その腕は、とても冷たかった。
だけど、たしかに脈打っていた。
「……え!?」
己を亀裂から引き上げてくれた、白い陽炎まとう腕の主を見るアルディラは、命をとりとめた感謝や安堵を表すより先に、驚愕を覚えざるをえなかった。
クノンも同じだ。
おそらく視線をめぐらせれば、誰もが同様の表情だったろうが――生憎、そこまで気を回す余裕など彼女にはない。
ただ、
「……護りが」
どこか茫洋としたフレイズの声が、そうつぶやくのだけは、何故かやけにはっきりと聞こえた。
そして。
白い白い焔に縁どられ、もはや輪郭さえはきとしない彼女が、その踵を返す前。ふわりと浮かべた笑顔と、心なし色を薄らがせている髪のたなびく様だけは、何故かやけにはっきりと見えたのだ。
見届けることだけが、残された自分の義務だと思った。
ぶつかり合う碧と紅、鳴動するこの島の行く末を、見届けることが。――あのひとにも、弟にも、置いていかれた自分に出来る、最後のことだと思った。
だから、誰が何を叫んでも耳には届かず、誰がどんなに力を入れてもその場から動かず。
ただ、アティは、そこにいた。
……懸命に叫んでる、みんなを、何の感慨もなくその蒼い双眸に映しながら。
ねえ。
もういいんです。
……逃げてください。
そう云ってあげたかったけれど、弟への呼びかけで懸命な彼らには、果たして届いたかどうかわからない。
ねえ。
もういいんです。
逃げてください。
もうすぐすべてが消えるから。
逃げてください。
全部全部わたしたちが、抱えて消してつれていくから――
ほとばしる紅と碧で、前に立つ皆の背中は影絵のよう。
そんなことを思うアティの目の前に、
「アティ」
まわされた、白くぼやける少女の腕。
――“さん”のついてない、あのひとの、やさしい、あたたかい、声がした。
その異変に気づいて、前にいた何人かが振り返る。
「!?」
「なんで……!」
驚愕の叫びは、アティを抱きしめるそのひとに。
ひどく冷たい、だけど、少しずつあたたかく、脈打っているそのひとの腕を。
「――ああ」
アティは、知っている。
「おかあさん」
「うん」
やさしく、そのひとはうなずいた。
肩口に押し当てられた頭が、小さく一度、上下した。
身体にまわされた腕に、そっと手のひらで触れる。――この腕。この手のひら。
そう、覚えてる。
「おかあさん」
もう何もかも終わったと思ったのに、まだ、頬を濡らすだけのものが残ってた。
滴り落ちるそれは、抱きしめてくれる腕をぽたぽた濡らしていく。
「いつもこういうとき、時間ないね。ごめん」
いつもって、いつだろう。
問うより先に、零れる呼びかけ。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん――――――」
振り返りたい。
抱きしめ返したい。
だけどそれをしてはならないと、まわされた腕が告げている。
そうして声として何かを云う代わりに、腕に、一度だけ力がこもった。――強く。窒息してしまいそうなほど、強く。
「大好きだよ、アティ」
「おかあさん……っ!」
白い腕は解かれて、白くけぶるそのひとは、狂う魔剣のもとへと向かっていった。
――もう少し。
――もう少し、もう少しでいいんです。
この世界には神様なんていないっていうし、こうして祈っても意味なんてないのかもしれない。
だけど、わきおこるこの気持ちは、祈り以外の何ものでもない。
――もう少し。
祈る対象などいなくても。
祈りが何に届かなくても。
この気持ちが消えないうちは、まだ、動くことが出来るから。
――もう少し、もう少しだけ、もたせて。
絡み付く碧の糸を、紅の網を、断ち切るまで。
もう少し。
もう少しだけ、この姿でいさせてください――
歩む先に、人影複数。
喜色を浮かべてぶつかり合いを眺めていたオルドレイク、ツェリーヌ、そしてプニムをはがして手に持ったままのウィゼルと、あまりにも現実離れした現象で心ここにあらずのビジュ。
……邪魔だなあ。
行きたいのはそこじゃなくて、そのもう少し向こう。
でもそれは、あちら様にとっても同じらしい。
「死にぞこないが何をする気だ?」
「うるさい」
杖を突きつけるオルドレイクを一瞥し、一言のもとに切り捨てる。
くら、と揺れる視界。
傷はふさがっても、流れ出た血まで補充されたわけじゃない。いくら桁外れな魔力で編まれてるって云ったって、主目的は護りじゃない。生死にかかわる傷を治療出来るほどのものではないのだ。塞ぐだけで精一杯。
加えて、そんな状態で道全開にしてるんだから、死因がこれになったっておかしくないってくらいだ。
……それでも、果たして、足りるかどうかは判らなかった。
喚くツェリーヌなど眼中になく、見通すはぶつかる紅と碧。
その魂に絡みつく――いつかも見た、無数の糸。
あの一本一本に、それだけでも発狂しそうな怨念が詰まってる。
痛み。
苦しみ。
哀しみ。
嘆き。
怒り。
恨み。
――いったいどれだけの存在を束ねれば、あれほどのうねりが生まれるのだろう。
それらは一本の例外もなく、魔剣を握るふたりへと伸びている。
絡めとろうと。
引き込もうと。
その身体を魂ごと、自分たちの側へ招き寄せようと。
あの深い深い場所で囚われていた黒い影。
それと同じモノにするために、魔剣を握るふたりへと伸びている。
……そんなこと、させてたまるか。
今の自分で足りないならば、それ以外のもので補うまでだ。
口は自然に動いてた。
ちょっとした悪戯を思いついたのは、ちょうどそのとき。
口の端持ち上げて、オルドレイクを見据える。
白い焔が猛るこちらを、向こうがきちんと見れたかどうかさだかでないけど。
「――名乗れと云ったね、オルドレイク」
「む――?」
何かを感じたのだろうか。
オルドレイクの持つ杖の先端が持ち上がり、鈍く光る。はめこまれているサモナイト石が、菫色の光を生み出そうとしていた。
「刻まれし痛苦において」、
けど意味はない。
彼の詠唱より、こちらのほうが早い。
「汝、我が声に」、
「」
……なにしろ、たった一言で、それは済んだのだから――