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【彼女の決意】

- 赤かったあの日 -



 脳裏に次々よみがえるのは、数日前の戦い、昨日の光景、そして今朝の夢。
 圧倒的な力によって赤く染められた大地。
 抜剣した自分たちを押し返した力。
 失われたとばかり思っていた魔剣の片割れ。
 ……それらが現れては“戦え”と云い、消えては次が現れて“殺しあえ”と云い、“狂え”と叫ぶ闇にひたされた……そんな夢。

「――――」

 意識して、ここに来ようと思ったわけではなかった。
 これからは徐々に弱っていくのだろう陽光が、しらじらと降り注ぐ砂浜を、さくさくと踏みしめて歩き……とある一点で、アティは立ち止まる。
 周りを見渡し、そういえば、と、そこでようやく思い至った。
「わたしたちが、最初に流れ着いた場所――」

 ――過去の戦いが終焉を迎えたその場所でもある

 昏い声が囁いた。
 それは静かに染み渡る、まるで、彼女自身が最初からそれを知っていたかのように。
 心地好い強さで吹き抜ける潮風に、髪をさらわれるままにして、静かに波打つ海を眺めた。
 ざぁん……ざざぁ……
 寄せては返し、退いては戻る、優しく穏やかな波の音。
 あんなに荒れ狂い、自分たちをここに運んだ海と同じなんて、ちょっと信じ難い。
 目を閉ざし、ただ波の音を聴く。
 母親の胎内でまどろむ赤ちゃんも、こんな音を聴いていたのだろうか。そして、自分たちも。
「……おかあさん」
 身体に腕をまわして、抱きしめる。
 あのとき。もう、二度と目覚めないと思ったひとが、白い光に包まれた腕で抱いてくれた、この身体。

(大好きよ)

 しっかりと、強く、囁いてくれたことば。
 ゆめではなく、現実に、告げてくれた……あのひとの声。
「……ゆめ」
 ぽつりとつぶやいて、目を開ける。伏せる前と変わらぬ景色が、目の前には広がっていた。
 そう、変わらない。――変わらないのだ。
 がおかあさんであること。
 おかあさんがであること。
 レックスの叫びがきっかけではあるけれど、その叫び以上に確信を深めさせるのは、昨日抱いてくれたあのひとの腕。
 変わらないあたたかさ。
 変わらないその身体、腕。姿。
 ゆめでしか、そんなの、ありえないというのに――それはどこまでも、現実なのだと……うん、認めます。
 あのひとは、変わらぬまま、同じ時間を生きている。
 そうと認めるだけの時間を、共に過ごしてきたのだから。……笑いあっていたのだから。

 そして。ならば。

「……イスラ」

 紅の暴君でもって貫かれたそのひとも、また、ゆめなんかではなかった。

 守りたいのに守れなかった。
 だけど、あの腕は間違いなく生きた人間のものだった。

「……

 生きて、くれている。
 生きて、いるんだ。

 今度こそ、守りきらなければ。

 あのひとだけじゃない、この島に暮らす数多のひとたちも、そしてなにより、

「……先生!」

「みんな――?」

 こんな自分、自分たちのところに。
 息を切らしてやってきてくれた、この子たちを……


 ……振り返ったそのひとは、淡い笑みを浮かべていた。
「よく、判りましたね。……わたしがここにいる、って」
 いつもと同じ笑顔に、ほっ、と彼らは安堵する。
「あ……うん」
「なんとなく、ここじゃないかなって……」
 実は、さんざん走り回った末に思いついたのがここだった、なんて云えない。
 どこかぎこちない、照れたようなナップとウィルのことばを、アティは特に不思議にも思わなかったようだ。笑んだまま、「そっか」とつぶやいた。
「あの」、
 胸元に手を組んで、アリーゼが進み出る。
「アズリアさんから聞きました……先生が、どうして軍人を辞めたのか……」
「――――」
「私たちが聞き出したんですわ」
 つとベルフラウが補足する。アズリアのことを慮ってのことだったけれど、アティが表情を曇らせたのは、そのせいではなかったらしい。
「ごめんなさい、本当のことをちゃんと話せなくて」
 ……いつだったろうか。事件のことを訊いたのは。
 もう随分と昔のことのように、子供たちには思えた。
 事実、それはたった数日前だというのに。
 そんな気持ちには気づいていないのか、アティはことばを続ける。
「わたしたちがちゃんとしていたら、みんなのお父さんだって危ない目には遭わなかったのに……」
 濃い自嘲を含んだそれに、だったら即座、「ちょっと待った!」と裏拳を繰り出したろうか。
 いや、この場にいたのがたとえ誰であったとしても、アティのそのことばには異を唱えたに違いない。
 子供たちも、その例に漏れず、
「先生は悪くなんかない!」
「悪いのは、先生たちの優しさにつけこんだヤツでしょう!?」
 口々に、浮かぶ衝動のままをアティに告げる。
 思いもしてなかったらしいその反応に、彼女は目を丸くした。そのまま固まることしばらく、やがて、戸惑いがちに表情をほころばせた。
「……ありがとう」
 レックスにも話しておかないといけませんね。
 そのことばに、ベルフラウが、自分たちの走ってきた方向を振り返る。
「先生」、
 早く戻りましょう。レックス先生が起きたら、きっと心配しますわ――告げるべきことばはこんなふうに、ちゃんと頭のなかに浮かべていた。
 もう少し歯車が噛み合っていれば、口に出来たはずだった。
 けれど、

「――わたしたちの両親……本当はね、事故で死んだんじゃないんですよ」

 どこか遠くを見る眼差しで零されたアティの告白のために、それは、喉の奥へとしまい込まれてしまった。
「……え?」
 それもまた、以前聞いた話だった。
 いつだったか、たしか授業の合間だったか? 何のはずみだったか忘れたけど、そう、先生たちのお父さんとお母さんは事故で亡くなってしまったんだと、聞いた覚えはたしかにある。
 目を数度またたかせた子供たちを見、アティは申し訳なさそうな表情でことばを続けた。
「誤魔化しててごめんね」
 それから、誰かが何か云うより先に、
「本当は、殺されたんです。戦争に負けて逃げる途中だった、旧王国の軍隊に襲われてしまって……」
 旧王国。
 それは、たしか、の使う剣の流派ではなかったか?
 ちらりとそんな思考がよぎるが、すぐに気を取り直す。あのいけすかない刺青男と違って、先生たちは、剣筋が同じってだけでを嫌うことはない。それは自分たちも同じ。
 は、本当にいいひとで。そんなの関係なしに、あの日からずっと一緒にがんばってきた仲間で。
 ……なのにどうして、今、いないんだろう……?
 今朝一番に聞いた。彼女がまだ見つかってないことは。今日も探すって云ってた。……見つかってるといいな。
 そう思いをめぐらせながらも、子供たちの耳は、ちゃんとアティの声を拾っている。
「お父さんとお母さん、小さかったわたしたちのことを庇って死んじゃって……わたしたち、目の前で、それを見て」
 赤い、赤い空の下。
 赤く、赤く染まる大地が。
 まるで、目の前に迫ってくるようだった。――つい先日見た光景があるからか、嫌になるくらい鮮明な映像が浮かぶ。
「何がなんだか、判らなかった。判らないうちに助けられたわたしたち、――血まみれで、笑っていたらしいです」
「……たすけ、られた?」
 誰に、だろう。
 軍隊という、数と力で襲いかかった刃から、誰が、そんな小さな子たちを助け出したのだろう。
 ぼんやりと考えはしても、答えは見つからない。そして、アティも答えない。

「なにも、出来なかった」

 奪われる、大切なぬくもりを前にして、何も出来ずにいた。
 何も知らないままに求めた気持ちが、別のそれを奪い、翠の双眸に涙を呼んだ。

「――弱い自分が憎らしくて、大嫌いで、……笑うことでしか、現実を否定出来なかったんだと思います」

 そうして、勝手なゆめを描き出し閉じこもった。

「そうしてる間は、嫌なことを認めなくてすむ。優しいゆめにまどろんでいられる。そう思ってたんでしょうね」

 おとうさんとおかあさん。
 村の青年と、――――

「でも」、

 どこか頼りなさげになっていったアティの声に、そこで力がこもったことを子供たちは感じた。
 ひどく重い話を聞いていた気持ちが、ほんの少しだけ上向いて、ぱっ、と、落としていた視線を持ち上げる。
 ……アティは笑っていた。
 やさしく、やわらかく、――いつもと変わらない、笑顔。

「そんなゆめに……付き合ってくれた、ひとがいたんです」

 “あたしがいるから”
 “みんながいるから”

 “あたしとみんなが、あなたたちを”

(大好きよ)

 だから、

 “戻っておいで”――

「村の人たちもね、入れ替わり立ち代わり、話しかけててくれたんです」

 そうして浮上し、直視したのは喪失の現実。
 手に残っていたのは、おおきなほうちょうでうずくまるなにかをつらぬいた感触。
 ゆめにまどろんで誤魔化していた感情を、そこですべて吐き出して、眠った。

「……」

 いてくれる、って、云ったのに。少しだけ思う。
 でも、それでよかったのかもしれない。
 そうしなくちゃ、――受け入れた喪失を埋めるため、より深いゆめに、あのひとごと引き込んだかもしれないから。

 口を閉ざしたアティに話しかけていいものかどうか、迷ってる素振りの子供たちに、意識を戻した。
「それでね、思うんです。強い力はどんなものだって打ち負かすことが出来るけど、想いを込めたことばの持つ力は、そんなふうに打ち負かされたものを、より強く、よみがえらせることが出来るんだ、って」
 だったら、わたしたちは、ことばの力を信じたい。想いの力を信じたい。
「打ち負かす力じゃなく、判り合うための力で守りたいんです。ひとりでも多くの人の、優しい笑顔を」
 じっと見上げてくる子供たちを順繰りに見回すアティの表情は、やわらかくほころんでいる。
 それが真実、彼女たちの願いで、譲れない気持ち。
 砕かれた心をつなぎとめたあの日から、ずっと育んできた、たったひとつの決意。

「――でも」、

(大好きよ)

 そんなことを云っていたから、あの優しい声と腕を、一度失いかけたのだ――

「……今回ばかりは、そんなこと云っていられませんよね」

 え? と、子供たちは首を傾げた。
 つい今しがた、確りとこちらを見てたアティの視線がまた、不安定になったような気がする。
「イスラたちのことをこのまま放っておけば」、そんな疑問符にも気づかないまま、彼女はことばを紡いでいた。「たくさんの命が、その犠牲になってしまう」
 だから、戦います。
「先生……?」
「だいじょうぶ。レックスに無理はさせません」
 声ににじんだ不安を、どうとったのか。
 アティが笑うのは、安心させようというのだろうけれど。
「わたしだって、一度は剣を使ってたんですから……きっと、出来ます」
 イスラを倒すために、全力であの剣を揮います。
 告げる彼女の声は、表情は、……眼差しは。
 どこか、どこかが。

「力じゃなくちゃ、もう、止められないから……」

 どこが――どう。
 浮かぶ違和感を明確にことばに出来ないまま、子供たちは、それでも何かを云わねばと、懸命に頭を回転させる。
「先生」
「さ、そろそろ戻りましょう? みんなが心配しちゃいますから」
 だけど。普段なら、それに気づいてことばを待ってくれるアティは、すぐに身を翻してそう云った。
 振り返ることなく歩き出した、そのひとを。
 彼らは結局何も云えぬまま、追いかけた。


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