――――は!?
場に流れる空気がもう少しやわらかければ。
ヤードの声に宿る怒りが、もう少し少なければ。
そんなふうに、たちは、大合唱したことだろう。
けれど、上に述べたような理由のため、ことばを発することは憚られた。結果として、息を丸呑みする奇妙な音が、数回響いたのみ。
そういった背後の事情など、ヤード以上に知るわけがないオルドレイクは、鷹揚に口の端を持ち上げていた。
「ヤード・グレナーゼ……」
名をつぶやき、そしてその直後。彼の表情に、険が宿る。
「あれだけ目をかけてやっていたというのに、何故派閥を裏切った?」
「……あ」
ぽつり、誰かが――おそらくはカイルかソノラ、レックスかアティ。もしくはその全員がつぶやいた。
ヤードは云っていた。
彼の師にあたる人物が、派閥の禁を解いて封印されていた魔剣を再び世に出したのだと。その研究を、彼はしていたんだと。
そうだ。
オルドレイクがこの島にやってきたのは、剣と門を手に入れるため。
だとしたら、符丁はきれいに合うじゃないか。――そう、ヤードのことばどおり。
「知ったからですよ」
怒りをちらとも減じさせることのないまま、ヤードは、抜剣したレックスたちでさえ怖れたオルドレイクに、淡々と告げる。
いや、それどころか、怒気はむしろ。
「貴方の命で派閥の文献を調査していたとき……私は、その記録を目にした」
ことばを紡ぐたびに、強く。
「かつて無色の派閥の実験により、ひとつの村が犠牲となった、その記録を!」
強く。膨れ上がる理由は、ひとつしかないのだろう。
「ヤードさん……それは――」
「ええ」
かすかに震える声で問いかけたレックスのことば。それで初めて、ヤードはこちらの声にいらえを返した。
「その村は、私の故郷でした」
過去形で語られるその事実が、ひどく哀しい。
そうして、続くことばは、少しだけ皮肉げ。
「それを知ったからこそ――私は、無色の派閥に背を向けた」
胸元に手を当てて告げるヤードのそれを、オルドレイクは、けれど一笑に伏す。
「些細なことだ。何をそう拘る? だからこそ、おまえは派閥に栄誉を持って迎え入れられたというのに」
挑発しているというわけでは――ないのだろう。
オルドレイク以下、無色の派閥の者にとっては、派閥こそがすべて。それ以外など、ことばのとおり塵芥。
聞き分けのない子供を宥めるようなことばは、きっとそのせいだろう。もっとも、宥められて膝を折ったとしても、一度叛旗を翻した人間を再び組み入れるほど、無色の派閥は甘い場所ではなかろうが。
「おまえにとっては些細でも!」
ヤードは叫ぶ。
胸に添えた手は、固く――固く握りしめられていた。
「あの村は、私たちの世界すべてだったんだ!!」
“でした”と告げたそのとおり、きっと、今はもう存在しない村。
そこに暮らしていた小さな子供にとって、その村は、己を包んでくれる優しい世界だった。
それが失われた瞬間は、ずっと胸に燻りつづける。
黒い、遠い、背中。
赤く、翻る、背中。
海に、沈む、記憶。
迸る、紫の、閃光。 ――――!?
「ヤードさ……!」
身を引き裂かれるような叫びに、一瞬傾いだ意識。その空隙を縫うようにして、サプレスへの開門が行なわれる。
術者はヤード。
召喚対象は――
「疾く駆けよ! 星を率いて我が元に来たれ!」
「――ほう?」
オルドレイクが、僅かに片眉を持ち上げた。だが、反応としてはそれだけ。悠然と佇んだまま、オルドレイクは、空を割くようにして出現したツヴァイレライの流星を身に受ける――!
「……ッ!!」
キュドドドドドドドドドドッ!
響く音。いつかの赤い光景と同じに、豪雨のように降り注ぐ光。
「なんて無茶しやがる……!」
「あれ、やばいんじゃないのっ!?」
ねえ!? とソノラに振り返られて、は、とっさに大きく頷いた。それから、
「もう片方よりかは、マシだと思うけど……!」
と、付け加える。
純粋に実力で云えば、今ヤードの喚んだツヴァイレライより、ガルマザリアのほうが上だ。ただ、どちらも結局は易々と召喚に応えるような性格でないことを考えると、ヤードに現在及んでいるだろう負荷、推して知るべしというもの……!
もうもうとけぶる砂煙の向こう、長身の黒ずくめが、ふらりと大きく傾いだ。
「ヤード!」
「――――ッ」
彼を支えるべく走り出そうとした何人かの足は、だが、真っ直ぐ横に伸ばされたヤード自身の腕によって止められる。
何故かと。理由は、問うまでもない。
「ふむ……離反してからも、腕は磨いていたようだな?」
伸ばされた腕のさらに向こう、徐々に晴れてきた煙の先では、オルドレイクが何事もなかったかのように佇んで、薄い嘲笑を浮かべていた。
「……」
ヤードは何も答えない。いや、応える気力さえ、今の一撃で吸い取られてしまったのかもしれない。
己の身を抱くように腕をまわし、それでも、彼は半歩たりとて退こうとしていなかった。普段は優しく細められている双眸は、今きっと、鷹のそれめいて鋭利になっているんだろう――たちから、それが見えるわけではないけれど。
だが、オルドレイクは、ヤードのそんな視線に、毛ほどの痛痒も感じていないようだった。
夫に向けて攻撃を仕掛けた不遜な元弟子へ、怒りも露に踏み出そうとするツェリーヌを、ことさらゆっくりとした仕草でまず押しとどめ。それから、己が一歩、前に出る。
ヤードと同じように、手のひらを懐に押し当てて。
「だが所詮――弟子が師を越えられるはずなどあるまい!」
そして迸る、紫の光――!
「!!」
ヤードが身を硬くする。
「だめっ!」
「ヤードさん!!」
距離を鑑みれば間に合うはずがない、それでも、全員が走り出そうとした。
それらすべてを、裂帛の気合いが遮った。
「シイイィィィッ!!」
黒い影。
オルドレイクの周囲に控えていた、紅き手袋。
「……え!?」
――ではない。
誰もが予想だにしなかった方向から、必殺の一撃を繰り出すために出現したのは、
「スカーレルッ!?」
叫ぶ、カイルのことばどおりの人物だった。
「ぬ――ッ!?」
オルドレイクが、そこで初めて動揺を見せた。召喚術のために集中しようとしていた意識、それをそうあっさり切り替えられるわけもない。反対側の手に握る杖で初撃を防ごうと試みても、腕を動かす前に、スカーレルの刃が喉を貫くだろう。
それを、おそらく、スカーレルも確信した。
「もらった……!?」
だからこそ、勝利の喜悦をにじませて、そうつぶやき――けれどすぐさま、それは驚愕に彩られる。
真っ直ぐにオルドレイクの喉笛を狙っていた腕、それを、彼は大きく横に振り抜いた。
それが腕の付け根を基点にして描く弧の、頂点ともいうべき位置に達した瞬間、響く。耳障りな金属音。
「くッ……!」
横手からちょっかいを出してきた相手の姿を確認する間も惜しく、スカーレルは大きな舌打ちを零してその場から離脱する。ヤードの傍らで足を止め、邪魔をした者の姿を見て顔をしかめた。
「――アンタ……気づいてたの?」
「うまく隠れていたようだがな」、
装飾も何もない、ただ無骨に研ぎ澄まされた、ひとを斬るためだけの刃。鈍い鉄色に輝くそれを軽く振り、彼はさしたる感慨もないような声で、スカーレルの詰問に応じる。
「あれだけの殺気を振り撒いていれば、気づくなというほうが難しい」
「……チッ」
解を聞き、スカーレルは、再度舌を打った。
オルドレイクにだけ集中していた自分たちの甘さを呪っているのか、ウィゼルと自分たちの歴然たる近接戦の技量差を嘆いているのか。
誰か、それを問おうとしたのだろうか。ふと漂う疑問符は、それとも別のものだったのだろうか。
ほんの僅かに生まれた静寂を切り裂いたのは、にとって、この場では初めて耳にする声だった。
「――珊瑚の毒蛇……!」
深く巻いたマフラーに遮られて、くぐもった声。障害物がなければ、きっと耳に優しく届いたろう、そんな声。
だけど今、何よりも敵意と激昂を強く抱いたその声は、まだ名も知らない、紅き手袋を率いるというマフラーを巻いた女性のものだった。
視線に意志が乗り、そのとおりの働きをするなら、きっとただではすまないだろう――そんな彼女の眼差しを、向けられたスカーレルは平然と受け止めた。受け止めて、「あら」と、肩をすくめる。
攻撃を阻まれたことへの無念はどこへやら、飄々とした仕草と声音で、彼はマフラーの女性に呼びかけた。
「こっちも久しぶりね、茨の君――いえ、ヘイゼル?」
「その名を……ッ!」
呼ぶな、と、云おうとしたのか。だとしたら、それは、どちらのことなのか。
茨の君。
ヘイゼル。
普通に考えるならば、通り名と本名……なのだろうけど。
……どうしてだろう。
あの女の人には、もっと、しっくりくる名前があるような気がする。そう、は思う。
その気持ちがどこから来るのか、それは判らないけれど――
「あなた」
つい、とツェリーヌが進み出た。
「ここは私が」
「うむ」
阿吽の呼吸めいたやりとりのあと、オルドレイクが数歩下がる。代わって前に出てきたのは妻であるツェリーヌと、追従するように出てきたビジュ、それから、ヘイゼルと呼ばれた女性。
「ヒヒヒッ、相変わらず正義の味方か」
揶揄の色濃いビジュの嗤いに、は、べっ、と舌を出す。それから、不機嫌を隠そうともせずに云いきった。
「結局あんたも変わらずじまいじゃない。もう、約束守ってやんないからね」
「……約束?」
それに反応して、怪訝な表情をつくったのはイスラだった。だが当のビジュはというと、例によって「イヒヒッ」と嫌ったらしい笑みを浮かべて嘲りを濃くしただけ。
「もういいんだよ、そんなもんは。――なにしろ」、
自慢たらたら、語りだそうとした彼を、
「無駄口を叩く暇があるのなら、速やかに行動なさい」
と、ツェリーヌが止める。
特に怒りも苛立ちも大きくはないそれに、ビジュはびくりと身を竦ませた。
「は、はい」
引きつった笑みを浮かべ、腰の剣を抜きながら前に出る。
ぴりぴりと高まっていく戦いの気配。
踏み出そうとした足を、だが、は半ばで止めて舌を打った。
それに被せて、アティが叫ぶ。
「スカーレルさん、ヤードさん! 戻ってください!!」
そう。
さきほどオルドレイクに奇襲をかけたふたりが、未だ、突出した位置に留まったままだったのだ。
「無茶云わないで」
首だけひねってこちらを振り返り、スカーレルが苦笑した。
奇襲が失敗に終わったと同時、すでに無色の派閥兵が数人、彼らふたりを取り囲むように布陣していたのだ。会話の合間にふたりが戻ってこなかったのは、下手に動けば攻撃されると判っていたから。
見てとれる限り、ふたりを即座攻撃できる位置にいるのは、剣士が2〜3、召喚師が2。こちらに合流しようと向かうなら、それに弓兵が1と剣士が2ほど追加される。
……いくらなんでも、これをふたりだけで抜けてこいっていうのは、無理だろう。
「オレたちが行く」
「カイルさん?」
が方向転換しようとするより先に、カイルが進み出た。
「そだね。スカーレルたちは、あたしらに任せてよ」
努めて気楽に銃を回転させ、ソノラが兄の隣に並んだ。
「ソノラ……」
ふたりだけでだいじょうぶか、と、誰か問いかけようとしたろうか。
だが、何にも先んじてカイルが怒鳴る。
「スカーレル! ヤード! 全力で走れ!!」
未だこちらを振り返ったままだった、スカーレルとヤード。彼らは、カイルの指示に一瞬目を丸くして。
そうして、大きく頷き地を蹴った。
――それが、戦いのはじまりを告げる、合図。