「ツェリーヌ様、お下がりください」
敬称と丁寧な云いまわしには、僅かだけれども、明らかな嘲笑が込められている。
それに、名を呼ばれた彼女は反発しようとしたけれど。声の主の傍らで、己の伴侶がかすかに首を上下させたのを見てとり、口惜しそうに身を翻した。
剣を突きつけていたレックスは、その後を追う素振りも見せずに、自分もまた腕をおろす。そのころには、アティや子供たち、キュウマ、ミスミ――陣営に逃げ込むビジュを呆れ顔で解放したヤッファが、彼のもとに走り寄ってきていた。
退路というか、合流路を得たカイル一家もまた、そちらへ向けて足を動かそうとしている。
によって剣を弾かれたヘイゼル、そしてとうのも、互いをちらちらと見ながら、急に割り込んできた声の主を振り返っていた。
痛み分けというにはいささか中途半端な感をもたらし、訪れた静寂のなか。退いたツェリーヌを一瞥し、声の主がすれ違うようにして前に出る。
そこに、オルドレイクが声をかけた。
「できるのか?」
「おそらくは」
声の主、こと、イスラは、なにやら自信に溢れた笑みを見せてそれに頷きを返す。
とどのつまりは新手投入か、と、レックスたちは、抜けかけていた気を再度取り直し、未だ無傷のまま、イスラに率いられて前に出てくる派閥兵たちを睨み据える。
と。
そこに、もうひとつ、別の人間も加わった。
「……何か?」
横に並ぶその人物を不審げに見上げ、イスラが問う。
対してその相手はというと、隻眼を軽く閉じ、
「保険だ」
とつぶやいた。
僅かな沈黙の後、「ご自由に」と応じるイスラ。
それに被せて、
「……げろ」
と唸ったのは、ヘイゼルと睨みあっていただった。
が、彼女たちの開いていた戦端は、戦場の中心からかなり離れていた。そのため、のつぶやきを聞いたのは、間近にいたヘイゼルだけ。
名も知らぬ、名を知っている、赤い髪の少女。その声に含まれた実に微妙な響きを、ヘイゼルの耳は敏感に感じ取った。僅かに眉宇を寄せる。
戦いたくないなあ、と、少女は言外に告げていた。
それも、厄介な敵を目の前にした、という意味ではなく(それも少しは混じっていたけど)、嫌な場所で知人と逢った、と、そんな戸惑いが色濃く、そこにはにじみ出ていたのだ。
だが、その詳細を察する前に、彼女の雇い主が命を下した。
「手負いは退け」
短く、だが逆らうことなど許されぬ力強さ。まだ動ける兵士たち、暗殺者たちが、それで動き出す。
ヘイゼルは、自身の状態を鑑みる――戦えないと云われるとしたら、それは実に不名誉ではあった。が、今の声は彼女も対象にしていたこともまた明らかであったため、数秒ばかりの間を置いて、ヘイゼルもまた身を起こす。
そうして、追撃に注意しながら後退しようとするヘイゼルを、ふと、少女が目だけで振り返った。
……澄んだ翠。そこにたゆたう感情は、敵意でも殺意でもない。
細められた双眸。そこにあるのは、少し惑いの混じった親愛だ。
追撃をかけるでもなく、退く彼女を罵るでもなく、少女は――僅かな戸惑いとともに、微笑みを、ヘイゼルへと向けていた。
「ッ」
それを、勝者故の優位がもたらす笑みなのだと自身へ云い聞かせ。覚えた困惑は苛立ちへとすりかえて、ヘイゼルは身を翻す。
もう振り返りもしないその背中を、少女は、少しの間見送っていた。
――そうして視線を戻す。
先ほどの戦闘で消耗したこちらに比べ、あちら様は温存されてた分の戦力。元気ぴんしゃん、腹立たしい。
だけども、黙ってやられるほど素直なひとも、諦めの早いひとも、生憎ここにはいないのだ。それは、とて同じこと。
アズリアさん、まだ本調子じゃなくてよかった。などと思いながら、剣の握りを確かめる。
実の姉弟でああいうのは、うん、見てて楽しいもんじゃない。
もう少し、別の形での決着を期待してみたって、いいじゃないか。
だが。
今この場では、もう、ことばも要るまい。
あと数秒もすれば、再び戦端が開かれるだろう。その前に、一度だけ目を閉じた。
一度生じた静寂でたわんでた神経を、張り詰める。
途切れた緊張を再び手繰り寄せるのはちょっと難しかったが、幸い、のいる場所はレックスたちより離れている。よもや弓兵が矢を打ち込むにしたって、無謀な距離とも云えるはず。
「――」
呼吸を整え目をあけたときには、斧を構えて飛び込んできた派閥兵を、レックスの振るう剣が弾き飛ばしていた――!