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【彼女の決意】

- 目覚め・1 -



 夢を見る。
 暗く深く冷たく痛く、どこまでも落ちる、夢を見る。
 嘲る者。
 迫る者。
 貶す者。
 あらゆる手段でぶつけられる負の感情に抵抗できず、どこまでも、どこまでも堕ちていく夢を見る。

「――――っ」

 目覚めは最悪。
 脂汗のにじむ額を拭う彼女の表情とは裏腹に、窓辺から差し込む日の光は、やわらかくやさしく澄んでいる。
 ……胸に凝る喪失感は消えぬまま、中天から僅かに傾いた太陽の位置をたしかめると、彼女は、眠りつづける弟の部屋を後にした。


 静まり返った廊下は、今、船内には誰もいないことを教えてくれた。こつこつ、やけに大きく響く足音を耳にしながら、それではみんな外にいるのかと考える。
「随分寝過ごしちゃったみたいですね……」
 据えつけられた窓からふと外を見、改めて苦笑。
 そのとき、船体の壁を通して外から声が聞こえた。何か話し合っているようだ。
 会話しているのが複数の人物であることはわかるが、どれが誰かということまでは判別しづらい。
 けど、と、止めていた足を再び動かす。あれから何があったのかは、聞いておいたほうがいいだろう。
 まずは喉を潤そうと向かっていた台所から、方向転換。
 さっきより急ぎ足になって、幾つかの船室の前を通り過ぎ、アティは船の外へと向かっていった。

 ――そうして。
「ん?」
「ナップ? どうしたの?」
 召喚術は便利だが、なにもかも召喚術に頼りきってはならない、そんな教えを忠実に守って、昨日の戦いで受けた傷の手当てをしあっていた、マルティーニ家の子供たち。
 その長兄であるナップが、ふと、ウィルの足にきつくきつーく包帯を巻いてやってた手を止めて、扉のほうへと目を向けた。
 そんな兄の隙をつき、あまりの絞めつけに顔をしかめていたウィルが、とっさに包帯を取り返す。ぶつぶつ云いながら巻きなおしていた彼は、ぱっと立ち上がった兄の勢いに巻き込まれ、あわや背中から倒れそうになってしまった。
「ナップ!」
 最初アリーゼの紡いだ疑問符付きと違って、非難ごうごうの呼びかけに、だが、ナップは何も云い返さない。
 いぶかしげな表情のまま、耳の後ろに手のひらを当て、目を閉じている。
 だが、それもほんの一秒ほど。
 手を離したナップは、晴れやかな表情できょうだいたちを振り返った。
「今の、アティ先生のブーツの音だ!」
 授業のためにこの部屋に向かってくるのがどちらかを間違えたりしない程度には、彼らの耳に馴染んだ足音。
 自信満々なナップの発言の直後、
「え!」
「ほんと!?」
 がばっと立ち上がる、ベルフラウとアリーゼ。ほぼ後衛にいた彼女たちは、そう大した外傷も負っていない。
 心配していた先生が起きてる。
 その思いで、ばたばたと部屋を駆け出していく兄弟を、
「……待てってば!」
「ミャーミャミャー!」
 数拍遅れてようやく身を起こすことに成功したウィルと、彼を待ってたテコが、包帯をほっぽりだして追いかけた。
 そうして真っ先に先生たちの部屋へ向かった彼らが、眠りつづけるレックスの姿だけを見て、ならば外かと方向転換するのは、それからもう少しだけ後のこと。



 外に近づくにつれて、会話の内容がちょっとずつ耳に入るようになってきた。
 ぽつぽつ聞こえる話し声。
 何か周囲を憚っているような、深刻な感じの……数人が頭をつき合わせていると思われる。
 大きな声はカイル、ちょっと高い声はソノラ、これはすぐに判る。
 そのほかに、意識してるのかしてないのか、トーンを抑えて喋ってるひとが、少なくともふたりくらい。……低めのこの声は、先のふたりから連想して、スカーレルとヤードだろうか。
 そこまで考えて、あれ? とアティは首を傾げた。
 誰か足りない。
「……どこかに行ってるんでしょうか?」
 自分たちとよく似た髪の色を持つ、小柄な少女。
 危ないんじゃないかな、と思う。無色の派閥はまだいるのに、イスラが紅の暴君を
「――――――」
 突き出てた紅い刃。
 滴ってた、赤い雫。
 崩れ落ちた、それは……
「っ」
 不意を突くようにして網膜によみがえった映像を、アティはあわてて振り払う。
 ぶんぶんと頭を振った拍子に乱れた髪など放り出し、ぎゅ、と自分の身体を抱いた。
「だって」、掠れた声でつぶやく。「抱いて、くれましたよね」
 としてか、おかあさんとしてか、そんなの今はどうでもいい。
 彼女が――あの日を知る彼女がアティを抱きしめてくれたのは、その映像の後だったんだから。腕は、とても、温かかったんだから。
 だから……そんなことは、きっと、ない。
 あの後自分たちは倒れちゃったけど、こうして船にいるということは、みんなで運んでくれたんだろう。だから、彼女も船に戻ってる。戻ってるはず。
「お散歩とか……そう、もしかしたら、ひとりで偵察になんか行っちゃってるのかもっ」
 なら、やりかねませんっ。
 うんうんと大きく頷いて、それならばとばかり、足を大きく踏み出した。
 その瞬間、

「だからって、また先生に魔剣を抜けってのか!?」

「……」

 怒鳴り声めいたカイルの声が、取り直したばかりのアティの気を挫くように響いたのである。

 ――びくり、と、身を竦ませた彼女の耳に、喧々轟々とした海賊一家の会話が届く。
 剣を持ったイスラに対抗できるのは、同じ剣の使い手のレックスしかいない。けど、レックスにイスラを倒させるようなことはさせられない、それ以前にあの魔剣は危険すぎる、それは判る、だがそれならどうしろと……
 出口の無い迷路だ。外側から誰かが見ていれば、そう称するだろうか。
 そして、迷路から出口を奪っているのは、他でもない自分たちなのだと――知らなければいいのに、アティは、そしてレックスは、知っている。
 戦うことを厭うから。
 命を奪うことを良しとしないから。
 そんなアティたちの信条を、彼らは大事にしてくれているから。
 だから……迷路に本来ある出口は消えてしまう。
 魔剣をもってイスラを倒すという出口が、結論が、そこでなくなってしまうのだ。
「――っ」
 自覚はしているつもりだったけれど、いざ誰かがそれを話しているのを聞くのとでは、やはり違う。
 この場に立っていることが、何かとんでもなく罪悪めいた気持ちに襲われて、アティは身を翻そうとした。

 かたん、

 手を添えていた壁、少し釘の弛んでいた板が、手のひらを放した弾みに小さく揺れた。
「――あ」
 音に気づいて振り返ったソノラが、やはり、己の発した音に固まってしまったアティの姿に気づいて声をあげる。それにつられるようにして、カイル、ヤード、スカーレルの視線もまた、アティに注がれた。
 だが、双方、それ以上の動きはない。出来ない、と云うのが正しいか。
 そんな気まずい沈黙を味わうこと……しばし。
 ややあって、スカーレルが腕を組み替えつつ口を開いた。
「おはよ、センセ。……もう身体は大丈夫なの?」
 そのなんでもない、気配りの行き届いた切り出しに、うまく乗ってしまえればよかったのだろう。
 けれど、アティはそこまで器用ではない。
「え……は、はい。ありがとう、ございます。平気です」
 と、しどろもどろにそれだけ告げて、じり、と、林の方へ向けて後退した。
「ですから、目覚ましに散歩をしようとですね……い、行ってきますね!」
「あ、先生!?」
 腕を伸ばし、足をこちらに踏み出そうとしたソノラの姿を、背後へ動かした視界の端におさめたのを最後に、アティは林へと走り出す。
 むぎゅ、と、少女が羽交い絞めにされるような声と音も聞こえたが、もう、彼女が振り返ることはなかった。

「……聞かれたか?」
 妹を取り押さえたカイルが、眉根を寄せてそうぼやく。
「当たり前じゃん! アニキがあんな大声出すからっ!!」
 離せ離せとじたばたしつつ、ソノラが喚いた。 
 そんな兄妹を呆れたように眺めていたスカーレルだったが、「……あら」と、さきほどアティの出てきた出入口に目を向けた。
 つられて、ヤードもそちらを振り返り、同じように「おや」とつぶやく。
「今の……どうしたんですか?」
 連れ立ってやってきた、マルティーニ家のきょうだい四人が、いったいどこから見ていたのだろう。
 アティの走っていった方向へ、ちらちら気がかりそうに目をやりながら、彼らへ問いかけてきたのであった。


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