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【無色の派閥・3】

- その名じゃない -



 ――記憶は暗がり。
 とても軍の遠征中とは思えぬ、やわらかなベッド。そこに彼女を横たえた男は、云った。
「失望したぞ、紅き手袋」
 ことばの真を示すように、その夜の男は暴力的だった。妻であるかの女性は、それを知っていて何も云わない。いや、黙認どころか肯定している節さえもある。
 ……まだ男の機嫌が良かった頃、戯れに彼は語った。
 少しでも優秀な手足を得るために、あらゆる可能性は試されるべきであると。
 要するに、そういうことなのだ。
 紅き手袋としての任務遂行を考えれば、身重はただの負担でしかない。けれども、雇い主の意向に背くもまた大罪。いや、それ以前に彼女の身体は――――男はそれを承知しているのか、いないのか。……どうでもいい、ことではあったのかもしれない。
 どちらであっても、男の行動は変わらぬだろうから。
 白いシーツに赤茶の髪と漆黒の髪が乱れる間、彼女はいつもどおり、どこか虚ろな眼差しで虚空を見上げていた。

 ――……ェル、さん?

 そうして。
 男が達する瞬間だった。
 頂点を迎えるそれに引きずられるように、彼女の脳裏にも雷めいた閃光が弾ける。……その瞬間だった。

 ――澄んだ翠。
 ――細められた双眸。

 遠い、遠い――闇のなかからでは届かぬ光に置き去ったはずの、それを。
 呼ばわり、そして微笑んでいた少女の姿が。

「……!」

 どうしてだろう。
 浮かんだ瞬間、黒と混ざり合う自分の赤茶を、引き剥がしてしまいたい衝動に襲われたのだ――


 男は云った。
 “次の失態はないと思え”ただそれだけを彼女に告げた。
 ――その先は云わずとも判るだろうという無言、そして、彼女はたしかに理解している。
 比肩する者なしと云われた暗殺組織、紅き手袋。
 それがどうだ、この島に着いてから。多少武術を習い召喚術をかじった程度である民間人にいいように弄ばれつづけている、これを失態と云わずして何と云う。
 悔しいというのとは違う。
 組織としての信用を落とすようなことになれば、紅き手袋は彼女を許すまい。未熟な彼女を罰するため、また鍛えるために、これまで以上の過酷な“訓練”が用意されるはずだ。
 ……いや。
 それを厭わしいとは思わない。
 自分は、組織でしか生きていけぬ暗殺の部品。人というものではなく、命令を遂行するだけの歯車のひとつ。
 だというのに、その歯車としての生き方すら出来ないでいる。
 それ以外の生き方など知らぬ自分は、この生き方をまっとうせねばならない。
 そのために、障害となるものはすべて排除する。
「――――ッ」
 排除しなければ、
「ねえ」
 ならないのに。
 黒いフードをすっぽり被った少女は、唯一覗かせた唇を動かして、彼女へ語りかける余裕さえ見せているのだ。
「投降しませんか?」
「――――」
 沈黙のまま、横薙ぎの一閃を繰り出した。
 それを、少女は予想していたように受け止める。
 いつかあの平原で戦ったときとは違う。技量自体がこんな短期間で目覚しく上がったというわけではない、違うのは、手に持つ獲物。
 ――白い剣。
 淡く輝くその刃は、彼女の剣を受け止め、そして押し返す。
「実に失礼なんだけど、今のあなたじゃあたしには勝てないんじゃないかなと」
「――」
 利き手は大きく振りぬいたまま。
 そこへ踏み込もうとした少女へ、逆の手に抜き放った短剣を閃かせ、突きかかる。
 だがそれも、少女は予想していたらしい。胴を真っ直ぐ貫くはずだった短剣は、残像とともに残された黒いマントを空しく抉ったのみ。
 あまつさえ、その刃にマントが巻きつく。
 彼女らは武器を惜しむようなことなどしない。すかさず手を放し、短剣は奪われるままにした。
 少女は舌打ち。短剣を床に投げ、人のいない方向に蹴り飛ばした。
「ねえってば」
「煩いわ、あなた」
 ことばを遮りそう云いきって、彼女は再び少女へ肉迫。
 合は数えなおして十数度。
 ――やはり、少女は彼女の剣捌きを知っているようだ。本来の動作も然り、時折入れるフェイントも然り、対応に揺らぎがない。
「く……」
 踏み込む。
 その瞬間、白い刃が煌いた。
「!」
 それは護身の本能というのか、ほんの僅かに出が鈍る。その鼻先を、少女の剣が薙いでいった。
「うわわわっ」
 何故か少女のほうがあわてて、腕を引っ込める。
「あ、危ないなあ! ちゃんと避けてよ!」
「……何を云っているの」
 さすがにこれには呆れた。が、
「避けれるでしょ、あれくらい! あーもうぞっとした!!」
 深く被ったフードの奥、本気で蒼ざめてるんじゃないかといった態で少女はわめく。
 まるで、彼女の技量を把握しているようだと思い――不快感が湧き起こる。
 それはそうだ。
 この島に来て初めて顔を合わせた相手、その腕をどうしてこうも知ったように振舞えるのか。たしかに彼女は感情というものの動きに乏しい自覚はあるが、さすがにこれは無視出来ないものがある。
 侮り、と結びつけるに、これほど容易な成り行きもあるまい。
「……あれ。怒った?」
 雰囲気に険が混じったのを察したか、少女が僅かに首を傾げる。
「いや、でも……うん。まだまだ伸びるよ、パッ、違うヘイゼルさん。だからくじけないで精進……されても困るな、今の立場じゃ」
 何を云っているのだろうか、この少女は。
 もしや、一見まっとうな振りしたその実は、頭のネジがふたつみっつ、余裕で抜け落ちてたりするのではなかろうか。

 そして何より、――黒と赤茶の混じった夜、この娘に対して背徳感めいたものを覚えてしまったのが、いざ少女を眼前にして暴言吐きまくられた今となっては、つくづく腹立たしくなっていたりして。

 第一。
 どうしてこの少女は、置き去ったそれを知っているのか。
 誰も知っている者などいないはずの、――遠い、遠い、それを。

 だがそれを問うには、少女のことばを肯定せねばならない。紅き手袋に身を置く者として、それは愚考極まりない行いだ。
 かすかな苛立ちは、だから、そのまま怒気に転換する。
 そして、怒気はそのまま攻撃の意志へと、
「召鬼」
「オニビ、行きなさい!」
 転じかけるその瞬間、彼女は気づいた。

 いつしか自分が、目の前の少女をしか視界と意識にとらえていなかったことに。

 右手からの声。
「――爆炎ッ!!」
 左手からの声。
「ビビーッ!」

 そして、左右から迫るふたつの炎――!

「――ッ!!」

 回避は前後どちらか。
 だが、前方には少女がいる。ならば後方――床を蹴りかけた足は、だが止まる。
 右手にいた気配が、炎を放つと同時、彼女の背後にまわりこんでいた。足止め以上の意図をもち、殺気とともに距離を詰めてきている。
 さらには、左手、距離を置いた場所から狙いを定める鋭い視線。
 ……ここまで、と、いうことか――?
 赤く染まる視界と肌を焦がす熱のなか、彼女は潔く、道具としての終わりを受け入れ
「パ――ヘイゼルさん! こっち――!」
 ようとしたその腕を、黒いマント跳ね上げて突き出された手のひらが、むんずと掴んで引っ張った。
「あ」
 間違いなく。
 はっきりと。
 叫ばれたその単語に、全身の神経が粟立った。不快感? 拒絶感? 嫌悪感?
 違う、そうじゃない。
 その名じゃないわ、あなたが呼ぶのは。……知っている、くせに。
 ――――ああ。これは。

 遠い昔に置いてきたそれを、遠い明日を知る手が引き上げた。

 大きく体勢を崩した彼女の残像を、ふたつの炎とひとつの白刃が薙いでいく。
 唐突な呼びかけで麻痺した神経は、急激な動作に追いつかない。直撃こそ受けはしなかったものの、左右からきた炎は背後でぶつかりあって高熱と火花を彼女の背中に浴びせかけたし、標的を失いかけた刀の切っ先がその足を切り裂いた。
 そんな複数の衝撃も、本来なら耐え得ることが出来たはずだ。

 ――だけど。

 ――……ェル、さん

 薄れていく意識のなか浮かんだのは、あの日戸惑いがちに自分を呼んだ、赤い髪と翠の瞳をした少女――


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