騒ぎが起きる予感を胸に抱えて眠りに就く。
何も起きなかったことに安堵して朝を迎える。
そんな日が、もう何日ほど過ぎただろうか。無色の派閥が島に到着してから、もう一年ほど経ったような――そんなありえない錯覚を、果たして何人が覚えているのだろう。
島に漂う緊張感は、徐々に硬質になりこそすれ、ほぐれたり薄れたりすることはない。
それでも、まだ、何もない。
それでも、もう、何もない――ならばいい。
ありえないと判っていても、そんなささやかな願いを抱いて、彼らは、その日も安堵と共に朝を迎えた。
そういえば、と。ふとベルフラウは、それを思い出した。
昼食後、アティが彼女とアリーゼを伴なって、船の台所に食器をしまいに来たときだ。
以前と似通ったシチュエーションが記憶を触発したのか、それとも、日々の緊張がたたり、深い部分のそれまで刺激して引っ張り出してしまったのか。
どちらにせよ、出てきてしまったものは出てきてしまった。
ここにいたるまで黙々と、特に会話めいたものも交わさなかった分もあってか、ベルフラウはすぐさまそれをことばにした。
「ねえ、アリーゼ。覚えていて?」
「え? なに?」
背伸びして皿をしまっていたアリーゼが、ベルフラウを振り返った。傍らのキユピーも一緒に、首を傾げてる。
鍋を片付けていたアティも、白い帽子を揺らしてこちらを振り返っていた。
「ほら」、アリーゼに話しかけている形ではあるが、声は、アティにも届くはずだ。「結構前ですけど、さんが、私たちに軍人になる理由を訊いたこと」
「……、ああ!」
人見知りで物怖じしがちと判断されやすい妹だけど、けして頭の回転が悪いわけではない。
直感でいえば、兄弟のうちできっと一番鋭いだろうアリーゼは、すぐに、それを思い出したようだった。
手のひらを打って頷くアリーゼに、
「結局、ちゃんとお話していませんでしたわね」
と、続ける。
「あ……そうよね」
「今度、お話しに行きませんこと? ナップもウィルもいっしょに」
きっと反対はしないはずだから――そう云うと、ふわり、アリーゼは笑う。
「うん、そうしましょっ」
「……というと、あれ、ですか?」
黙って姉妹のやりとりを見ていたアティが、そこで初めて口を挟んだ。
なんとも複雑な彼女の表情に、ベルフラウは、くすっと笑う。
「ええ。そうですわ。お父様が、先生たちに助けていただいたときのお話」
「う……うーん。あんまり、楽しい話でもないですよー?」
だからやめませんか?
なんだか、三者面談前の生徒のようなアティのことばに、姉妹は顔を見合わせる。
島に緊張が生まれて、何日目のことだっただろうか。
何かの不意に始まった、先生と生徒の会話。……レックスとアティが、マルティーニ家の家庭教師というツテを得るに至った、おそらくはそもそものきっかけ。
……は覚えているだろうか?
軍人となる理由を問われたベルフラウとアリーゼが、“憧れ”からその道を目指したということを。それは、ウィルもナップも同じだということを。
その軍人こそが、レックスとアティなのだと――それを話そうか、と、ベルフラウは思ったのだ。
もっとも、数日前までならそうは思わなかったかもしれない。だって、子供たちはその話を詳しくは知らなかったのだから。彼らの父が巻き込まれた事件、それが、そのとき渋る先生たちに、自分たちからせがんでしてもらった話の内容。
……かいつまむなら、こういうことだ。
姉妹が、今よりずっと幼かった頃。旧王国のスパイが鉄道を乗っ取って、乗員を人質にとったのだ。そのなかに、彼ら兄弟の父も含まれていた。
そうして、警護にあたっていたのがレックスとアティで……後は云うまでもあるまい。そのふたりによって、人質は犯人らの魔の手から守られたのだ。
けれど、
「どうしてですの?」
ちょっぴり意地悪げな笑みを浮かべて、ベルフラウはアティに問う。
問われたアティは、少し恨みがましげに、自分よりずっと年下の少女を見つめた。
「だって、失敗しちゃったことの話ですし」
「……でも、先生。父は、先生たちのこと、本当の軍人とは彼らだ、って云ってたんですよ?」
それ、あのときも云いましたよね?
む、と軽く視線を強めたアリーゼに、アティは「それは嬉しいんですけど」と、ますます眉を下げる。
そういえば、その鉄道乗っ取りの話をしてるときも、似たような顔をして話をいくらか端折ってたような気がする。
何が彼女たちをしてそう拘らせているのか判らないが、こっちだって、に謎々仕掛けるだけ仕掛けてほったらかしておく、というのは、いささか居心地が悪いのだ。
忘れてたならまだしも、思い出してしまった今となっては。
だから、ベルフラウは「はいはい」と、軽くアティをいなした。
「それじゃ、先生たちが父を助けてくださったこと、これだけお話しますわ。全部じゃないですけど、嘘では絶対にないわけですしね」
「――う……そ、そういうことなら」
でもやっぱり気が進まない、とでかでかと顔に書いて、それでもどうにかアティが頷こうとしたとき。
バタバタバタっ! ――廊下の向こうから、誰かが食堂に向かって駆けてくる足音。それも盛大な。
食堂は、いわば廊下の突き当たり的な場所にある。近づいてくるというのなら、目的地はここか、もしくは反対に突き抜けた先にある船べりのほうか。
予想をめぐらせるより先、開け放たれた入口の向こうに、駆けてくる当人の姿が見えた。
「ナップ!?」
「どうしたの?」
ひどく切羽詰った形相で走ってくる長兄を見て、ベルフラウとアリーゼが目を丸くする。オニビとキユピーまでもが、驚きを身体全体で表していた。
だが、その数十秒後には、全員が驚愕に身を染めることになる。
切らした息を整える間も惜しいとばかりに叫んだナップのことばが、その理由だった。
「無色の派閥が――!」
――風雷の郷に、姿を現したのだと。
聞いたその直後。
報せを持ってきたというスバルがいる、砂浜めがけて疾駆する四人分の足音が、船内に木霊して……消えた。