日が沈んだ。
赤く染まっていた世界はそう長い時間ではなく、夜の帳が舞い下りる。
昼間のあわただしさは消え、静かに朝を待つ眠りの時間――ユクレス村から少し離れた場所にある果樹園で、がさりと小さく茂みが揺れた。
そう間をおかずして、揺れた茂みから人影ひとつ。
「……あぶないなあ、もう」
ナウバの実やら果物やらを片手にぼやきつつ、被っていた黒いフードを跳ね除けて夜気を堪能するのは、であった誰かさんだ。
月明かりに照らされた髪は濃い茶色。あまり明かりがないせいもあって、見ようによっては黒髪。目も黒。
誰かさんは、周囲に人影がないのを確認すると、どさり、生い茂る木々の陰に腰をおろした。外からぱっと見ても、まず他者に発見されにくい位置取りだ。
ちょっと肝冷やしたけど。と、彼女は思う。
思いながら、果物の皮を剥いていく。果樹園から頂戴したものだ。
以前ジャキーニたちが泥棒してたときには量の問題もあってすぐ発見されてたようだが、彼女が頂いたのはナウバの実ひとつ。たくさんの房が寄り集まるようにして実をつけるナウバは、うち一本をとった程度でそうあっさり気づかれるものでもなかろう。
甘いそれを口に運びながら、実は身をひそめて眺めていた、ヤードの召喚術を思い出した。
――無理なんだよね。そう思う。
彼が描く姿は、のものだ。そして、喚びかけるのもにだ。
……それじゃあ、無理なのだ。ついこの間までならまだしも、今は無理。
だって、彼女は名乗ってしまった。
誰にというわけではないけれど、その名が彼女のものなのだと、口にした。世界はしっかりそれを聴き、応えて白い焔をくれた。
だから、彼女はもう、として召喚されることはない。
要注意はゲンジだろうが、彼も、今の姿の彼女を知っているわけではない。想像しようもなかろうし、仮に名前だけで召喚に踏み切られても、どうにか抵抗できるだろう。否、する必要がある。
ていうか、この姿、そうほいほい見られてたまるかっつーの。
もふもふと果実を胃の腑に落しこみながら、彼女はふっと空を見上げた。
視線の先では星々が、地上であがく誰かの苦労など知らぬげに、ただ静かにまたたいている。
「……」
夜空に浮かぶ無数のそれを見上げつつ、食事ともいえぬ食事を終え――そうして彼女は立ち上がり、果樹園を後にした。痕跡ひとつ残すまいというのか、食べかすはしっかり手に持って。おそらく、どこぞで処分するつもりなのだろう。
元軍人の痕跡隠蔽術を甘く見ないよーに。
と、茶化す相手も今はおらず。
再びフードを頭から被った彼女は、気だるげに夜の島を歩いていった。
同じ頃。
島の何処か、無色の派閥が拠点とする一角。
「……黒マント、ね」
偵察に出ていた派閥兵の報告。
夕刻、はぐれの一匹を捕獲しようとした際に入った邪魔の件。それを頭の中で復唱しつつ、彼は、楽しそうな、どこか安堵したような笑みを零していた。
「何が楽しいの」
「いいえ。――判りやすいな、と」
その報告をもたらした相手の少し不機嫌な声に、やっぱり彼は笑って応じる。
「身元を隠したいわけじゃないのかな、姿を見られたくないと考える方が妥当かもしれませんね」
いくらマントをすっぽりかぶっていたとしても、姿を見せてしまえば、足し引きの結果出てくる答えは決まってる。
いなくなったのはひとり。
出てきたのはひとり。
剣筋なんか見なくても、そのフードをはぎとらなくても、その中にいるのが誰か――判らいでかというのだ。
「バカな子」
「本当に」
吐き捨てるようにつぶやく相手――くぐもった女性の声に、彼は頷いた。
頷いて、それから、「ですが」と続ける。
「僕は、一番厄介なのは彼女だと思いますね」
女性は、ほんの少しだけ間を置いて首を振る。上下に。
「……たしかに。腕のほうも確かだけど、あの娘の剣には迷いがない」
力と力をぶつけ合うことに対して、いささかも負い目を感じていない。……力で何かを奪うこととは、また別のもの。
戦いのさなかに多くを失い、戦いの果てにかけがえのない何かを得たならば、そのようになるのだろうか。それは、向かい合う両者の想像が及ぶところではないのだけれど。
ともあれ、と、彼はつぶやいた。
「彼女を片付けてしまえば、オルドレイク様のご不興も少しは緩和されるかもしれませんよ」
「――――」
あと小一時間もせぬうち、その名を持つ男の閨に向かわねばならぬ女性は、わずかに身を硬くした。
「……失敗つづき、のようですし」
「っ――」
反論はならず。彼のことばは事実だ。
彼女の率いる集団の戦績は、島に到着してから捗々しくない。
その代償、というわけではないけれど、女性が紅き手袋としてのそれとは別の役割をも与えられていること、彼はよく知っていた。
「出てくる保証はあるの」
硬い声でつむがれる問いに、彼は小さく、けれどはっきりと頷いた。
「簡単ですよ。奴らが窮地になればきっと出てきます」
「……自信があるのね」
「もちろん」
呆れなのか、感嘆なのか。
感情の読み取れぬ女性のことばに、にこりと笑ってみせる。
「貴女も云ったでしょう? 彼女やあいつらはね、決して利口にはなれないんですよ」
一度手を取り合った相手の危険を見れば、必ず出てくる。
あの子は、そして、彼らは。
――それが我が身を危うくすることになっても。必ず。
「……そう。では、いつ行動を起こすの?」
時間が迫っているのだろうか、それとも、会話に飽きただけか。踵を返そうとしながら、これが最後なのだと言外に含ませながら、女性は云う。
「明日にします」
「判ったわ」
これから、と云うよりはましだろうが、それでも急なことに変わりはあるまい。
だが、女性は何を云うでもなく淡々と頷くと、彼に背を向けて歩き出した。その方向が、くだんの男の閨であることに気づいたが、彼もまた、それ以上は何も云わずに見送った。
女性が闇に溶けるより先、つと身体の向きを変え、
「そういうわけだから、ビジュ。適当に準備をしておいてくれる?」
「お、おう」
今の今まで女性の雰囲気に気圧されて固まっていたらしい男が、ばね仕掛けのように大げさな身振りで頷くのを、少し冷淡な目で眺める。
「少しは慣れてよ。情けない」
「そ……そうは云うけどよ。あんな美人だってのに、あの空気はよォ……」
……いったい、何を考えているのやら。
盛大なため息を零した彼を見、男は、少し気分を害したようだった。が、あちらがくってかかるより先に、彼は口を開く。
「ま、近寄り難いってちゃんと気づくだけマシかもね。――君だって聞いたろう、彼女の通称」
「茨の君、とかいうヤツだろ? ンな名前つけて遊んで、何が楽しいのかねェ」
「……前言撤回。紅き手袋が本当に、遊びでそんな名をつけると思ってるわけ?」
冷ややかさを増した彼の声に、男はあわててかぶりを振った。
「いやいや! ちゃんと判ってるぜ、本名を知られねぇため、だろ?」
「……半分は当たり」
頭ごなしに否定してやろうかと思わなかったわけではない。が、少し矛先をおさめてやることにし、彼は嘆息混じりに応じた。
半分? と首を傾げる男を一瞥し、女性の去っていった方向を、首だけひねって振り返る。
「雇い主以外で彼女に触れる相手はね、確実に命を落とすのさ」
「……ゲッ」
ほんのわずかの下心でさえ、ないとは云いきれなかったのだろう。
カエルが潰れたような声をあげる男を振り返りもせず、付け加える。
「茨の名は伊達でも酔狂でもない。そう云わせるだけの理由が、彼女にはあるんだよ」
会話の最中も、静かに、その硬く鋭い棘をほのめかせていた女性の佇まいを思い出す。
ただ……その棘が、幾つものひび割れたガラスを寄せ集めて無理矢理形を作っているというその事実を、果たして、当の茨の君自体、気づいているのかどうか。
そうして、何故そんなことが判ったのかと問われれば、彼はこう答えるだろう。
“同じじゃないけど、似てるからね……”
――その理由は、けして告げないままで。