ぱち、とプニムが目を開いた。
「ぷ!?」
すぐ脇に立つ人影を見上げ、仰天して飛び上がる。そのまま岩を滑り降りると、ときを同じくして立ち上がったとアズリアの足元に駆けてきた。
そのやわらかな身体を抱き上げる余裕もなく、とアズリアは、声を発した相手――イスラを振り返る。
いや、正確にはイスラだけではない。佇む彼の背後には、さらに夜闇に溶けるようにしてふたつの影があった。
「……無色の派閥」
今日見覚えたその姿。属する組織の名をつぶやけば、イスラはあっさり「うん」と頷いた。
「ま、概ねそのとおりかな。僕は呪いの苦しみから逃れるために、こっちについたんだよ」
病気で苦しむ自分に、生きるための力を与えてくれた――イスラは、そうオルドレイクを称して云った。
そうしてそのとおり、今目の前にいるイスラからは、とても彼が病に冒されているとは思えない。健康そのもの――いや、それ以上かもしれなかった。
「たぶん知らないだろうから、にもう少し説明するとね」、
何をも云えずにいるふたりを均等に眺め、イスラが口を開く。
「レヴィノス家に限らず、軍人の家系に生まれる男子は本来、上級軍人となることで家名を盛り立てていくんだ。でも、僕は、それが出来なかった」
「……病魔の呪いで?」
少なくとも、会話の途中で影どもが襲ってくることはあるまい。そう予想したうえでの確認に、返ってきたのは肯定。
「そう。――だから、姉さんが、僕の代わりに上級軍人を目指したのさ」
「…………」
いたたまれない様子で俯くアズリアに、違和感を覚える。
どうして、そんな、あわせる顔もないような仕草をするのか。何を、弟に対して恥じる要素があるというのか。
彼女はただ、家と弟のために頑張ってるだけなんだろうに。
「」
顔に浮かんだ疑問を読んだか。
ひやりとした声で、イスラがに呼びかけた。
「判る? 僕がいなくても姉さんがいる。家名は姉さんが継ぐ。――そうなると、僕はレヴィノス家にとって用のない存在になるんだよね?」
「なんでよ?」
「いや、それより性質が悪いかもね。……ベッドから出れず、延々と誰かの手を煩わせつづけるだけの存在なんて、誰もそのうち気に留めなくなっていったんだからさ」
憮然と返すのことばを流して続ける、イスラ。
「用なし、どころか、存在さえないもののように扱われるんだ。それがどれほどの屈辱か判る?」
ひとりきりの部屋で。
ひとりきりのベッドで。
変わらぬ壁の色を、窓に切り取られた世界を、ただ見つめながら、いつ襲いくるか判らぬ苦しみに耐えて過ごす日々。
「……いつか治る、いつか立てる、いつか歩けると思ってた」
だけどそんな日はこなかった。
当たり前だ――ただの病ならまだしも、彼のそれは、無色の派閥によってもたらされた人為的な呪いなのだから。
「それに加えて、姉さんが功績を立てるたびに、僕の、あの家での居場所はなくなっていって」
「……っ」
「……ま、いいか。恨み言を云っても、今さらだしね」
深く俯くアズリアを一瞥し、イスラは小さく肩をすくめる。
「それに、ちゃんと姉さんは自覚してるし」
云いながら、腰に佩いていた長剣の柄に、手をかけた。
あえかな星の光に剣の刀身が完全に晒されるその前に、は一歩、前に出る。
「ちょっと待て。なんのつもりよ」
語調強くそう問うと、イスラは一瞬目を丸くして――それから、口の端を持ち上げた。
「つけそこなった始末をね、つけにきたのさ」
「始末?」
「そう。そのためにオルドレイク様に無理を云って、出てきたんだ――姉さんを殺してあげるためにね」
「アホかあんたはッ!?」
「――――」
だとしたらなおさら動けない。足を踏ん張って怒声を張り上げるの後ろ、身を震わせるアズリアの気配。
……だから、なんで。
なんで、そんなに、あなたはイスラに負い目を感じてるの。
あんなに凛として兵を率いていた、隊長の姿はそこに見られない。今背中に庇うのは、ただの女性だった。
む。
そこに思いを馳せた時点で、はしばし思考。するまでもなく、回答をはじき出す。
それじゃあれだ、あたしはアズリアさんを守らねば。……元だけど軍人として。
「」
動こうとしないに、苛立った様子でイスラが告げる。
「これは僕と姉さんの問題なんだから、引っ込んでてよ。他人の家庭の事情に口を出すなんて、下世話の極みだよ?」
「下世話結構」
「……っ」、
すっぱり云い切るに、イスラは鼻白んだらしい。僅か息を飲み、
「……だから、君と逢うと調子が狂うんだ」
どこか途方に暮れた表情で、つぶやいた。
それは、に、以前一緒に笑っていた彼を思い起こさせ――故に、は口を開いたのだ。
「だいたい、イスラ。別にアズリアさん、イスラの居場所とろうとか思って軍人やってるわけじゃないと思うんだけど」
単に、家名の件で矢面に立たされる長男の心労と、それでも消すわけにいかない家のため、両方どうにかしようと選んだのが、軍人になるってことだけで。
そう続けようとしたことばは、だが、半ばにして遮られた。
「動機なんてもの! 結果の前になんの意味もあるもんか!」
つい数秒前に見せた表情を消し去り、身を怒りに染め上げて、イスラが語気荒く叫んだからだ。
「君に僕の何が判る? 毎日毎日発作に襲われて、今度こそ死ぬかもしれないって怯えつづけて、満足に眠ることも出来なくて! そんな恐怖を、君は味わったことある!?」
形こそ疑問系だが、イスラはの回答を待っているわけではない。矢継ぎ早に投げつけられることばは、ただ彼の感情のままに溢れ出すばかり。
「手厚く看病してくれていた者たちが、本当は自分の死を願ってやまない――それを知ったときの絶望が、どれほどか判る!?」
頷けるわけがない。事実、はそれを味わったことなんてない。
同時に、それを否定することもまた、イスラを前にしては憚られることだった。
そうして続いたことばに、
「他人なんて信用できない、助けがくるなんて期待しない、人はことばでいくらでも本心を偽れる」
偽りの姿を。責められたような、気がした。
だけど、
「だから僕は僕の決めたことだけしか信じない、結果以外のものに価値があるなんて、絶対に認めない!」
「――イスラ!」
それは違うと。叫びかけたを、イスラは強く睨めつける。
「君は云ったよね、自分は自分だと。なら僕も云わせてもらう。これが僕だ、この僕が僕。僕がここにいる事実は、君にも姉さんにも否定なんてさせない!!」
その叫びと同時、白刃がきらめいた。
「ッ!」
柄にかけていただけだった指に力を込め、は剣を引き抜いた。一切のロスなく姿を現した剣は、横薙ぎに向かってきた凶刃を十字に交差する形で受け止める。
響く金属音。手に伝わる衝撃。
それらの残滓が消え去る前に、次の攻撃が繰り出される。
ひたすらそれを弾きながら、さらに奥に佇む影ふたつにも注意を払ってみるが、そちらは動く気配がない。合図を待っているのか、単に目付けのためにきたのか。
「どうしたのさ、」
嘲りの色濃く、イスラが笑う。
一、二、三。
「あのとき、オルドレイク様に向かっていった勢いはどうしたの?」
四、五、六。
「まさか君まで、戦わないなんて奇麗事、口にしたりしないよね?」
七、八、九、
「――――っ」
「ほら、いい加減にしなよ? じゃないと死ぬよ。君も姉さんも、僕が殺しちゃうよ?」
――十、
「やめてくれ……!!」
最後の刃は、半ばで止まる。の背後から発された声、すなわちアズリアの叫びによって。
「アズリアさん――?」
追撃を警戒しつつ振り返ると、彼女は、力なくかぶりを振っていた。
「いいんだ」
「何を……」
「私は、あの子に殺されたっていいんだ……」
「いやちょっと待て!?」
だからどーしてそう、イスラの云うコト無条件で受け入れようとするかなあんたは!?
動揺しまくるはそっちのけ、ようやく顔をあげたアズリアは、真っ直ぐイスラを見て云った。
「おまえの云うとおりだな」
私は、私の視点だけでおまえを見ていた。
「おまえの気持ちを、知ろうとしなかった……」
イスラは何も云わない。
それは先を促しているものだったのか、アズリアはことばを続けている。
「相手の気持ちを無視して押し付ける優しさなど、独善だ。その結果が、おまえをここまで追い込んでしまったんだな?」
「…………」
これは報いだ。――半ば呼気めいた声で、彼女は云った。
「おまえを傷つけたことに気づきもしなかった、私への報いなんだ」
「…………」
「――覚悟は、出来ている」
「…………」
「……そう、なんだ」
「…………」
「それじゃあ――……お望みどおりに殺してあげ……ッ!?」
剣を振り上げようとしたイスラが、とっさに身をのけぞらせる。
「ぷー!?」
彼めがけて真っ直ぐにカッ飛んできていたプニムは、あわれ、影ふたつの潜む茂みに突っ込んだ。
「げ」
投げたも思わず絶句。
だがやはり、影は動かない。命令があれば石や草でさえ容赦しなかろーに、今はプニムなぞないもののように、ただこちらを伺っているだけ。
……無色の派閥って、ちょっと、やっぱヘンかも。
久々の相棒投擲をかました直後の姿勢のまま、全力疾走で戻ってくるプニムを見つつ、そんなことを思ったさん実年齢と戸籍年齢に誤差あり、在籍時代はマイナスを数える、不審者の襲撃を受けた夜であった。
「あ、あのね、!?」
うろたえるイスラの前では、アズリアが真っ白になってこちらを見ていた。
息合ってんじゃん姉弟。
そうツッコもうかと思っただったが、今回はとりあえず、本来用意していた方のことばを舌に乗せた。
「死なすだの殺されるだの、いい加減にしなさいよ」
「そんなの君に「そっちが関係なくても、あたしが関係あるの!」
イスラの発言を途中で遮り、強く。
勢いよく振り返った先には、呆然としたままのアズリアがいた。
――イオス。
遠い明日、出逢うひと。彼の気持ちが、今は判る。
黒の旅団を失い、茫洋としてたあのひとの背中を見て、彼がどんな気持ちを覚えたか。……今ならきっと、それが判る。
そこに至る経緯は違えど、今のアズリアはまさに、あのときのルヴァイドとそっくりだから。
――そんなふうに。
喪失して。
自失して。
双眸に何も映さぬままで、その命まで散らそうとするなら。
「そんなにしか出来ないなら――さっき泣いたの撤回してください、アズリアさんッ!!」
だから――そう、叫んだ。