何故抜剣しないのです。
嘲るように告げられるそれは、ただの声のはずなのに、何故か神経を切り刻む。まるで、声そのものに、毒が宿っているかのように。
「――く……!」
自身にたかろうとする黒い影、そのことごとくをどうにか斬り伏せながら、先に見える白い修道服の女性を睨みつけた。
だが、レックスの視線など、彼女にとってはそよぐ風以下。
サプレスより喚びだしたる黒い下僕をこちらへ向かわせ、ツェリーヌは泰然と笑んでいる。その周囲には、彼女を守る無色の派閥兵。こちらから接近しない限りは手を控えるようにでも云われているのか、ときたま牽制するように飛んでくる矢以外、積極的な攻撃はない。
とはいえ、ツェリーヌの向かわせてくる召喚獣だけで、ふたりはすでに手一杯だった。
……あの赤い日。帝国兵たちを喰らい尽くした影、それに一度でも喰らいつかれれば、自分たちもまた同じ運命を辿るだろう。
「――――、汝と結びし誓約において」
背中側にいる姉の詠唱、その声からも少しずつ力がなくなっている。
「いでよ……!」
アティの喚びだした召喚獣が、影の大半を叩き飛ばした。が、それを見計らっていたツェリーヌが重ねてつぶやく。
「刻まれし苦痛、解き得ぬ嘆き、忌むならば、汝、なすべき誓約を果たすがいい」
そしてまた、黒い影が飛び出してくる。
「……くそっ!」
思わず悪態がこぼれるのも、
「彼女の魔力……底なしなの……!?」
悲鳴のような姉の声も、仕方のないことかもしれなかった。
「レックス、アティ! もう少し粘れ!!」
横手から、励ますように投げかけられるヤッファのことば。だが、ビジュを抑えた彼らは、暗殺者どもを相手どるはめになっていた子供たちの援護に手をとられ、こちらまで辿り着くのはまだ先だろう。よしんば倒したとしても、ツェリーヌの傍にはまだ、無傷の兵士たちがいる。
カイルたちは――どうしているのか。銃声がまだ、断続的に響いているということは、ソノラかヴァルゼルドが応戦中ということで……やはり、あちらもまだ余裕など得られまい。
そうしては、きっと、もっと無理だ。
最後に確認したのは、ヘイゼルと呼ばれた女性と一騎打ちにもつれこんだところまで。声もしないことを考えるに、他に気を向けたりは出来ていないはず。倒されたということはないだろうけど――自分たちよりは、まだ戦場を見渡すこと出来ているはずの、キュウマたちも何も云わないし。
誰かが倒されてるようなことはない。うん、それは、励みになる。
だけど、それだけでツェリーヌを無力化できるだけの何かが得られるかというと……そこにはやはり、埋められぬものもあるわけで。
そんな焦りが表情に出たか。
つとレックスに視線を合わせ、ツェリーヌが口の端を持ち上げる。
「それでは、私には勝てませんよ」
言外に。
剣を抜けと。
その裡に眠る碧の賢帝を抜き放てと。
紡がれし狂気を、
――受け継ぐのだ
と。
「そんなことは……しない……!!」
叫んで、レックスは剣を振るう。
魔剣ではない。メイメイの店で揃えた、業物だけれど、ただそれだけの剣。
抜剣はしない。
できるわけがない。
ハイネルのことばがある。次が最後だと。
その“次”を、先日、通過した。ならば、その向こうにあるものは何だ。
問うまでもない、答えはすでに得ている。
ハイネルは云った。消えてしまうと。答えはそれだ。
裡からの声。受け継げと。
意志を、力を、呪縛を。――狂気を。
きっと次には、それを受け取る。受け取ってしまう。力とともに流れ込む、意志と呪縛と狂気は、“次”できっとレックスを喰らい尽くす。
「レックス……っ」
アティはそれを知らない。
ハイネルとの会話は、レックスひとりの胸に秘めたまま、話す機会をなくして今にいたる。
だって、アティにはもう関係ない。彼女は、魔剣の継承者から外されたはずだ。だからこんなこと話して、余計な心配かけたくなかった。
「抜剣は、しない!」
強く叫んで、剣を振るう。
魔力はすでに枯渇してしまったのだろう、アティもまた、長剣を抜いて黒い影と対峙する。
周囲の皆の決着がつくまで、持久戦にもつれこむか。
姉弟のみならず、おそらくツェリーヌもそう予想したろう――けれど。
予想を覆す闖入者は、そのとき、姿を現した。
「優しき御手を彼らに与えよ、聖母プラーマ!」
喚ぶ声、そして応えるもの。
誰もが目を向けていなかった方向から響いた声、間を置かずほとばしる光。そして、顕現する召喚獣。
――聖母プラーマ。
深き慈愛をたたえる女性の姿をとったそれは、やわらかな光をレックスとアティへ降り注ぐ。
大小なりと負っていたふたりの傷は、それで見る間に回復した。
そしてさらに、飛び込んできた大剣が、大振りに振るわれて影を数体一気に屠る。
「ファルゼン!」
「フレイズさん……!」
姉弟の声に、狭間の領域からおそらく全力疾走してきたんだろうふたりは、ちらりとこちらを見て――笑った。ファルゼンの鎧に表情があるわけないんだけど、銀の髪の少女が、そんなふうに笑んだ気がした。
「遅くなりました、申し訳ありません」
魔の存在に容赦などする気は皆無らしい、フレイズが剣を振るうたび、影は次々と霧散する。
「すばるハ……らとりくすニ、向カッタ」
もう聞き慣れた、たどたどしい声でそう云って、ファルゼンが、ふたりを庇うように前に出た。
けど、それを黙って見てられるわけない。
援軍の追加と、消え去った傷の痛みと、それらに後押しされるように、レックスとアティはファルゼンの隣に並ぶ。
「――く」
そうして初めて、ツェリーヌが眉宇を寄せた。
周囲にはべらせていた兵士たちに、そこで号をひとつ。
「行きなさい!」
『――』
真っ直ぐに持ち上げられた腕は、勿論レックスたちを示していた。応えて地を蹴る、幾つもの足音。
そしてツェリーヌ自身は、再びサプレスへの門を開こうと軽く目を閉じ、
「ッ!?」
横手から繰り出された刀の気配に、衣装の与える印象を裏切った素早さで身を翻す。
忌々しげに睨みつける相手は、音もなく接近したシノビ。それが誰かなど、云うまでもない。
ヤッファによって地面に押さえつけられているビジュを、キッ、と一瞥し、ツェリーヌは大きく後退した。
「時間稼ぎの役にも立たないのですか……!」
不甲斐ないとばかりに零したそれは、果たしてビジュに届いたろうか。
確実にそれを耳にしたはずのキュウマは、だが、僅かに眉を持ち上げただけ。それから、不意に腕を一閃。
「ぐッ」
素手で殴りかかろうとした派閥の剣士を顔面を手甲で殴打、鼻血を撒き散らして再び地に伏す相手には目もくれず、キュウマはツェリーヌとの距離を埋めよう――とはしない。
そのままくるりと踵を返し、入れ替わる。
誰と。これもまた、云うまでもない。
ツェリーヌがキュウマに気をとられている間に、影どもをおおよそ片付けたレックスとアティが、再び地を蹴っていた。
「――刻まれし」、
早口に、ツェリーヌは呪を紡ぐ。この距離ならば、ぎりぎりではあるが下僕を喚び出すことができる。そう踏んでのことだ。
が、
「させるか――っ!!」
「なっ!?」
暗殺者との乱戦をほぼ終結させ、そこの誰よりも先んじて走ってきたナップが、大剣をかざしてツェリーヌに迫る。
前と横。
どちらに対すべきか、いや、それ以前に中断してしまった呪が、どちらかの接近に間に合うか。
考える、までもなく。
「く……」
動揺が足にまで響いたか。
鮮やかに生える雑草に足を絡ませ、たたらを踏んだツェリーヌが正面を見据えたとき、そこには白刃が突きつけられていた。
……よかった
ああ、本当によかった。
響く安堵をそのままに、レックスは、ほう、と息をつく。
気は抜かない。
剣を突きつけてはいても、ツェリーヌがいつ反撃に転じるか判らないから。
だけど――
……よかった
うん、よかった。
抜剣せずにすんで――本当に、よかった。
どくどくと騒ぐ裡をどうにか押し込めながら、レックスは、再び、息をつく。
そんな安堵が、アティに、そして駆け寄ってくるみんなに伝わろうとした矢先――
「 」
その、声は。発された。