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【その幕間】

- 足を止め -



 名前を教えて、と、彼女に云った。
 答えずに、三十六計かまされた。

 ――そんな他愛のない記憶が、もう、遠い昔のことのようだ。

「それで、君の名前は?」
「えとらんじゅ・ふぉんばっは・のーざんぐろりあ。」

 嘘をつけ嘘を。

 苦笑して、手のひらについた土を払う。
 赤黒い湿り気による不快感は、土をいじっているうちに半ば以上吸収されていたらしい。それでも、あとで手を洗わなければ落ち着けないだろうけど。
 それは、同じように手のひらをはたいている彼女も同じらしかった。
 ぱんぱんぱん――ぱぱぱぱぱん!
 なんだかやけっぱちめいた勢いで汚れを叩き落しはしたものの、仕上がりには不満そう。さいわい、せせらぎを探すのは難しくなさそうだから、後で案内でもしてあげよう。
 そんなことを考えながら、いかな霊界の影どもと云えど食しきれなかったと思われる、サーベルを持ち上げた。ところどころが赤黒い。
 洗ってやったほうがいいかと思わなかったわけではないが、あまり小奇麗にしてしまうと、相手が相手だ。何の嫌味だとか云われそう。
 ……もっとも、自分がこうやっていること自体、相手にとっては嫌がらせ以外のなにものでもなさそうだ。
 だがまあ、そのあたりは、彼女もいるってことで相殺してもらえばいいだろう。
 膝を折って身をかがめると、それを見た彼女も同じように跪いた。

 これに何の意味があるのか問われれば、無意味だと答えるしかない。
 この島が閉ざされたままである限り、肉体から離れた魂は輪廻に戻ることもなく、永劫、彷徨うしかないのだから。
 そう、誰かがそれを開かない限り。
「……あえて手向けなんて述べてみるなら、――“ばーか”かなあ」
 紡がれる彼女の声を背に聞き、その更に背後で抗議してるらしい瞬きを感じながら、イスラはただ、突き立てたサーベルを見つめつづける。
 昼間の戦闘が嘘のように静まり返った岩場は、夕陽を受けて鮮やかに彩られていた。



 時間を、わずかばかり遡ろう。
 戦場を離脱した彼と彼女が、ようやく立ち止まったあたりまで。

 小一時間ほど歩いただろうか。さっきまで聞いていた潮騒の代わりに、風が枝葉を揺らす音が優しく耳に届く林の中。
 ここまで来ればもういいかな、と、つぶやいて足を止め、手の力を緩めた途端、彼女はばったりと地面に倒れた。
「……?」
 怪我らしい怪我は負っていないはずだけど、そう思い返しながら振り返り、声をかける。黒いマントごとだらしなく地面にのびた彼女は、数秒ほど小刻みに震えていた。
 黙って見守ることさらに数秒、「うー」とくぐもった呻き声がして、のろのろと彼女は起き上がる。
 肩口からこぼれる濃い茶色の髪、その奥にある黒――いや、夜を映したような色合いの双眸が、きっ、とイスラを見上げた。
「イスラ、あんた」
「なんで連れてきたのかって? なんだか、奴らのところには帰りづらそうにしてたから」
「そうじゃない」
「なんで驚かないのかって? 声はそのままだし、仕草や動作も変わってない。単に目と、髪の色と長さが変わったくらいじゃない」
「違う」
「なんで」
「あたしが訊きたいのはそういうことと違くて!」
 先んじてぽんぽん割り込んでいると、彼女はとうとうキレた。
「……なんで、無色の派閥を裏切ったか?」
 それでも最後まで云ってみる。
 振り上げた腕が頭に来るか鳩尾に来るか、少し覚悟したけれど、――彼女は、力なく拳を下ろして首を横に振った。
「訊きたいことは山ほどあるよ。でも、最初に訊きたいのは全然別」
 引っ張られてる間考えてた、と、彼女はつぶやいた。

 考えてた。どうせ麻痺した思考は、そのくらいの役にしか立たない。
 だから、考えてた。
 だけど、答えは出なかった。
 ただその代わり、ひとつの相似性に行き当たった。
 戦いの最後、息絶えたビジュを見たイスラが、ほんの一瞬浮かべた表情。
 苦しくても、辛くても、それを笑顔の奥に押し込めていたレックスとアティの表情。
 ……この二者の相似に、気がついた。

 ふたりは笑う。
 イスラは笑う。

 絶やさぬ笑みの合間、ちらりちらりとかすかな陰を覗かせながら、気づかせまいと笑うのだ。
 レックスは、
 アティは、
 イスラは、
 ――――いつも、笑みだけを相手に見せている。

「前にも訊いたと思う。でも、もう一回訊く。イスラ、あんた何がしたいの」

 レックスとアティは、判らないでもないのだ。
 だいじょうぶ、だいじょうぶ。そう呪文みたいに紡がれるふたりのことば、いつだって先頭きってひた走る背中。
 誰もが笑顔でいれるために、笑顔ですべてを乗り越えよう。そう思ってるだろうってことは、これまでのことで想像出来る。

 では、イスラは何なのだ。
 姉を裏切り派閥を裏切り、今ではとうとう独りになって――なのにどうして笑ってるのか、何のために、笑いながらすべて壊そうとしてるのか。
 ……単に、破壊魔と考えるには、いくつか垣間見た彼の表情が邪魔をする。
 最初に逢った港然り、夜に話したあの岩場然り、そうして先刻、ビジュの死に際して見せた雫然り。

 痛みを知らないわけではないのに、どうして、知らない振りして突っ走る?
 世界を憎んでると、いつかイスラは云った。
 だけどこれでは、まるで憎まれるために行動してるようにさえ思えてしまう。

 ……何かに涙するのなら、他者の痛みを判るのだろうに。

 じ、と見上げる。
 深く静かなイスラの目を、確りつかまえて睨みつける。答えるまで逃がさないぞと、視線で、全身で訴える。
 本来の姿を見られたことは気になるけど、どうせ、しらばっくれたって意味なかろう。しっかりがっちり、確信もたれちゃってるぽいし。
 どれくらい、そうしていたろうか。
 微動だにせず抗していたイスラが、ふっと、首を傾けた。
「……って、結構執念深い?」
「失礼な。根性があるって云ってよ」
 心底そう思ってるらしいことを察し、むっとして云い返す。そしてまた、にらみ合い。
 今度はどれほど続くかと思いきや、硬直状態はすぐに解けた。
 何故かというと、

「おー、いたいた、いた。やあっほーう、久々じゃな元気かー?」

 ばっさばっさと羽音が響き、それと同時、実にのんきな声がふたりの頭上から降ってきたからである。


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