強がっているつもりはないのだ。
諦めているわけでもないのだ。
優先順位を入れ替えたとかいうことでも、ないのだ。
……ただ、単に。
それをしてしまったら、きっと、胸を張って養い親と向き合えない。
そんな予感が、したからだ。
したから、だけど――
「……ふ、これでまたゼロから振りなおしだわ」
「何か云った?」
「あ、いえ、何も」
見事喚起の門を破壊し尽くした、その後のことだ。
今までの鬱憤を晴らすかのごとく攻撃しまくった護人たちと別れ、獅子奮迅の活躍っぷりを見せてくれたヴァルゼルドを、中央管理施設から少し歩いた場所に急造されたメンテナンス施設に送り届け、はアルディラと共にリペアセンターにやってきていた。
なんでも、クノンがに見せたいものがあるんだとのことだ。
その話を切り出されたのは、喚起の門から出た後。話の内容をすでに知っているらしいアルディラが、やけに真剣な表情だったのが気になるが、は何も云わず、彼女についてきた。
「様、いらっしゃいませ」
いつもの場所に立っていたクノンが、歩みを進めるふたりを発見し、頭を下げた。
手に、なにやら大きなファイルのようなものを持っている。
「こんにちは、クノン。見せたいものってそれ?」
「はい」
挨拶もそこそこ、さっそく用件を切り出したに嫌な顔ひとつせず、クノンはファイルを手に、自分も前に踏み出した。
結果として、三人は廊下の途中に佇んで向かい合うことになる。
クノンからファイルを手渡されるを、プニムを胸に抱えたアルディラが、なんとも云い難い表情で見守っていた。
「ここの――」、
付箋をつけていたページをめくったクノンの指が、とあるグラフを指さした。
「ラインの動きをご覧下さい」
「……こりゃまた、盛大な谷ですね」
黒に塗りつぶされた領域の中を、黄色い線が盛大な山を描いて推移していた。ところどころはなだらかな丘を形成しているが、時折思い出したように下に振り切って、その直後なだらかな丘に戻り、一定の間を置いてまた急降下から急上昇。そうしてしばらくは、また丘が続く。その繰り返し。
幼稚園児が描くような、すさまじく強調された谷を連想してもらえばいいだろうか。ぎっざぎざのぎっざぎざ。
そうして、の感想を聞いたクノンが小さく頷いた。
「このグラフが何を示しているかは、判りますか?」
淡々とした問いかけに、は首を横に振る。
なにやら極端から極端に突っ走りつつ推移している、というのはわかるが、周囲に書かれた文字なんぞ専門用語が多い上に、ところどころロレイラルの文字と思しき見慣れぬものがあって、とても解読なんぞ出来たものではない。
そもそも、医療技術は畑違いだし。
クノン自身、の返答を予想していたんだろう。もう一度小さく頷くと、指をグラフから離した。
つい、と滑らせた指の先は、そのページの表題と思しき、大きめの文字に移動する。
「これは、あの患者のカルテです」
「……へ?」
患者――と。
そうクノンが称する存在で、と共有している人物情報は、ひとり分しかないはずだ。
そのひとりにあっさり思い至り、思い至ったからこそ、は間の抜けた声を上げていた。
「イスラの?」
「そうよ。――そしてそのグラフはね、彼の呼吸数を示すものなの」
「……へ!?」
間の抜けた声、再び。あげて、は視線をグラフに戻した。
穏やかな丘陵を描いたのち、極限も極限まで振り切っている線。それを、まじまじと見つめる。
「え、でも、これ、ちょっとヤバくないですか?」
「そう」、
横から伸ばされたアルディラの指が、クノンの示したそれとは別の――極端な谷は描いていないものの、こちらは、上下のゆるやかな丘がしばらく続いた後、平坦な線に切り替わり、また丘が続くという――グラフを指した。
「そしてこれが、心拍を示しているの」
「モニターの故障でないことは、私が保証いたします。その前提において事実を考えますと、患者は、一定の周期で心拍と呼吸が停止寸前にまで陥っていたということになるのです」
「……」
ことばを失ったをどう思ったか、「つまり」とアルディラがつづけた。
「死と蘇生を繰り返している……そう云い換えても間違いではないわ」
あなたは彼と親しくしていたけれど、この現象について、何か知っていることはなかった?
そう問いかけるアルディラの声は、どこか、遠くで響いているようだった。
……覚えている。いや、思い出す。
あんなに懸念していたくせに、いつの間にか記憶の隅に移動していたその光景を……思い出す。
青い空。
吹き渡る風。
戸惑いがちに声をかけてきた彼を。
名前を教えて、と、笑ってた彼を。
倒れ、そして、行かないで、と、強く訴えた。イスラを。
いつか見た気のする、黒い輝き。
薄れていった鼓動が、見る間に復活した、あの光景を。
は――だけが、知っていた。
「……見た、ことはあります」
でも、と、すぐに付け加えた。
「その前にすごく体調悪くしてたから、何か病気でもしてて悪化したのかって思って、何も訊かなかった……」
黒い影のことを云おうかどうか、少し迷った。だけど結局口にせぬまま、それだけを告げる。
体調が最悪以下になっていたのも、その後のごたごたで追及し損ねたのも本当だけれど――ああ、本当に、どうしてあのとき影のことをきちんと訊いておかなかったのか。
もっとも、イスラのあの性格では、答えてくれたかどうかも定かではないが。
「それはおかしいわね。この点以外、彼は健康体だったはずでしょう?」
「ええ。この死亡状態もほんの一瞬です、ライフモニターが誤認と判断して見逃していたほどですから。検査の際にも、持病というようなものは見受けられなかったと記憶しています」
グラフの記されたページから、さらに何枚かめくって、クノンがそう告げる。
うん、それは知っている。
子供たちと元気に遊んでいたし、が走るのにもちゃんとついてきた。記憶の件が明らかになった後も、そんな素振りは見せなかった。
そもそも、そんな持病なんかあったら、軍への入隊なんて認められるはずがない。
「……めちゃくちゃだ……」
イスラに関する情報は、矛盾したものばかり。
見たものと目にしたものと聞いたものが、どこかで少しずつ、時に大きくずれている。
そんな気持ちを零したを、アルディラの腕から降りてやってきた足元にプニムが、慰めるようにとんとんと叩いた。
ことば尻を捕えたアルディラが、「そうね」と頷く。
「たしかに、医学の常識では考えられないこと……けれど、超自然的な力の干渉を前提におけば、その常識が通じなくなることも、また事実だわ」
「たとえば――魔力などですね」
「…………魔…………」
黒い光。それに対して覚えた既視感。
そう、それは、白い剣に由来する。剣をくれた老人の背に、一度だけ見た禍々しい影。
それを、魔の影なのだと老人は云っていた――
「原理はともかく」、
つとクノンがつぶやく。視線は相変わらず、手にしたファイルに落としたまま。
「もしそれが真実だとするのならば、彼は不死である――そう考えなければならないのかもしれません」
「……あるんでしょうか、そんなことが」
「さあ……」、首を傾げようとしたのか、横に振ろうとしたのか。曖昧な仕草と共にアルディラもつぶやいた。「正直、肯定したい考えでないことだけは、確かだけどね?」
それに返すの頷きは、はっきりと大きなものだった。
少なくともそれだけは、ためらわずに同意できるものであったからだ。