はともかく、力と体格はな。男と女ではどうしても差が出る。……それに、おまえは同年代でも小柄なほうだからな」
「うわ! ひどいです、――――様!!」
肩を怒らせる視線の主を見て、男性は「ははは」と破顔した。
それから、
「難しいかもしれんが」
前置きして、笑みを消し、真摯な表情で向かい合う。
「強くなりたいのなら、強く在ろうと常に心得ろ。目標は遠くてもいい、どうせなら手が届かぬくらいのものにしろ」
「……。じゃあ、やっぱり――――様にします」
「……それは考え直せと云いたいがな、俺としては」
「嫌でーす」
頑として考えを曲げぬ答えに、男性は、また、苦笑。
が、
「でも、手が届かないなら嫌になっちゃいませんか?」
首をひねりながら投げられた問いに、「だからこそだ」と、改めて応じる。
「比較は辛かろう。道程の遠さに音をあげたくもなろう」
だが、と、男性は告げる。
「それを認めれば己が見える。今と昔、判り易く云うならば今日と昨日。そこに僅かでも変化があると知り、それを前進ととらえられるなら、迷うことはない。いや、迷いさえも糧になり得る」
「……わかりにくいです」
「そうだろうな」
視線の主を見る男性の眼は、優しい。
ふと気づいて、髪より少し濃い、その双眸へと意識を凝らした。そこに映る姿、視線の主が見えるかと。
「到達点は通過点だ。本当の意味での終わりなど、命終わるときでさえ得られるかどうかだと俺は思っている」
――そうして見えた、
「死んだら、終わりじゃないんですか?」
「命の終わりが意志の終わりだとは思わん。我が国、軍の精神は……まあ、ここだけとは限らんが、それらはそれこそ、かつての先達の志」
「え……えぇっと?」
「……まあ、あまり考えるな。おまえが歩みを止めぬ限り、答えはいつか生まれるだろう」
姿は、
「えーと。命の終わりは、心の終わりじゃないんですね」
「ああ」
「……でも、心が終わったら?」
茶色の髪と、夜色の瞳。
「さてな。……何をもって、心の終わりだと、おまえは考える?」
「え」
年のころは、十かそこら。
さっきまで目をぐるぐるまわしてた視線の主である少女は、口元に拳を当てて一生懸命に考えていた。
「心。……心。えーと……考えたり、何かしようって思うのが心。それをやめたら終わり――」
「……」
「って、無理です! それは無理だと思います! だって、えーと……っ」
「そのとおりだ」
その叫びのいわんとするところを、男性は容易に悟り、笑んだ。
「すべからく、行動は己の意志により行われる。ならば何かをなそうとする限り、たとえ己から終わりを望む行為とて、真の意味での終わりになどならん――……」
と、云いかけたところで口を閉ざし、
「……話がずれたな」
ぼやく男性の真面目な顔が、よほどおかしかったのだろう。少女は、口元をおさえてくすくす笑い出した。
それから、男性が何か云うより先に、その手をとって握りしめる。
「だいじょうぶです、――――様」
そうして。
少女は笑ったのだろう、たぶん。
心なし狭まった視界の向こう、男性は怪訝そうに首を傾げていた。
「お父さんもお母さんも、あたしも、だいじょうぶです。……だいじょうぶ。帰れなくても、帰る日がいつかあるって思います」
それは、なんて果てのない、なんて救いのない。
――そう、思った。
男性も、そう考えたのだろうか。いたましげな表情になって、口を開きかける。
それを遮って、
「人間、生きてるだけで儲けもの。なせばなるときになることはなる! って、お母さんのほうの伯父さんがよく云ってました!」
「…………」
いやもう。
元気元気も大元気に、云われてしまった男性は、
「そうか」
と、吹き出すのをギリギリでこらえてるっぽい顔になって、ただそれだけ答えて立ち上がる。
「――――様?」
不思議そうな少女の声に、応えて差し延べられる大きな手。
「せっかくの休みだからな。室内で話し込むより、外の空気も吸ったほうがよかろう」
いつかおまえが云っていたブランコも、ついでにこれから取り付けるか。
「はい!!」
少女は、一も二もなく、その手のひらに飛びついた。
ああ。
それは、遠い遠い彼女の記憶なのだなと、微笑ましくなるのと同時、
「……ひどい、な」
つぶやいて、片膝を立てたまま、いつしか眠り込んでいた己を恥じるようにして顔を持ち上げる。
持ち上げきる前に力を抜いて、ふ、と、顎を腕に乗せた。
「ひどいな――」
再度、つぶやき。
けれど形になったのは、前半のみ。後半は、ただ呼気になって零れただけで、ただただ胸にわだかまる。
思っても、考えても、それは、ならなかった過去。
あの子に出逢った最初、ほんの少しだけ空想した、ありえない昔。
――傍に。いてくれたら。
同情でも哀れみでも慈愛でもなくて、ただ。ただ、今の夢みたいに元気よく、自分の苦境も相手の苦境も吹っ飛ばして笑えるような、そんな君がいてくれたら。
……諦めずに、在れただろうかと。
無意識のうちに、心臓あたりの服を固く握りしめ、イスラは昏いため息を零していた。