スバルが報せとともに駆け込んできたとき、は、朝食で残ってしまった塩茹でポテトを口に放り込んだところだった。
喉につかえなかったのは奇跡的といってもいいが、ほぼ丸呑みしたも同然のため、味などほとんど判らなかったのが現実だ。
「おのれ無色の派閥ッ! あたしの塩茹でポテトっ!!」
「ぷー!」
最後の一個という甘美な響きを打ち砕かれた怒りとともに、は風雷の郷目指して走る。相棒の怒りに触発されたプニムも走る。
「……」
「……」
そんなひとりと一匹の背中をどこか遠いものを見る目で眺めながら、その他全員も走る。
やっぱ、ってだよなあ、と、うちの何人かは思っていた。
どんなに緊張感溢れてても、ヤバい奴が相手でも、なんというかマイペースを貫いてるもんなあ、と、さらに何人かは思っていた。
それをどう云えばいいのか判らないが、には、レックスたちに感じるものとは別の頼もしさを覚えてしまう。
……だから、そんな瞬間が来るなんて、誰も、想像さえしない。
「……」
ふと視線を動かして、ヤードとスカーレルは、周囲の誰に判らぬ程度の小さな頷きを、一度だけ交わした。
林を駆け抜け、森を突っ切り、ひた走ることしばらく。
唐突に開けた視界の向こうには、すでに見慣れた風雷の郷。そしてその手前、郷の入口付近に広がる平原に、そいつらはいた。
「無色の派閥――!」
後ろにいるうちの、誰かが云う。
その姿を認めたと同時に加速したのか、一歩ほど後方にいたレックスとアティが、の隣に並んだ。
そうこうしてる間にも、彼我の距離はせばまる。
だんだんと鮮明になっていく光景は、キュウマとミスミのふたりだけで、無色の派閥の前進――それはつまり、風雷の郷への進攻――を止めようとしているというもの、
――ではない。
「……好き勝手しやがって!」
忌々しげなカイルの台詞どおりだ。
あの配置はどう見ても、引き上げようとしている無色の派閥を、キュウマたちが阻んでいるようにしか見えない。
目を凝らせば、名も知れぬ黒ずくめに捕獲された、鬼妖界の住人らしき姿がいくつかあった。
「げっ」
そして、それらが見てとおせるころには、相手方の構成もはっきりする。
ソノラの呻き声は、おそらくそのせいだろう。
何しろ、御大であるオルドレイクに始まって、ツェリーヌ、ウィゼル、マフラーの女性、イスラ、おまけにビジュ、と、勢揃いでちょっかい出しにきてやがりあそばしたのだから。
「スバルくんに連絡を頼んで、正解、でしたね……!」
荒い息の下、アティが云った。
風雷の郷目掛けて走り出した一行についてこようとしたスバルを、他みっつの集落へ助っ人の要請のため、もう一走りお願いしたことを云っているのだ。
だからは、うん、とひとつ頷いた。
ばらばらに出てきてるならともかく、戦力勢揃いでやってこられるとなれば、こちらだって数が多くて悪いということはない。むしろ、オルドレイクを相手取るのならばこれでも少ないくらいだ。
何しろ、魔剣は頼れない。
先日が出した切り札も、もう白紙。
手持ちの札に一発逆転を匂わせるようなものは、もはやない。
そんなことは重々承知、そのうえでは、レックスたちはここまで走ってきたのだ。
そして、レックスが大きく息を吸い込んだ。
「やめろ――――――――――!!!」
草原に、蒼穹に。
響き渡ったその声に、耳に入り始めた戦いの音が、ひたりと停止した。
ほう、という表情で振り返ったオルドレイクの表情は、相変わらず、いやになるくらい泰然としている。
無色の派閥とキュウマたちの間に割り入ろうとするこちらを特に阻もうともせず――それどころか、気色ばむ配下たちを軽く手を振るだけで下がらせると、配置がひとところに落ち着くまでお待ちになってさえくれるという念の入れようだ。
ああもう、ほんとうに念の入った――皮肉だか嫌味だか、ですこと。
「やあ。久しぶり。君たちなら、来ると思ったよ」
にっこり笑って片手を上げるイスラを、はきれいにシカト。これくらい、やったっていいと思う。
どうも今の台詞に感じた含みからすると、こっちが出てくることを予想して、この大立ち回りを持ってきた節があるし。
あらら、と、(表面上)残念そうにつぶやくイスラを一瞥して、足を進める。
「皆さん……」
すでに傷を負っていたキュウマが、安堵のような口惜しさのような、そんな感情を浮かべた声でつぶやいた。
護人として、郷の民を守りぬけなかった、その悔いだろうか。
果たしてもう片方、ミスミはというと、ほう、と肩で大きく息をつく。
「助かった。スバルは間に合うたのじゃな?」
「ええ。他の皆さんに、連絡をお願いしてます」
アティのことばに、そうか、とどこか複雑な表情で頷き、ミスミは手にしていた扇を軽く翻す。
疲労の度合いは大きいが――無色の派閥相手に、よく疲労だけで済んだものだとも思えるが――、彼女から戦意は消えていない。それは、キュウマも同じだ。
だが、そのことばで喜色を露にしたのは、ミスミたちだけではなかった。
「ほう、同類がわざわざ自分たちから来るか」
手間が省けるな。
「……なんだと!?」
敵意満載の怒鳴り声で、カイルがオルドレイクを振り返った。
だが、それに応えたのはキュウマ。
「奴らは、実験成果の採取と称して、皆を攫おうとしているのです」
そして補足したのは――オルドレイク当人だった。
「島のはじまりを知るはぐれどもならば、それ以上の価値もあるのだ。光栄に思うがいい」
「思えるわけないでしょッ!!」
ホルスターから抜いた銃を、くるっと一回転。させて、ソノラが叫んだ。
「みんなを攫ってどうするつもりなんだ!」
「知れたことよ。この島の特殊な環境が、はぐれどもにいかなる影響を与えたか……ふふふ、久々に探究心が疼くわ」
「疼かなくていい、そんなもん!」
ウィルの問いに対するオルドレイクの返答と表情は、なんとも背筋が寒くなるものだった。
それを吹き飛ばすように叫んだのことばに、む、とオルドレイクが眉根を寄せる。
「……貴様は、あの日の蝿か。吠えるな、実験の価値もない屑が」
蝿から屑に格下げかい、こんにゃろう。
さらに怒鳴りつけようとしたの前に、ずい、とレックスが影をつくった。
「いい加減にしろ! 早く、捕まえた人たちを解放するんだ!」
「たとえ魔剣を継ぐ者だとしても、おまえなどに命令される筋合いはありません」
強い断定口調が気に入らなかったか、ツェリーヌが、苛立ちをまぶして応じる。
ひょこりと顔を覗かせれば、彼女の整った眉はきつくしかめられていた。
それでも清楚な雰囲気はそのままなのだから、彼女も彼女である意味やはり、魔性というかなんというか……あの旦那にしてこの妻ありというか。
妙なところで感心してしまったの心持ちなど知らぬげに、ツェリーヌはなおことばを重ねる。
「そもそも、この島は偉大なる先師のおつくりになった実験場。島のはぐれは、いわば派閥の所有物、道具」
朗々と告げる彼女の……少し後方。マフラーの女性と、ウィゼルが、何かことばを交わしている。僅か挑発めいたふうにウィゼルが肩を揺らし、続いて、女性が表情を険しくした。
が、背後でのそれに、ツェリーヌは気づかない。よしんば気づいていたとしても、諌める労力を彼らに割いたかどうか。
「――それをどう扱おうが、私たちの自由というものです」
「ふざけんな」
どこか歪みを抱えた矜持のもとに云いきったツェリーヌ。その語尾に被せて、強い否定が横から届いた。
「ヤッファさん! マルルゥ!」
「よう。遅くなっちまって悪かったな」
「でも、シマシマさん珍しく、飛び起きて全力疾走したですよ!」
おまえは黙ってろ、と、胸を張るマルルゥの頭を軽くこづいて、ヤッファはツェリーヌを睨みつけた。
「あんたらの自己中心ぶりには、いい加減反吐が出るぜ。その道具をうまく使えもせずに、尻尾巻いて撤退したのは誰だ? その偉大なる先師様たちだろうが」
「――」
セルボルト家の直系だろうと思われるツェリーヌの逆鱗をつつくに、この場でこれ以上有効な発言はなかったろう。
ざわ、と、周囲に漂う魔力を揺らし、彼女の手が懐に伸びる。
いつか展開されたあの術が、戦いの狼煙になるか。呼応するように、そこかしこから武器を抜き放つ音。足が地を擦る音。
それは、たちも同様だ。
ほぼ最先端に位置する形になっているレックスとアティも、少しのためらいを見せた後、己の剣に手をかけ――
「……え?」
ようと、したとき。
普段はけして、こんな前線にまで出てこないひとが、その横を通り過ぎて前に立った。
「ヤードさん、ちょっと、危な……」
きょとんとしたのは、数秒もない。
真っ先に我に返ったは、あわてて、前に出たひと――ヤードを引きとめようと腕を伸ばした。
が、それは空しく宙をかく。
呼びかけが聞こえていないわけはないだろうに、それをきれいさっぱり無視し、ヤードの足は止まらない。
距離にして数十歩ほどをレックスたちとの間に置き、位置としては彼我のほぼ中央に立ち、彼は、そこでようやく歩みを止めた。
「……む?」
あわや集中砲火かと、そんな嫌な予想は、だが外れた。
ヤードの姿を目にしたオルドレイクが、いぶかしげに眉をひそめたのだ。
御大将による命令が出ないせいか、ツェリーヌも、マフラーの女性も、ウィゼルも動かない。先ほどから黙って成り行きを見守っている、イスラとビジュも同様だ。
そうして、ヤードがおもむろに口を開いた。
「……お久しぶりです、師よ」