世界が凍りついたような瞬間は、だけど長く続かない。
「あなたッ!」
数歩後ろにいたツェリーヌが、動揺を隠そうともせず夫の傍に駆け寄った。
「本性を現したか、小僧ッ!!」
同時に響く怒声は、カイルたちを挟んだ反対の方向から。それまで静観していたウィゼルが、先ほどのイスラと同じように彼らの脇をすり抜けて接近する。
「え? あ?」
同じように静観――というか半ばほっぽり出されてた気がしないでもないビジュが、うろたえまくってオルドレイクとイスラを交互に見やっていた。
彼にしてみれば、絶対の力を得られるというからイスラの離反について無色の派閥へ荷担したのだ。その、当のイスラが派閥の幹部に牙を向くなど、予想もしていなかったのだろう。
もっとも、それは、この場の誰もが同じことだったのだろうけど。
で、蚊帳の外に置かれてるといえば、この時点でカイルたち、護人たち、そして黒マントも同様だった。
たった今まで敵対していた相手が、目の前で思いっきし内部分裂かましてくれているのだ。呆気にとられて眺める以外、何もしようがないではないか。この隙に逃走するという手もあるが、そんな考えの生まれる思考の余裕がないんだろう。
――そんな状況をざっと見て、黒マント、こと、元、こと、“”は最後にオルドレイクに目を移した。
ツェリーヌに支えられて立つ彼は、なるほど今の一撃で相当のダメージを負ったらしい。が、命に別状はないと思っていいだろう。
喜ぶべきことではない、かもしれないが、そこで、ほっと息をついてしまった。……バノッサさん、ソルさん、他ご一同様、(嫌だろうけど)お父さんは無事らしいですよ。
久々の脳内報告などしているところに、悦に入ったイスラの声。
「剣の所有者は僕だよ? わざわざ君たちに力を分けてあげる必要なんかない、独り占めしたほうが利口ってものだろ?」
うっわ。
逆鱗、つつくどころか殴りかかってるわ。
というかイスラ、最初からこれが目的だったのか? それであんな大回り演じてここでようやっと達成したのか? ――何のために?
問いは生まれる、だけど、答えてほしい相手に投げかけるような余裕は皆無。
「こ……ッ、殺せぇぇ……!」
重症を負って苦しい息の下、なお、オルドレイクがうめくようにそう云った。
「あの小僧を――裏切り者を絶対に逃がすなァッ!!」
その一声で、すべてが動いた。
紅き手袋が奇声とともに地面を蹴る。
ツェリーヌが立ち上がり、怒りとともに呪を紡ぐ。
矛先は真っ直ぐにイスラ――そして、ビジュ。
それを見てとり、ビジュの顔から血の気が引いた。
「な! ちょ、待って、俺は別に裏切るつも……」
「シャアアァァァァッ!」
言い訳など聞く耳持たぬ、もとより紅き手袋の暗殺者にとって、一度標的と定めた相手を永らえさせることなど論外。
黒い影、そして刃が彼に迫る。
「報いを受けよ……死をもって!」
ツェリーヌの詠唱が完了する。
イスラもビジュも範囲に含めたその術は、以前見たよりさらに、禍々しい闇を生み出していた。
「ひ――ヒイィッ!?」
絶対の殺気を感じとり、ビジュは顔の前で腕を交差させた。だが、それが何の役に立とう。
判ってはいる。
判ってはいても、生への執着が、せめてとばかりにその動作へと走らせた。
――執着?
固く閉じた瞼の裏に、何かが浮かぶ。人は、それを走馬灯というのか。
それは、薄暗い記憶。
それは、置いてきた肉塊。
それを。
置いてきたのなら執着など、
――――がぎぃっ!
薄闇の向こうで、けたたましい金属音が響いた。
「……ぐあッ!?」
予想し恐怖した衝撃は、こない。その代わり、腹を殴られた。背中から地面にひっくり返り、一瞬息が止まる。
その拍子に腕が解け、閉じていた目を開いてしまった。
すぐ前に黒い影が見えて、ぎょっと身を強張らせ……けれどすぐに、それが暗殺者ではないことに気がついた。
黒いマントで全身を覆い、とどめとばかりにフードをすっぽり被った小柄な人物。その手にした剣が、迫り来ていた暗殺者たちを退けたのだろう。
だが、術は。
ツェリーヌの繰り出した術は、剣で防げるものではないはずだ。そして、たしかに術は発動していた。目を閉じる寸前、こちらに向けて殺到する幾多もの悪意をたしかに見たのだから。
そんなビジュの疑問など知らぬげに、黒マントが構えたままの長剣は、ほんのりと白色に輝いている。
「――おまえは……やはり」
どこか愕然とした声で、ツェリーヌが小さくつぶやいた。
「!!」
だが、つづけようとした彼女のことばは、島の化物どもが発した叫びにかき消された。どうせ答えとしては同じものだったのだろうが。
「! やっぱじゃん! ねえ、どうしちゃったの、何があったのよ!?」
金髪の少女が、身を乗り出してそう叫ぶ。
が、黒マントは振り返りもせず、彼らやビジュに背を向けたまま、無色の派閥と対峙していた。
一度攻撃を防がれた暗殺者たちは用心しているのか、彼らを取り囲む位置に布陣して静止している。隙あらばかかろうというのだろうが、黒マントがそれを許さないでいるようだ。
ってば!! しつこく叫ぶ声に応える気があるのかどうか、マントの上からでは判らない。
「嬉しいな。助けてくれるんだ?」
にこやかな声。だけど、何故か神経が逆立つ。
……ああそうだ、元々俺は、こいつが気に入らなかった。
だってのに何故、今、一緒くたに狙われちまってるんだ?
魔剣片手に笑うイスラのそれと正反対に、黒マントの声は不機嫌極まりない。
「助ける必要ないでしょうが、あんた」
まあ、そのとおりか。
少し目を見開いて、イスラは「そうだね」と頷いた。
「でも、ビジュを助けてくれるんだろう?」
――やめろ、と、云いかけた口は、だが、うまく動かない。
恐怖のためか、それ以外の重圧のためか。ぴりぴりと場を満たす殺気は濃厚に過ぎて、自分のような人間など、そのなかで動くことさえ出来ないのだ。
ああそうだ。
自分はただの人間。強い力なんて、どこにもない。
自分の手には――ああ、何もない。
「誰が助けてるのよ」
黒マントの不機嫌は、ますます募っているようだ。
「単にここで死なれちゃ約束守れないからよ。あと、あた――わたしは無色の派閥が大ッ嫌いだし」
だから邪魔するの、と、云いきる声。たしかに聞き覚えのある。
……顔面に施した刺青の、奥がきしりと疼いた。
“二十年か?”
“はい”
――打ち身の痛みとともに、交わした。それは、約束というものだったらしい。
「く……ッ」
小さくうめいたツェリーヌが、再び呪を唱え始める。
それを見、イスラが余裕綽々に首を傾げた。
「無駄だよ? そんなチャチな術じゃ僕は殺せない」
「おまえはそうだろう」
その横に、ウィゼルが並んだ。そして間を置かず、前に出る。
刀を軽く浮かせ、腰を落とすその構えを、ビジュは一度だけ見たことがあった。
――居合。
距離にして十数歩以上空いた場所から、ウィゼルはそれを放とうとしている。無謀とは云えない。ウィゼルのそれは、対象物との間に、刀以上の間合いがあっても問題としない。空間もろとも切り裂いてしまう。
「――」
すぅ、とイスラの笑みが消えた。
周囲には暗殺者たち。
眼前にはツェリーヌ、横手にウィゼル。
出来上がった包囲が定めた狙いは、イスラよりもむしろ。
「! そんな奴ほっといて逃げろよ!!」
「早く! ってば!!」
だが、黒マントは動こうとしない。否、動けないのだ。
黒マントの正体があの女なら、速攻向かえば凌ぐことが出来るはず。それなら同時に暗殺者の包囲も抜けられ、助かるはずだ。
なのに何故それをしないのか。
「……――」
判っている。自分がいるからだ。
ひとりなら助かる、それどころか割り込まなければ捨て置かれていたくせに、わざわざ出てきたりなどしたからだ。
何故か。
判っている。目の前に翻る黒マントの意味を、ビジュは理解している。
先刻何もしようとせず、そして、今度も同様だろうイスラとは逆に、黒マントは、ビジュを守ろうとしている。
だから判らない。
「何で」
――旧王国の人間のくせに。
零れたそれが、合図のように。
「シャアアアァァァッ!」
再び、暗殺者どもが地を蹴った。
「――――ッ!!」
ざしゃっ、と足を大きく開いて、黒マントが剣を振るった。四方から迫る剣を横薙ぎの一撃で払う。しかも、わずかに軌道を上下させ、振り下ろされる剣を余すことなくタイミング合わせて受け止め、弾く。
視界の端には紅の光。イスラもまた、己に向かう暗殺者を力任せに弾き飛ばしているらしい。
哄笑が聞こえる。癇に障る笑い方だと、そう、以前も思った。
「……――」
反対側の視界の端。
ウィゼルが、より低く腰を落とす。鞘に添えた手元が、陽光を反射して輝いた。
「……――」
来る。
暗殺者どもも巻き添えにする勢いで、必殺の刃が次に来る。
だが黒マントは動けない。一歩でも位置をずらせば、こちらに刃を届かせることになるからだ。
「……――!」
そしてツェリーヌの呪。威力の断片を、ビジュも知っている。
あれまでもが放たれれば、黒マントの手が追いつかなくなることは明らかだった。
ウィゼルの手元の輝きが増す。
ツェリーヌの導く闇が増幅する。
暗殺者たちの繰り出す刃は止まらない。
来る。
そう思った瞬間、黒マントは、
「……――!!」
「――!?」
驚いた顔をして、自分を突き飛ばしたビジュを見た。