それは痛み。
それは嘆き。
それは何ものに替えがたい幸福。
……そうして祈り。
誰も他者を救えない。
誰も他者に救われない。
選ぶのは自分、選んだのは自分、歩いた先に佇むは自分。
――――自分を救うのは自分だけ。
だけど。
君が知らない
君を救う
君の心を
君に気づかせる
それくらいまでなら、僕らにだって出来るはず――
……目を覚ます。
誰かに呼ばれたような気がして、いや、目覚めければと思った気がして。
「おはよう」
驚いたことに、周囲は自分が目を閉じる寸前までとちっとも変わっていなかった。
すこやかな寝息をたてる少女の傍らに腰をおろし、額のあたりに手を添えている黒い髪の天使姿が、空いたほうの手をあげて彼に云う。
……少し躊躇して、「ああ」とだけ返した。
長く寝すぎていたのだろうか、微妙な気だるさを覚えながらも身を起こした。
「どれくらい寝てた?」
「そうじゃなあ。お日様とお月様が、三回くらい入れ替わったかな」
しれっと答える天使姿を、じっと見つめる。
「何じゃ? 凝視したくなるほど、ワシは男前?」
――脱力を伴なう既視感。
視線に力を乗せて睨みつけても、相手にとってはどこ吹く風らしい。
苛立ちのままに、問いを投げる。
「どうして、僕を捕らえない? まさか、最近の騒ぎを知らないわけじゃないだろう」
まして、この天使姿は、今自分たちがいる集落における護人の副官を務めている天使の、兄弟的存在であったはず。
「僕を捕らえて剣を取り上げれば、すべて解決するんじゃないのか?」
重ねて告げる。
けれども、天使姿は相変わらずの微笑を浮かべたまま。
なんだか見透かされているような不快感を覚えて、口調を荒げる。
「出来るはずだ、おまえたちに無理でも――彼らが壊れた今でも」、落とした視線の先には、眠りつづける少女がひとり。「なら」
焦げ茶の髪、伏せた瞼の向こうには夜色。
その彼女を“”のまま呼んでいいのか判らない、けど、知っている名前はこれだけなのだからしょうがない。
少なくとも、“えとらんじゅ”よりは抵抗がないし。
「寝てるうちにそうしてほしかった、とでも云いたげじゃな」
「――――」
「あいにく、この子はまだ起きないよ。おまえさんから受けたダメージは深い。正直、よくも動けていたと思う」
「……だろうね」
この手は、その瞬間を覚えている。
まといついていた紅と、その刃の先から伝わった肉を貫く感覚は、今も強く残っている。
だから。そのとき全部壊れたはずだったのに、いったいどういうからくりでか、危ういところで繕われたのだ。
――けれど。
そのうちのひとつは、今度こそ壊れた。
自分が、壊した。
砕け散った碧の煌きは、今も鮮明。
レックス。アティ。
自分が、壊した。
「……ワシも訊きたいな」
沈もうとしていた意識が、そのことばで浮上した。
持ち上げた視線の先では、黒髪の天使姿が、変わらぬ姿勢でこちらを見ている。
どうして何もしなかった? と、天使姿は云った。
「おまえさんなら、力ずくでワシを排除して誘いを蹴ることだって出来たろ? どうして、それをせんかった?」
「……」
思考を走らせた時間は、一秒足らず。
「意味がないからね。今、君だけ殺しても」
どうせみんな、最後には僕が壊すんだから。
口元を持ち上げて、すっかり板についた笑みとともに、彼は答えた。
「そうさ、壊れてしまえばいい。何もかも、すべて、心も願いも祈りも――、あらゆるものは、壊れてしまえばいい」
天使姿の笑みは消えない。
「壊れた場所からは何かが生まれるよ。それも壊すのかい?」
イスラの笑みも消えない。
「そうさ。僕が在る限りは」
生かしつづける愚を思い知れ。
存在を許容する無駄を知れ。
それを断たねば終わりにならぬと、認めずにいるというのなら、何度でも何度でも、起き上がるたびにこの手で叩き潰してやろう。
――――起き上がるたびに、立ちはだかろう。
強く、強く。
より強く。
断ち切る強さを彼らが得るまで――何度でも。
……目を覚ます。
誰かに呼ばれたような、泣いてる誰かがいたような。
「……ん」
重い瞼を持ち上げると、周囲にこぼれる水晶の輝きや、漂う灯火がまず飛び込んできた。
浮世からかけ離れた感のある光景に、もしやまだ夢を見てるのかと自問して、「あ、そうか」とつぶやいた。
「狭間の領域かー、ここ」
「お、、おはようさん」
頭のところに腰かけてたマネマネ師匠が、破顔してを覗き込む。
おはようございます、と、仰向けのまま返して身を起こした。それから改めて、お辞儀。
「気分はどうじゃ?」
「あ、はい。問題ありません。――うん、回復したみたい」
やっぱ、睡眠や休息は量より質か。
硬い水晶台の上で寝こけてた割に、そう強張ったりしてない身体を一応ほぐしながら、にっこり笑って問いに答える。
と、そんなふうにして動いたならば、当然視線も周囲をさらうわけで――そのことに気づくまで、時間はあまりかからなかった。
「師匠……」
見渡せる限りには、自分とマネマネ師匠以外いない。
それを確認してから、は、師匠を見上げた。紡ごうとした問いの正体を知って、黒髪さんは微笑む。
「坊なら行ったよ」
「……そうですか」
水晶の向こうに、遠ざかる彼の背が見えた気がした。
姉の手も、無色の誘いも、すべて断ち切って、ひとり――独り、イスラはどこへ行くのだろう。
何もかも捨てて拒絶して、その果てに何を求めてるのだろう。
「判らない、って顔してるな」
「判らないですよ」
面白がってる表情のマネマネ師匠を振り返り、頬をふくらませてみる。
「うん、あいつが一番判りません。なんかいろいろ中途半端な感じ。叩くなら徹底的にやれってのが戦いの基本だと思うけど、イスラ、徹底的にやろうって気がないみたい」
いつか、あの遺跡で寝ていた間に考えたことを、大幅にはしょってそう云うと、師匠は小さく頷いた。
「じゃろうなあ」
その意味ありげな応答に、ん? とは首を傾げる。
「師匠は何か判るんですか?」
「――ん――そうじゃな」、
笑みに苦さを乗せて、マネマネ師匠はちょっとだけ間をおいた。焦らしているわけではなくて、何か、適切なことばを探すに戸惑ったような。
「判るというか……坊の行動を突き詰めていくと、なんとなく予想出来ちゃうなっていうか、じゃな」
「それって、どんな?」
「――――」
ちらり、師匠は視線を虚空へと投げる。
イスラが去った方向なのだろうか、このひとにしては珍しい、なにやら困ってるような表情が出ている。
急かしてはいけないような気がして、は、じっと師匠を見守った。
師匠の視線が再びこちらに戻るまで、ほんの数秒もあったろうか。だが、その表情を見て、ちょっと息を飲む。申し訳なさそうな気持ちの強く出たそれが、問いへの否定を連想させたのだ。
そうして予想に反さず、
「たぶん、おまえさんは知らないものだよ」
紡がれた、いらえは曖昧にして否定。
「それは」、予想してたからといっても、そんなこと云われてむっとしないわけもない。「あたしがまだ、――人生経験浅いから、ですか?」
マネマネ師匠との年の差は、それこそ、ルヴァイドとのもの以上に大きいはずだ。
それには、自分がまだ年若い自覚も充分に持っている。それだけで決まるわけでもないだろうが、重ねた年月の経験だけ、彼らはずっとたくさんのことを、自分より知っているのだろう。
でも、それなら。
知っているというのなら。
教えてくれさえすれば、完全にではなくても、理解しようって努めることは出来るはずだと思う。
だというのに、師匠のことばは曖昧な否定。判るわけもない、って、暗に含ませた返答。
そんな気持ちを感じたのだろうか、マネマネ師匠はちょっとだけ目を見開いて、「ああ、ごめん」と頭を下げた。
さらりとこぼれる黒髪に、も、「……あ、すみません」と謝罪する。
「でも」、
が下げた頭にそっと手を置いて、師匠はまたしても否定の接続詞。
「――経験とかじゃないんだ。そういうものじゃなくて……おまえさんには“見えない”と思う。坊が見せなくちゃ、きっと、“見えない”部分のものなんだよ」
盲目だと云ってるんじゃない、と、師匠はつづけた。
「それは在り様の違いなんだ。坊が見てるのは、おまえさんがけして目を向けない部分のものだ。おまえさんには考えもつかない気持ちなんだ」
「…………」
「それに気づかないことは、けっして恥じることじゃない。だから」
もう手は退かされたけれども頭を上げられないでいるの肩を優しく叩いて、ことばは紡がれる。
貶してるわけでもなく、慰めてるわけでもなく――からかうような色もなく、ただ、事実だけを届けてくれていた。
「――だから、坊はおまえさんと友達でいるんじゃないかな」
「え?」
友達。
現状を鑑みれば場違いなそれに、は顔を跳ね上げた。
……ああ。
友達になろうってあたしは云った。イスラはそれに頷いた。
……そうだ。
何もかも捨てて断ち切って、それでもイスラはまだ、友達でいようと頷いたあの日を否定したことなどない。
彼はまだ、全部を振り切ったわけじゃない。
「でも、どうして」
判ってやれない友達は、不甲斐ない以外のなにものでもないんじゃないかと。
思ったそれは、表情に出てしまったらしい。かすかな惑いさえ、霊界の住人にとっては抱く思いを看破する材料になっているんだろうか。
「知られたくないんだろう」
知らないから友達でいれる。知られたら友達ではいれないと、坊は思ってるんじゃないかな。
「――そんなこと!」
「ない、と、おまえさんは云うだろうけど」、師匠の笑みは、また、ほろ苦い。「坊の気持ちは、そんなこと、あるんだろうさ」
「…………っ」
それは、にどうこう出来る問題ではない。
いくらこちらが友達でいようって思ってたって、相手がそれを嫌だと思ったら、それまでだ。一方的な感情はせいぜい抱いておくまでが限度で、受け入れるつもりのない対象に押し付けていいものじゃないんだから。
口ごもって、それでも、どうにか視線をそらさずに師匠を見上げ――その表情の変化を目の当たりにすることになったは、噛みしめたはずの唇をぽかんと開けた。
苦味を消して、やわらかな笑みを浮かべて、師匠はを見下ろしていた。
「でもな、。に坊のその部分が見えなくても、坊には、の見てるものが見えてたと思うよ。何しろが見てるのは、誰もが一度は見た源だから」
「み、源……?」
なんだか大層な云い回しに、向けられた笑みへの戸惑いも合わさって、思わず眉をしかめてしまう。
けれども師匠は、それに答えてはくれなかった。
代わりに、ようやっと普段どおりの、悪戯っけトッピングを笑みにまぶしてこうつづけた。
「まだまだ踏み込む余地はあると思うよ、。介入して引っかきまわすの、おまえさんたちの得意技じゃろ?」
「は……はあ、まあ、前にもたしかにそーいったことは」
ありましたけどね、サイジェントで。
と、云いかけて。
なんだかいかにも“知ってるんじゃぞ”的な師匠の云いまわしに、「ん?」と首を傾げてしまった。
しかも、“おまえさん”じゃなくて“おまえさん”……“たち”?
果たして。
どう追及しようか一瞬迷ったの耳に、とんでもない事実が突きつけられたのはその直後。
「話を三日前に戻すけど。魔公子の力の残滓から、“”の姿を読ませてもらったよ。ワシじゃ限界があるが、おまえさんにもう一度、あの姿を写し取らせてやれると思う」
「……へ!?」
思わず目を点々にしたを、この場合、誰が責められようか――?