毎朝の検診は、もはや日課のようになっていた。
起床後、身支度を整えてまず向かうのは、軍での馴染みある訓練場ではなくて、よく判らない機械がごったがえした一室。
脈をとったり心拍を測ったり、負った傷の治癒具合を診ているのだと説明はしてくれたが、未だにそれらの機械がどういう理屈で動いているのかは判らない。
それでもどうにか理解しようとしているうちに、どんどん渋面になってしまったこちらを、この集落の主――曰く、護人という役目なのだそうだ――である女性は「いいのよ、判らないほうが当然なのだから」と、苦笑混じりに宥めにかかった。
――そんな他愛のないやりとりは、もう随分と前のことのようだ。
「何があったのだ?」
いつものように診察室へ向かい、扉を開け放つなり云い放ったアズリアを見て、そこに待機していたアルディラとクノンが、音をたててかたまった。
……たしか看護人形と云っていたな。
文字通り、固まる際に“ガキッ”と軋んだ、ショートカットの少女を模ったほうを見て、なんとなく、そんなことを思った。
「隊長?」
僅かに遅れてやってきたギャレオが、入口に佇んだままの彼女の背を目にし、いぶかしげに呼びかける。
悪いとは思ったがそれには手を振るだけで応え、アズリアは再度、室内のふたりへ問いを重ねた。
「いくら部屋で大人しくしていると云っても、昨日子供が駆け込んできたことくらいは聞こえたぞ」
たしか、シルターンの鬼の子。一度イスラが人質にした、苦い思い出のある子供だ。
あの元気な声があわてふためいて何か叫んでいたそれは、当時のものによく似ていた。
「……そのあと、おまえたちが急ぎラトリクスを後にしたのもな」
ことばを探しているのだろうか、凝然と自分を見つめる二対の目。
背中から、戸惑ったように注がれる部下の視線。
それらに一切臆することなく少しだけ付け加えると、アズリアは、彼女らの答えを待った。
待つこと、一分はあっただろうか。
躊躇していたのか、それとも、切り出し方を考えていたのか、それは判らない。が、彼女らは事態を秘めておくつもりではなかったようだ。
「……何かどころの騒ぎではないわ」
ふ、とアルディラがため息混じりにそう告げる。
その横で、クノンが無言のまま、普段の診療器具を準備し始めた。
「おい?」
「話は検診が終わってからよ。下手に刺激すると、正常なデータがとれないから」
「……」
それは、正常なデータがとれなくなるほどの、衝撃的な出来事なのか。
問わずとも自ずと答えを察し、アズリアはようやく、診察室に足を踏み入れる。
廊下で所在無く上司の背中を見ていたギャレオもまた、その後に続いたのであった。
――そこには、重苦しい空気が漂っていた。
集っているのは片手の指にも満たない数だが、そのひとりひとりの醸しだす雰囲気が二乗にも三乗にも重ねられ、まるで十数人もの人間がどんよりと顔を突き合わせているかのような印象だ。
いや、単に気分だけの問題ではなかろう。
夜を徹して島中を走り回った疲労もまた、表情に更なる陰りを落とすに充分すぎるほど、彼らを苛んでいるのだから。
日は高い。
すでに正午をまわって少し過ぎた時間だが、今ここにいる彼らは、そのほんの少し前に仮眠から目覚めて集まったのだ。
昨日の疲れに重ねて、満足に睡眠もとれない現状では、このような雰囲気が生まれるのは仕方のないことであろうとも云えた。
……昨日の疲れ、とは、改めて記すまでもあるまい。風雷の郷を襲った無色の派閥との戦いによるものだ。
まるで嘘のようだ、と、その場の数人は云うだろうか。
あの戦いから、まだ、正味二十四時間も経過するかどうか――今はまだ、そんな時間なのである。
そして、
「……どうしちゃったんだろ」
赤い髪の女の子が行方不明になってからも、同じほどの時間を経過していた。
目の下に隈をつくったまま、どんよりと地面を見てつぶやくソノラの声は、ひどく重い。
年も近く、わりと気が合って、就寝のときだって同じ部屋だった。この島に流れ着いてから初めてひとりで寝たベッドは、広すぎるくらいに空虚だった。
「……」
そんなソノラのつぶやきに、誰も答えられない。
彼女と同じように隈をつくったカイルが、やりきれぬ表情で視線を横へと動かした。
と、同じように目を逸らしたヤードの視線とそこでぶつかる。
しばしふたりは硬直し、やがてほぼ同時に、また視線を彷徨わせた。
ぎこちない沈黙。
それに耐え切れなくなったか、ヤードが俯いたまま口を開いた。
「……少なくとも、遺体はありませんでしたが」
「やめてよ縁起でもない!」
ばっ、と顔をあげて怒鳴るソノラ。
「あ……す、すみません」
瞬時にして潤んだ真っ赤な目に睨みつけられ、ヤードは目に見えてうろたえた。
彼自身、特に何を意識したわけではないのだろうが……ソノラにとっては、に関するものでは、無事だったという報せ以外、心をささくれだたせるものでしかないのだろう。
ところが、さらに追い打ちをかけるように、淡々とつぶやく声があった。
「縁起ごとじゃない」
「スカーレル!!」
ヤードに向けた以上の剣呑さでもって睨みつけられたご意見番は、だが、落ちてきた髪を指先でいじりながら、特に動揺した様子もなく、ソノラに視線を返していた。
「遺体はない。つまり、死んだ保証はないってことでしょ。なら、喜ぶべきことだわ」
「で……でも」
云いかけて、ソノラは口ごもる。
続けて紡ごうとしたことばこそが、ヤードのそれよりももっと、の生存を否定するのだと気づいてしまったから。
遺体がないなんて、なんの証拠にもならないんだと。あのとき出現した白い焔が、何もかも飲み込んでしまったのなら――の、身体も。
「……っ」
唇をかみ締めてことばを殺し、ソノラはそのまま俯いた。
白い布の包みを握りしめ、胸に押し当てている様は、まるで何かを追悼しているように見えなくもない。それこそ、縁起でもないと怒鳴られそうだが。
つとソノラを見下ろしたカイルは、何も云わず、彼女の帽子に手のひらを乗せた。ばふっ、と、空気とともに気の抜けるような音が響く。
「よく云うじゃねえか。野生の獣は、傷治すときにゃ誰もいない場所でじっと蹲ってるって。……も案外、そうかもしれないぜ?」
と、これ、実を云うなら、彼にしてはかなり頭をひねった発言だったのだが。
「――ぶ」
「……」
「カイル、アンタ……」
妹がカエルの潰れたような声を出してがくりと肩の力を落とし、客人が目をまん丸にし、スカーレルがどこかひきつった笑みを浮かべてくれるに至っては、思わず口元をひくつかせてしまった。
けれど、彼が何か云うより先に「そうねえ」と、ご意見番が首を傾げる。
ただそれは、カイルへの同意というより、何か思いついたような仕草だった。その証拠に、間をおかず、スカーレルの視線がヤードへ向けられる。
「ね。ちょっと試してみない?」
「え? 何を、です?」
きょとんと問い返す幼馴染みを見て、彼は、少しじれったそうに答えた。
「召喚術よ。と誓約した石、まだ持ってるんでしょ?」
その一言で、ぴたり、ヤードの動きが止まった。
ソノラもカイルも息を飲んで、今や一家と云われてもほとんど差し支えなさそうな客人を凝視する。
そうだ、そうだった。
がこの件に関ることになったのは、界の狭間だとかいうところで迷子になって、ヤードと誓約したから。そのときの召喚石が有効なことは、これまでにも何度か実践で証明されている。
――どうして、今までそれを思い出さなかったのか。
「い、今すぐ……っ!」
硬直の解けたヤードが、懐に手を差し入れた。
あわただしく取り出された紫の召喚石が、陽光を反射して淡く輝く。傷は入っていない。刻まれた、どこかの文字もそのまま。
目を閉じ、意識を集中するヤードを、三対の目がじっと見つめた。
――古き英知の術によりて、今ここに、汝の力を求めん
脳裏に描くは少女の姿。
最初の誓約のときならばまだしも、それを交わしたあとでの術には、対象の姿を正確に描くことが必要だ。明確なイマジネーション、そして対象である相手の真名。
我知らず、召喚石を握りしめるヤードの手には、力がこもる。
が、それは集中を妨げはしない。逆に、助力してくれる。
……描くは少女の姿。
赤い髪と翠の双眸を持つ、という名の彼女の姿。
――応えてください、さん。
祈るように高める魔力が、そうして頂点に達し、
――誓約に応えよ……!
紡がれた喚ぶ声。
そして、手にした召喚石が一度小さくきらめいた。
「……」
けれどそれだけ。
「……あ……」
呆然と、ほとんど何の反応も示さなかった――当然のように、召喚されるべき彼女を招きもしなかった――石を、四対の視線は、ただ見つめる。
そのうちのひとつ、ソノラの目が、みるみるうちに潤みだした。
「や……ッ」
「弱りすぎているということかもしれません……!」
慌ててつむいだヤードのことばに、ぴたり。今度こそ泣き出そうとしたソノラの動きが止まる。
「……弱り……?」
「ええ」
すかさずソノラの後ろにまわりこんでいたスカーレルが、よくやったわ、と、軽く片目を瞑ってみせた。
それをあまり見すぎないようにしながら、ヤードはひとつ息をつき、続きを待つソノラに語る。
「その……召喚に応じられぬほど疲弊しているか、もしくは相手の力が術者より遥かに上の場合、今のようになる場合もあるのです」
そう云いながら、もうひとつ、彼は思い出した。
手にした召喚石、そこに刻まれた異界の文字の感触を指に覚えながら、
「そう――そうです。さんは生きています」
先刻までと打って変わって力強いそれに、ソノラのみならず、カイルとスカーレルまでもが身を乗り出してきた。
「どういうことだ?」
「もしそうなっていたなら、この召喚石は召喚石としての役目を果たさなくなる。……こうして刻まれた文字も、おそらく消滅するのだと思うのです」
召喚獣の死と同時に召喚石がどうなるか――それを実際に確かめた、明確な記録が残っているわけではない。無色の派閥にしては意外な、と云われそうだが、殺してしまえば研究が出来ないため、けして死なせてはならぬと、全員が云い含められていた。
だが、召喚石と召喚獣は、通常一対一の関係だ。そのどちらかが存在しなくなった場合、当然つながりは断たれる。召喚石が砕ければ、召喚獣は解放されるし……逆に、召喚獣が死んでしまったら、召喚石とて何らかの反応を示そう。
現に、死とまでは行かなくとも、その寸前にまで追い込まれてしまった召喚獣が、送還術も使わぬのに元々の界へと還り、しばらくの間、うんともすんとも応えがなかったこともあったらしい。
「つまり、さんは死んでなどいないということです。早急に探し出さなければならないことには変わりないかもしれませんが、それだけは確かです……!」
珍しく、熱い口調で身振り手振り交えて語るヤードを見ていた三人の表情が、それで、どんどん晴れやかになっていった。
手にした包みをますます強く握りしめ、別の意味で頬を濡らし始めた妹の横、
「よっしゃ!」
と、カイルが笑みをたたえて拳を打ち鳴らす。
その勢いのまま再び捜索に行こうとしたのだろうか、身を翻した船長の襟首を、そこでスカーレルがむんずとひっつかんだ。
「げふっ」
「お待ちなさい」
なんか、随分前にもこんなことがあった気がする。
喉を押さえて盛大に咳き込むカイルを半眼で見下ろしながら、スカーレルが指を突きつけた。
「のことも大切だけど、肝心なことを忘れるんじゃないわよ。――昨夜はさすがに何もなかったけど、あれから丸一日よ」
無色の派閥だって、そろそろ体勢を立て直していてもおかしくないわ。
告げられたその名に、咳き込んでいたカイルも、どこか生ぬるい笑みを浮かべて彼を見ていたソノラもヤードも、再び表情を硬くした。
「……そうだったな」
本当に忘れていたらしい、カイルがバツの悪そうな顔になって立ち上がる。
「しかも、今じゃオルドレイクだけ気にしているわけにいかない」
「イスラ……だよね?」
「ええ」
その光景を四人が思い出したのは、きっと、ほとんど同時だったろう。
厚くたちこめていた暗雲、鳴動する大地、震えた大気。
そのさなかぶつかりあっていた、碧と紅の、対たる魔剣――その使い手。
――無言のまま、ソノラが自分の腕をさする。
「まさか、あいつが持ってたなんてね」
最強と云い換えてもいいかもしれないあの魔剣の片割れを、まさか、無色の派閥側であるイスラが有していたとは。
いつ手に入れたかは問題ではあるまい。
アズリアとともに船に乗っていたときか、それとも、荷を運ぶそのときからか……彼の立場を考えるに、手にする機会はいつでもあったはずだろうから。
大事なのは、ただ一点。
こちらとあちら、魔剣がそれぞれ。それで、プラスマイナス差引きゼロ。
そうなると、残る戦力は純粋に各々の技量比べになると云っても過言ではないのだ。
いや。
「……あのさあ」
実に云い難そうな表情で、だが、云わねばはじまらぬと思ったのだろう。ソノラが、緩慢な動作で他三人を見渡した。
「先生……奴らと戦えるのかな……?」
差引きゼロにするためには、レックスとイスラが互角であるというのが大前提だ。
しかし、剣自体の力はともかくとしても。
「……それを期待するのは、少し、酷というものではないでしょうか……」
ふとこれまでの戦いを思い返したらしいヤードが、さらに云いづらそうにそう答える。
彼らがついたため息は、先刻のものに負けず劣らず重かった。
そうして、どうにか他の手段はないかと頭をひねり始めるが、結局――いつの間にかどうしても、話は魔剣へと及んでしまうのであった。