崖から落ちかけたナップは、さいわい、途中に突き出していた小さな足場に引っかかる形で海へのミラクルダイビングを免れた。
おりしもそこは、先日誰かさんが盗み聞きのために使用していた場所だったりするが、そんなのは、落ちたナップや助け出した側にしてみれば知らないあげくにどうでもいいことだ。
さらに云ってしまえばいつか、誰かさんと誰かさんが仁王立ちで空を見上げてたのもこの近くなのだが、さらにさらにどうでもいいことだ。
とにかく。
途中停止したとはいっても、わりと高低差のある足場からナップを引っ張り上げたころには、ウィルもベルフラウもアリーゼも、そしてレックスもアティも、息を荒げて肩を上下させていた。
「――どうして、こんな、無茶なことを……っ」
打ちひしがれていたとはいえ、教師としての責任感は残っていたらしい。力ない声ながらも、ナップにかけるアティの声は厳しい。子供たちを見渡すレックスの目も。
「足場があったからよかったようなものの、そのまま落ちて死んでたっておかしくないんだぞ!?」
「――――」
「どうして、こんな危険な場所に来たんだ!?」
「――――」
普段ならすでに白旗をあげていても不思議じゃない、強い語調での詰問にも、子供たちは黙って互いを見るばかり。
「黙ってちゃ何も判らないじゃないですか、どうして……!?」
「――――って」
「え?」
小さな、でも、たしかに発された子供たちの誰かの声に、レックスとアティは表情を改めて身を乗り出す。
「だって」、
そこに差し出される、
「これを、取り戻したかった……!」
――――碧色の輝き。
それぞれの手に、幾つかずつ。
何にも代え難い至宝のように大切に、包まれていた碧の欠片。
「ほう」
砕けても魔剣か、常にない輝きは変わらんな。
「……ちょっかい出す気?」
不意に背後に現れた気配へ、は剣呑に問いかけた。もしそのつもりなら、力ずくでもこの場から退去願おうと。
「いいや」
だが、気配の主は軽い笑みを含んだ声でそう答えた。
「取り込み中のようだ、待つ余裕がないわけではない」
「……結局出すんじゃないか」
「さあな。それは奴等次第だろう」
「…………」
不機嫌になったのが伝わったか、気配の主は、低く喉を鳴らしていた。
碧の輝き。
碧の破片。
あの日に砕けた魔剣の欠片。
もう剣としての形をなさぬ、ただ、冷たく硬いだけのもの。
……あんなに昏く深く凝っていた闇は、拭えぬ強き怨讐は、もうそれからは見てとれない。
力を失った欠片はそれでも、普通の金属にはありえぬ輝きを有して……ただそれだけの塊になっていた。
まさかそんなものが出てくるとは思っていなかったのか、レックスとアティは目を見開いて、かつて自分の裡に在った存在の残滓を凝視する。
「……封印の剣は、持ち主の心の剣なんでしょう?」
その輝きを握りしめ、ウィルがぽつりとつぶやいた。
「それが折れたから、先生たちは、あんなふうになったんでしょう?」
「だったら」、
開いたままの手のひらに、ぽつりと雫がひとつ落ちる。
乗っている碧の輝きが、その飛沫で僅かに濡れた。
「だったら……っ、剣を元通りに出来れば、先生たちの心だって治るはずですよね!?」
いつもきれいにまとめられたツインテールが、普段からは考えられないほどに乱れていた。風が吹きっさらしの岩場に、彼らがどれくらいたむろしていたのか窺い知れる。
ことばを紡ぐうちに感極まったか、アリーゼはそのまま、アティの胸に飛び込んだ。
末妹の行動に触発されたか、他の三人も転がるように、レックスとアティの懐に飛び込む。碧の欠片は手放さぬまま、がむしゃらに、ふたりへしがみつくように。
「もうイヤです、あなたたちのあんな姿を見るのは!!」
くぐもった声でベルフラウが叫べば、
「先生なんだろ!? アンタら、オレたちの先生なんだろッ!?」
いったん押し付けた顔を跳ね上げて、頬を熱く濡らしながらナップが怒鳴る。
「云って、ましたよね」
昔のこと、話してくれたとき。
「想いをこめたことばは、打ち負かされたもの、より強く、よみがえらせてくれる、って……!」
「――――」
その瞬間のふたりの表情を、どう表せばよいのだろう。
落雷を受けたような、天が割れて地が裂けたような?
刹那、ふたりは振り返ろうとした。
あの遠い日、よみがえらせてくれたことばの主を――けれど、わずかに傾いだ身体はそこで止まる。
振り向くなと祈ったのそれが通じたのか、それとも。
「だったらオレたちがずっと呼ぶ! ずっとずっと、何度でも呼ぶ! 先生たちが応えられるようになるまで――」
負けないから。
諦めないから。
「だから……っ、先生も、諦めないで、くだ、さい――」
きっとまた、笑ってくれると願うから――信じてるから。
――戻っておいで。
遠い、遠い声が、深く、深くで木霊した。
――みんなが、いるから。
――あなたたちを大好きだから。
「戻ってきてください……ッ」
――みんなが。
――あたしは。
――あなたたちを、好きだから。
「先生――――」
――大好きよ。
「先生……」
――あなたたちを、
「……先生」
――みんなが、
「先、生……っ」
――みんなを、好きだから。
胸の奥が、じく、と軋んだ。
瞼の裏が、じん、と痛んだ。
何、これ。
なんで、これ。
心が壊れて、それで、どうして、こんなふうに、痛んで、軋んで、あたたかい?
「……違う」
ぽつり、こぼれた声に、弾かれたようにして子供たちが顔をあげた。
今の自分たちと同じように、涙でぐしゃぐしゃになった顔。
「せんせい」
「ないて……ッ!?」
呆然と紡がれる声を、最後までなんか待っていられなかった。
衝動のままに腕は動いて、ぽかんとしたままの子供たちを、自らの意志で抱きこんだ。
「違う」
つぶやく。
――ちがう。
思う。
そうだ。
違う。
壊れた心は、痛みも熱もぬくもりも、感じることなどない。
だから。
違う。
壊れてない心だから、痛みも熱もぬくもりも、いま、こうして感じてる。
そうだ。
――――そうなんだ。
「……ッ」
弱いから、壊れたんじゃない。
弱いから、壊れたかった。逃げたかった。
壊れてしまえば何もかも認めずにいられると、誰かが手を引いてくれると、ゆめにまどろんでいられると。
――――弱い自分が、壊れたふりを、していただけだ。
ゆめは夢。
夢はゆめ。
この手に触れるものじゃない、この目に映るものじゃない、この身が存在するところではない。
答えなど、真実など、常にひとつではないとしても。
今存在するものは、ここに在る。
いつだって、それはひとつだけ。
立つ場所は、この現実。ただひとつ。
逃がしてくれない。
苦しみも哀しみも痛みも嘆きも慟哭も。
逃がしてくれない。
喜びも嬉しさも楽しさもしあわせも。
逃げていってしまう。
ゆめだけが。
――ならば。目を覚ませ。耳を傾けろ。その手に触れよ。
無理をして追いかけずとも、
我武者羅に逃げたとしても、
ここは、離れることなど出来ない現実。常に傍らにあるこの瞬間。
たったひとつのこの場所に、息づく自分を思い出したら。
ずっとずっと届けられてた、声へと耳を傾けられたら。
応えればいい。
「……ありがとう……」
ただひとつ。
それはとても、――とても簡単なことだった。