ふ、と零れる自嘲的な笑み。
「ふふふふふ」
と零れるやけっぱちの笑み。
「ふふふふふはははははあっははははははは」
と零れまくるもはや何がなんだか判らない笑み。
全身を襲う虚脱感と、さっき覚えた尋常でない緊張と、それからやっちまったよ的やりきれぬ思いが、彼女をしてそんな奇行に走らせる。
澄んだ水面に映る己の姿もまた、それを助長していた。
「……」
笑い止めて、しばし、揺れる水面を見つめる。
肩まである焦げ茶の髪、ちょっと丸っこい黒色の眼。
しかめっ面して、こっちを見返す少女がひとり。
――ざぶん。
そこに頭を突っ込んで、衛生がどうのとか考えずに、ごくごく、水を喉へと流し込む。
考えてみたら、水を飲むのは何時間ぶりだろう。それと同じくらい食べ物を入れてない胃が、思い出したように悲鳴をあげた。
それをも補わんとばかり、水をごくごく。――水太りするかな、ちらりと他愛のないことを考える。
そうして、再び顔を持ち上げた。
何も考えず水に突っ込んだ顔面と髪の先から、ぼたぼたと水滴が滴り落ちて水面を乱す。今は、ゆらゆらとした焦げ茶の影が揺れている程度。見覚えていたより長い。きっと、あの日から今までの間に伸びたんだろう。
「……ははっ」
なんだかな、とつぶやいて、背中から地面に倒れこんだ。
水辺のせいだろうか、少し湿り気のある土は、予想したよりずっと優しく身体を受け止めてくれる。
そんなふうに変えた視点の端、木々の向こうではあるけれど、もうしばらくも進めば辿り着けそうな建物へ、首をねじって目を向けた。相変わらずの威容を誇り、静かに佇むその建造物の名を、喚起の門という。
「……」
目指す場所であるそれを眺めることしばらく、ややあって、だらしなく伸ばしていた四肢に力を入れた。
「よいしょっ!」
まだ少し気だるい身体ながら、気合い一発、飛び起きる。
経過した数時間分、少しは回復したのだろうか。とりあえず、起きたとたんに貧血を起こして倒れ込むような事態だけは避けられた。
ついでに水の冷たさで、ぼやけていた意識もはっきり。
太陽が昇りきったとはいえ、まだまだ空気は肌寒い。それを胸一杯に吸い込んで、吐き出して――ああ、ようやく人心地。
いつ死んでもおかしくない状態から、どうにかこうにか抜け出せたらしい。もっとも、そう考えながら、死んでしまうという結果だけはなかったろう、と、ぼんやり思うわけではあるが。
だって、あれは護りのちから。
実力折り紙つきなサプレスの魔王が、ぎっちり編みこんだ姿替え、兼、お守り……だったらしい。そうでなきゃ、心臓刺されて生きてるなんてこと、まずありえない。
もっとも、当然のように代償が発生したわけだが。
「いつだったかなあ……」
――死んだら名も無き世界に戻れるかどうか、考えてたのは。
もう随分前のことのようで、けど、まだ季節ひとつふたつ前の話……ただし、ここから数えるなら十も二十も先の話だ。
そんな手段で戻る気など、そのときも今も、毛頭ありゃしないけど。
「――――、と」
ほんの一瞬。暗くなった視界を振り払うように、頭を振る。
うん、と気を取り直す。
今はぐだぐだ悩んでる場合じゃない、とにかく、誰に見つからないような場所で休んで、失った体力を回復しなくては。そうでなきゃ、話が始まらない。まともに思考することさえ出来やしない。
……まあ、その。
あんな陰気くさい場所より、あったかいベッドが恋しいんじゃないかと問われれば、きっと全力で頭を縦に振るだろう。
でも、それは無理な相談。
――ここに“”は、いないのだから。
日の光を浴びて、明るい色に透ける髪。顔の前に落ちてきたそれを払って、姿勢を正した。
「……さあて、と」
それでも、しゃん、と前を見て。足を踏み出すことは出来るのだ。
「それじゃあ、行きますか――」
さあ行こう。
疲れた身体をひとまず休め、再び歩き出す糧にするため。
驚いた。
ほんとうに――驚いた。
もはや確定してしまった星の往く道を、それは力技でひん曲げた。
「……うわあお。」
星読みの盤を凝視して、メイメイはしばし硬直する。
無理矢理軌道を変えられた星は、どうにか、元々進もうとしてた場所に戻ろうとしてる。だけど、それは思うようにいっていない。
何かが。
誰かが。
それを、妨害しようとしてる。
「うわああぁぁ――――」
こういうのって、アリ?
酔いもすっ飛びかねない衝撃を感じているのだが、のんきなメイメイの口調からは、果たしてそれを推し量るのは難しい。
さて占い師としては、本来、このようなごり押しめいた道筋の違え方を見過ごしたりは出来ない。
……のだ、が。
まして、ほぼ確定してた軌道を捻じ曲げたことで、何が起こるか知れない以上、早急に、その要因となった“何か”だか“誰か”だかを正さなければいけない。
傍観者には傍観者の、やるべきことというのもある。
世界の律を壊さぬために。
……の、だが。
「う……う〜、むむむ」
盤を覗いて、メイメイは、腕組みしたまま唸りつづける。
「やはし、これは、昨日のアレと関係があるのかしらね……?」
急に不安定になった島、鳴動した大地、震えた大気。ほとばしっていた碧と紅は、離れていた彼女の店にも、充分にその異様を伝えていた。
――そして、それ以上に。
荒れ狂うすべてを吹き飛ばさんと、何者にも勝る勢いで顕現した――
白
「……まさか、ねえ?」
あの子のかと思った。
遠い遠い昔に遠い場所へ行ってしまった、懐かしいあの子のそれに似て、いや、引き出された量の差はあれど、その質は同じだった。
純粋な世界のちから。あの子だけが道を持ち、あの子だけが触れること出来た……白い焔。
。
銀を好む悪魔王に、そんな嘉名を贈られた、あの子の。
「でも」、
つぶやいて、メイメイは、組んでいた腕を解いた。
「違うわね」
あの子のそれなら、世界が、こんなに放置してたりしない。島をつつむ共界線を突っ切って、彼女を取り戻そうとするはず。
……それをしないのは、きっと、猛る焔が、使い手の望みのために喚ばれたから。
確固たる強い願いは、世界を守護するためでなく――大切な誰かのため。守護者としてでなく、ただひとりの誰かとして求めるようなことを、あの子は、けして、しなかった。
だから世界は、違うと判断したのだろう。ただの予測ではあるけれど。
「それに……随分と無理してた、かも」
使い手が誰であれ――ひとりだけ、予想していないこともないが――、ことばどおり、無理をしているような印象があったことも、また否めない。
あの焔は、悪魔王の望んだあの子によって形作られたものなのだから。どんなに精巧な模造を用いても、本来同様の出力を期待すれば、道は、負荷に耐え切れず砕け散ろう。
たった一瞬閃いた、最後にして最大であったろう焔から感じ取れる情報は、けして少なくなどなかった。
が、
「にゃふ」
もぉいいわ。
そこまでめぐらせた思考を、メイメイは、その一秒後に投げ捨てた。
「気張れ気張れ、若人軍団」
壁際の卓に置いていた杯を手にとって、ぐいっと中身を空にする。ぷは、と吐き出した息は熱く、頬は染まって目は潤む。
「お酒、美味しければ、メイメイさん幸せっ」
美味しいお酒を飲んでキミたちを見てるから――がんばんなさいな、若人ども。
遠い、遠い昔。
行ってしまった彼女を思って飲む酒が、随分と苦かったことを思い出す。
だからいいのだ。
まだいいのだ。
盤を見て、星を見て、それでもお酒が美味しいのだから――きっと。
「うん、きっと」
――歪められた軌道は、きっと歪みなんかじゃないのだ――
……イレギュラー、万歳、ってね。
限りなき夢と幻の奥、たゆたう誰かが小さく笑った。