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【別離】

- まどろみ、遠く -



 ――ほぎゃあ、ほぎゃあ、

 優しい声。
「おめでとうございます、元気な赤ちゃんですよ」
 優しい手。
「はい、抱いてあげてください……そう、ちゃんとお尻と頭を支えてあげてくださいね」
 優しいぬくもり。

 ――ほぎゃあ、ほぎゃあ、

 泣くのは、哀しいからじゃない。
 泣くのは、うれしいからだ。
 泣くのは、生まれたよろこび。生きてる主張。

 泣くことで自分を主張する。

 まどろみを通り抜けて、ひとつの自分としてこの世に生を受けた、その第一歩。

 握りしめていた手のひらを、一本一本、丁寧に解かれる。
 そのたびに、零れ落ちる。
 どこかで出逢った哀しい魂。
 泣かないでと伸ばした腕。
 それ以上に、知っていた、幾つもの幾つもの――

 そして手のひらが開く。

 ――ほぎゃあ、ほぎゃあ、

 生まれた。
 それ以外の事実はすべて、砂のように零れて消える。

 哀しいことじゃない。
 だって、これから知っていく喜びは、知っていた以上の価値なのだから。

「名前は、決めたとおりでいいね?」
「ええ、もちろん」

 優しい、声の。

「これからよろしくね……



 ――……夢を見た。

 懐かしい、暖かい、そして、遠い遠いゆめ。
 思えばそれが最初の、そしていざないの第一歩。
 もう少し先に進めば、あの懐かしい人たちの顔も見れただろうか。期待しなかったわけじゃない。
 けど、それをするには、ちょっとばかり周囲が煩かった。

 ――そして、意識は浮上する。

 泣いてる。
 哭いてる。
 ないてる。

 ――ないている。

 響き渡る嘆きが聞こえることに、驚いた。
 徐々に遠ざかるだろう五感が、しつこく働いていることに、びっくりした。
 いや、だって。
 普通死ぬでしょ、心臓やられたら。

 事実、痛い。
 これ以上ないってくらい、痛くて熱くて痛くて熱くて痛い痛い痛い痛い痛い――
 できるものならこのまま痛みに狂ってしまいたいほどに、ただ痛い。
 だけどそれを許さない、痛みを遥かに凌駕する嘆きが、その頭上で飛び交っている。

 哭いてる。
 泣いてる。
 ないてる。

 ――泣いてるね。

 おかあさん、と。

 ――ないているね。

 ああ。
 やっぱさ、死ぬときってアレだ、スローモーションなる暇もないや。一瞬だったよね、さっき突き抜かれたの。
 うん。
 じゃあ、このまま横たわってれば死ぬんだろうか。
 ほら、痛み、少しずつだけど消えて、熱もどんどん逃げていって、――氷のなかに放り込まれたような冷たさが、染み渡ってきてるから。

 あー。だけど煩い。

 泣いてる。
 叫んでる。

 ね。
 これが聞こえるってことはさ。
 まだあたし、この声に何かを出来るってことじゃないかな。
 だって、出来もしないことは目の前に来たり、しないしね。

 ……ね。

 とくん

 ……うん。

 とくん、とくん

 ……あー……あったかい。

 とく、とく、とく、とく、とく、とく、――――

 そのぬくもりは、どこからともなくやってきて、傷を、痛みを、包みとって癒していく。
 黄泉路の際まで追い込まれた身体を、再び、生ある場へと引き戻す。

 それは、あたたかな。
 護りの、ちから。

 ずっとずっと、この身体を包んでいてくれた、遠い明日の友達の力。

「……ッ」

 ぎしり。
 完全には修復されきってない肉体が、まだ早いと悲鳴をあげる。
 だけど、そんなの無視。かまってられない、そんなこと。

 頭上には、慟哭と咆哮が響き渡る。

 誰もが紅と碧に意識をとられているさなか、そうして身を起こした刹那。

「あ……!」

 大地を切り裂いて生まれた亀裂に、淡い髪の女性が飲み込まれようとしているのが見えた。


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