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【そしてここに在れ】

- 何のための存在 -



 ……何を、してるんだろう。
 のろのろと、遠い背中を追いながら、思う。
 ……何故、歩いてるんだろう。
 云われるままについていきながら、思う。

 おかあさん、どこ行くの?

 ――そう訊きたいと思って、でも、さっきみたいに拒否されたらと思うと怖い。
 うん……怖い。
 怖いよ、おかあさん。
 ついておいでって云ってどこかにつれて行って……そしてまた、俺たちをおいていくの?
 怖いよ、おかあさん。
 また、わたしたちをおいていくために、今、前にいるの?

 ねえ、怖いよ。
 ねえ、だったら。

 もう、歩きたくないよ。

「あたしは、この世界にいない」

 ――おいていかれるなら、もう、歩く意味も。

 ひたりと足を止めたふたりに気づいたのか、それとも、同時だっただけなのか。
 陽光を受けて翠玉のように輝く枝葉の下、赤い髪の背中はその場に留まった。
 木漏れ日踊るその輪郭は淡やかに周囲へ溶け込んで、境界をおぼつかなくしてる。
「あなたたちの云うとおり、このあたしは、ゆめみたいなものなんだ」
 ……じゃあ、今自分たちがいるここもゆめ?
 やっぱり何もかも、あの遠いと思った日から、全然動いてなんかいない?
 じゃあ。
 この悪夢は――――
「あたしだけが、今のここから外れてる」
 風が、そよと吹きぬけた。
 以前は結わえてた髪を、今はただ、さらわれるままにして、黒い衣装に身を包んだ背中は佇んでいる。
「だけどあたしはここにいる」
 強く。
 強く――彼女は告げた。
「ゆめで、間違いで、莫迦で。それでも、あたしはここにいる」
 地面に落ちている葉、懸命に空目指して伸びる草花を踏みしだいて、そのひとは歩き出した。
 つられるように、足を踏み出す。潰される植物たちの軋む音が耳に入った。
 硬直する。けれど、それでは踏んだまま。潰れたまま。
 あわてて他へ移動する。また踏む。潰れる。
 あわてて他へ。踏んで、潰す。
 あわてて前へ。踏んで、潰す。
 ごめん。
 俺たちがいるから。
 ごめん。
 わたしたちがいるから。
 だのに、ねえ、どうして。
 どうして誰も、歩いていくの。足元のものに、気づいてないの。
 世界はこんなにも、潰されるものたちに満ちているのに。
 だけど、潰しつづけるわけにいかず。少なくともさっさと歩き出せば、長くその状態にしないですむ。だから足を動かした。
 ごめん、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい。
 俺たちみたいな弱い奴等に潰されてしまって、ごめんなさい。
 わたしたちみたいな壊れたものが上を進んで、ごめんなさい。
 ああ、それならば。
 ――所詮自分たちは最初から、何かを壊すためにしか存在していなかったのかもしれない。

 ――……

 くくく、と。
 笑ってた、昏い深淵。
 破壊せよ。
 壊して砕いてすべてを塵と化したなら、もう何も、壊されるものなどないのだからと。
 そのために、自分たちはいるのだからと。
 今はもう聞こえない、遠い、昏いいざない。

 ああ……そうなのかもしれないね――

「覚えてるって云ってくれて、困ったけど嬉しかったよ」

 機械的に足を動かしながら、届く声に耳を傾ける。
 少なくともそうしてる間は、足元のそれから、意識を逸らせるような気がしたから。

「あたしは、あなたたちが好きだ」

 俺もあなたが好きでした。
 わたしもあなたが好きでした。

 ――でも、今はどうなの?
 置いてって、手を振り払って、疑問への解も示してはくれず。

「それは間違いじゃないと思う。好きだろうが嫌いだろうが、想いとか感情とかって、間違いもへったくれもないと思う」

 ただ、湧き起こる。
 ただ、生まれいずる。

「誰も間違いじゃないと思う」

 それは同時に、誰も正しくはないということ。

「そりゃぶつかるよ。みんながみんな同じ考えなら、最初から戦いなんて存在してないものね」

 すべてが間違いではなく、すべてが正しくはないのなら。
 すべてが同列であるのなら。

 ――知っているはずだと、その背が云った。

「……!」

 視界が開ける。
 林から一歩踏み出た場所で彼女は立ち止まり、彼らもまた、足を止めた。靴底で岩が擦れる。
 永劫に続くと思われた林は、もう途切れていた。
 目の前いっぱいに広がったのは、青い海と青い空。吹き抜ける風と、ごつごつした岩場。

 ――――ざあ、と、風が吹いた。

 舞い上がる砂粒に備えて、反射的に目を閉じる。
 一際強く薙いだ風は、ほんの一瞬でおさまった。目は開けられる。
 だけど不安にかられた。
 また、置いていかれたかもしれないと。
 この瞬間にまた、あの赤い髪のひとは、消えてしまったのかもしれないと。
 ……怖い。
 目を、開けるのが怖い。
 開けて虚空を見るよりは、このまま閉じて身を翻したほうが、楽でいられるのではないか。
 泡立つ全身に、脳がそう命令しようとした。

「……あ!?」
「せんせ……っ!?」

 そこに。
 ありえぬはずの声を聞いた。


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